16章-3:君に幸あれ
ー2014.09.21ー
昼過ぎて間もなく身支度を整えた洋斗は、まず学校へ向かうことに決めた。
フォートレス能力専門高等学校の教職員たちは、現在は世界有数の能力を活かして周辺の復興活動に助力している。故に、鬼神ノ災禍の再来以降現在も休校が続いていた。さすがに教員全員学校にいるとは考えづらいけれども、最低でも玄ちゃん校長先生くらいは残っているだろうと考えたのである。
ちなみに。
必ずいるであろう人間として坂華木先生の『本体』が考えられるが、鬼神ノ災禍再来時にも表に出なかった人間が復興支援に出向くことは考えにくい。それだけ頑なに外へ出たがらない理由があると考えていいだろうから、本体に直接出向くことは端から考えていない。
全く関係ないのだが、休校期間がすでに前倒し扱いになった夏休みの日数に近づきつつあるうえに、天界兇変の影響を引きずって後回しにされていた前期のカリキュラムも未だに溜まっている。それを補うために果たして後期のカリキュラムはどれほどのハードスケジュールとなるのだろう───道中、洋斗はそんなことを考えて、『自分には関係ない』のひとことと共にそっと棚上げした。
朝から街の復興に勤しむ男たちの脇を抜けて、瓦礫を両脇に押しのけた臨時の道路を進んでいくと例の巨大な校門に辿り着いた。
横に併設している警備員の詰め所に控えていたおじさんへと歩み寄る。
「…………ん、どうしたの君?」
「実は玄ちゃ…………校長先生、坂華木先生、佐久間先生、橘先生に用があります。誰かひとりでも校内におられますか?」
「あー、全員出てた気がするけど…………少し待ってね」
そう言い残しておじさんは奥のテーブルに向き合い、紙束をパラパラとめくり始める。おそらく出校手続きの際に提出する書類をまとめたものだろう。おじさんは数分と経たずにこちらへ戻ってきた。
「うん、やっぱり全員出払ってるよ。校長先生は昨日から夜通し出ずっぱりだからそろそろ帰ってくると思うけど…………校舎内にいるかい?」
「あー…………じゃあそうします」
「分かった。じゃこの書類書いて」
入校手続きの書類に必要事項を書き込んでいく。途中「で、どうして学校に来たの?用事って?」と聞かれたが、馬鹿正直に「もとの世界に帰るので退学の意を伝えに」などと答えるわけもいかないので、それなりにはぐらかしておいた。
書類には『職員室に行く』と書いておいたので、最終的に職員室に行って待っていれば合流できるだろう。手続きを済ませた洋斗は、すっかり歩き慣れてしまった校舎の中を進んでいく。
およそ二年、この学び舎で過ごしてきた。勉学はもちろん、もとの世界では想像もつかなかった能力の発動練習、そして模擬戦闘訓練までここで行ってきた。
おおよそ二年では収まりきれないほどの経験を与えてくれた。
そうして自分の中に積もっていった時間は、もとの世界で友達を作れなかった自分が今まで気づけなかった小さな幸せがあることを教えてくれた。
今後の自分を支えてくれる貴重な一柱となるのは間違いない。
思い出に耽りながらひと通り馴染みの場所を眺めて周り、ゴール地点である職員室に到着する。
コンコン、と扉を数回叩くと聞き慣れた声が返ってきた。
「失礼します」
扉を横に引いた先では腰に刀を提げたままの佐久間先生、その奥にはまるで壁に投げつけたスライムのように、机の天板に溶けかかった坂華木先生がへばりついていた。
「すいません、今帰ってきたばかりですよね?」
「そうなんだよー、いつもより遠いところで長い時間細かい『操作』してたから久々に疲れちゃった…………」
「とまぁこんな調子で、学校で応対する用の人形を作る余裕も無かったみたいです。面倒をかけましたね」
心底疲れ切った調子の坂華木先生をしっかりとフォローする佐久間先生。ここはさすがに幼馴染の仲で、いつも通りの息の合った様子が垣間見える。
「それで、どうしたんですか?」
佐久間先生が洋斗に先を促す事で、話題は本筋に移る。
「じつは、その…………もとの世界に帰る方法がわかりました」
「な…………!」
「うそォ!?」
佐久間先生は静かに目を見開き、机で伸び切っていた坂華木先生は身体を跳ね起こして、ぐるん!とこちらを向く。反転の勢いで髪の毛の一部が飛び散る様を見ながら、洋斗は要件を続けた。
「それで、この学校を退学するために必要な書類などをもらいに来ました」
「あら…………中退するの?」
「そうです、方法が分かったのなら帰るのはいつでも可能なのでは?」
「それは、まぁ…………あまり後々に引きずるのは良くないかな、と思いまして」
「……………………そう、ですか。分かりました」
やはり学生が学校を中退することは滅多にないのだろう。佐久間先生が「必要な書類を探してきます」と言って職員室の奥の部屋に入っていった。
「…………でも、正直言って惜しいわねぇ」
残された坂華木先生が座椅子にまたがり、椅子の背もたれにずぶずぶと顎を沈めながらぼんやりと呟く。
「このままここを卒業して専門職にでも就いていれば出世間違いなしだったのにね。あなたの実力には私達も驚いてたのよ?」
『専門職』というのは恐らくこちらの日本が誇る自衛軍能力活動部隊の事だ。
能力という概念が主流のこの世界では戦争の様相も大きく異なる。戦争での勝敗を分けるのは通常の戦略に加えて兵が持つ能力の相性、属性の連携だ。その上能力を打ち消し生命力を弱める事ができる鉱石も存在し、それを弾丸の材料とした銃火器の使いどころも重要になって来るため想像以上に頭を使うのだ───と橘先生が授業で言っていた。
もちろんそうした現在の戦争様式に相応しい軍隊を大方の国が所有している。日本におけるその軍隊が『自衛軍能力活動部隊』であり、部隊への進路を大きく設けているのがここフォートレス能力専門高等学校というわけである。
こっちの世界ではそんな進路もあったのか───そんな事を洋斗はまるで他人事のように考えていると、佐久間先生が用紙を片手に戻ってきた。
「それを渡す前に、ひとつだけ、聞かせてください」
普段はぼんやりとした風貌の佐久間先生がいつになく真っ直ぐな目で洋斗を見つめ言う。
「学校生活は…………ここでの二年間は、いかがでしたか?」
洋斗は生活を振り返る。
景色を眺めるように振り返り、そして何も迷うことなく答える。
「いろんなことがあったけど…………とても、楽しかったです」
そう言いながら、洋斗は用紙を受け取った。
口にしたのは二年という歳月とは裏腹に短く簡潔なひとこと。だが大方の思いは伝わってくれたのだろう、洋斗の言葉を聞いた教師二名は満足したように頬を緩めた。
「そうか。それなら上出来じゃ」
しわがれた声が背後から響き、洋斗は入口の方を振り返る。
「その言葉が聞けて、私達も嬉しいです!」
そこには杖を突いたご老人玄ちゃん校長先生と、生き字引の温厚担任教師橘先生が立っていた。もしかしたら門の警備員がこの二人にも要件を伝えてくれたのかもしれない。
「わざわざありがとうございます」
「良い良い。嵐みたくいなくなりおったいつかのクソガキと違って、帰る前にちゃんと手続きを踏んでくれるんじゃ。むしろ有り難い」
(親父のことだろうなぁ…………どれだけやんちゃしたんだあの人)
そう思いつつ親父である桐崎龍次の学生時代を想像してみる。真っ先に浮かんだのは親父が玄ちゃんの毛根をイジり倒して砂の竜に追いかけ回されている光景だった。
やりかねないな、と静かに飲み込んだ。
「戻ったら、儂のストレスの分だと言ってあのクソガキを一発殴っといてくれんか?他でもない儂が許可する」
「えぇ、最大出力で叩き込みます」
そう言って二人で笑いあう。その最中「『散った毛根』の分でしょ?」と口を滑らせた坂華木先生は唐突に「痛ったいなもお!?」と叫んで頭を抑えていた。
「もとの世界でも頑張ってくださいね。私たちも幸せを願っています!」
橘先生も教室の壇上で見せるのと同じ朗らかな笑みで送り出してくれる。佐久間先生、坂華木先生も同じように卒業生が巣立つ時の教師の目で自分を見てくれていた。
「はい、頑張ります!」
洋斗は確かな声色で答える。
───最高の恩師たちが自分を支えてくれていた事への感謝を込めて。
~~~~~~~~~~~~~~~
大きな校門から学校を出た洋斗は、その足で次の目的地───芦屋の家へと向かった。もちろんのこと、家に来るよう鈴麗にも頼んである。時刻を見ると予定していた待ち合わせの時間に少し遅れそうだった。
歩いていると『雄大』を思わせる校門とは一風変わって『荘厳』の雰囲気を醸す堂々たる正門。当の本人は「見た目だけ出来た飾りだよ」と虚しく笑うだろうが、彼の苦悩を知っている身としては必死に倒れまいとする根強さを感じるのだった。
正門とは時代が合わないインターホンの前に立つ───が、いざ目の前にすると躊躇ってしまう。これから別れを告げに行くと自覚すると、呼び鈴に指が伸びかけた状態で半端にも行き詰まってしまう。
「…………何してるのよこんな所で」
そんな彼にかけられる声がひとつ。橙色の髪がかかる肩を落とし、呆れた様子で佇む鈴麗がいた。
「あぁ…………何となく、な」
「もう、親友の家入るのに何を躊躇ってるんだか。別に断られるわけじゃあるまいし」
そう言って、洋斗が散々押しあぐねたインターホンの呼び鈴をあっさりと押してしまった。
『はい』
「親愛なるアナタの彼女サンですっ☆」
ブツっ───と。
音信が、途絶えた。
「…………断られてんじゃねえか」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
鈴麗が笑顔を崩さずそっと呼び鈴を押下、無言で彼氏を呼び戻す。
『はい』
「ついでに洋斗もいるからさっさと入れなさい。入れて」
『むしろそっちが主役じゃないか…………わかった、門は開けてあるからどうぞ』
鈴麗が扉を押すと、あれだけ堂々と門を遮っていた大扉があっさりと口を開ける。軒先では芦屋一番の側近、晴美さんが出迎えてくれていた。
「てか、言った時間過ぎてんだけど?」
「いいじゃない。行き遅れた主役ひとり巻き込んだんだから結果オーライよ」
そんな小言を交わしつつ、二人は晴美さんを追って最奥の総長のもとへ出向く。
縁側を渡り、襖のひとつを開けると件の総長、芦屋道行がぽつんと座っていた。
「やぁ、待ってたよ」
「悪い。前の用事が思ったより長くなった」
机ひとつに本棚および箪笥が複数。明らかに空間を持て余した部屋に、晴美さんを除く三人が腰を下ろす。柔らかくざらついた肌触りと鼻をくすぐる藺草の香り。とても懐かしい、久しぶりの畳の感覚だった。
「それで、話って何?」
皆が座って一息ついたあと、真剣な鈴麗の瞳が洋斗へと向けられる。芦屋も同様の色をした目で洋斗を見ていた。
(…………呼んでおいて、誤魔化すも逸らかすも無いか)
後から日和ることのないように二人を前もって集めたのだ。最初からその選択肢はない。
「もとの世界への、帰り方が分かった」
「……………………」
「…………それで?」
だからこの話題が来ることを想定はしていたのだろう。驚きこそすれ慌てるようなことはせず、じっとその先を促す。そのおかげか、洋斗の口調にあった先程の躊躇いが和らいでいた。
「だから、近々もとの世界に帰ろうと思ってる」
ピン、と張った弦のような、緊張を孕んだ静寂が室内に立ち込める。
───しかし、この静寂もそう長くは続かなかった。
「………………………………そっか」
「ほら、やっぱり言った通りじゃない」
納得していた。
それも尋常ならざる速さで。
まるで、問題をすべて聞く前にすでに回答を得ていたかのように。
「帰る、って思ってたのか?」
「何となくよ。故郷を思う気持ちは私だって分かってるもの」
「それに、僕たちにそれを止める資格はないとも思ってたよ。前に話題に挙がって二人で話をしてたんだ」
「……………………さすがだな」
洋斗は芦屋が頭の回るヤツだと知っているし、鈴麗は大事に思っている人の事を真剣に考える他人思いなヤツだと知っている。
だからこういった事をあらかじめ話していても不思議ではない───と理解はしつつも、やはり大きく身構えた上で実践されると感嘆せずにはいられない。
フローゼル家にユリアを拉致された時。天界兇変でユリアを救った時。鬼神ノ災禍で嵯鞍洋斗との一騎打ちに向かう時。そして、自分が別の世界から来た事を打ち明けた時。
彼らの聡明さや仲間思いの行動に何度となく助けられた。
自分がここまで間違えずに来られたのは彼らのおかげだ、とまで思っているのだ。
今でもその感謝が潰えることはない。
「本当に、今までありがとう」
小恥ずかしかったが、なんの躊躇いもなくそれを言うことができた。
「ここまで戦えて、ここまで楽しい学校生活を過ごせたのは二人のおかげだ」
しっかりと二人に目線を合わせ、しっかりと感謝の思いが伝わるように言葉を伝える。それに答えるように、芦屋と鈴麗はそろって目を逸らしてむず痒そうに頬をかいた。
「…………思えば入学式で僕に声をかけてくれたのがきっかけだったね」
「私は…………あぁ、陣式で能力暴発させて…………」
「そうだったな。そこから流れで俺たちに能力の出し方教えることになって」
「結局できなかった…………思えば、能力が無い世界から来たから出せなかったんだね」
「そういうこと。あの時はどう誤魔化すかで毎日頭が一杯だったぜ」
「そうだったのね………………………………私達も楽しかったわ」
「うん。洋斗から色んなことを教わったし、洋斗のおかげで色々な体験ができたよ」
「俺のおかげかは分かんないけど…………まぁ確かにあんな経験はそうできるものじゃないよな」
学校テロ事件。
フローゼル家のユリア誘拐。
上海内乱。
天界兇変。
鬼神ノ災禍。
命を狙われたのだから、できる事ならしないに越したことない経験なのは確かだ。けれど、これらの経験は『洋斗との実力差』という形で二人に今後の成長の兆しを示してくれた。数多の出来事を通じてその差を実感し、二人は向上心の火を胸に灯したのである。無論二人は、この先も自己研鑽に力を入れるつもりだった。
そんな話をするうちに、自然とメンバーの残りひとりの存在が浮き彫りになる。
「……………………そういえば、この事をユリアさんには?」
「もちろん伝えた。誰よりも先に」
「そう…………ユリアちゃん、止めたでしょ?」
「…………そうだな、たくさん泣いてくれたよ」
ユリアの静止を振り切るより先に彼女の告白を断ったことは伏せておいた。彼女が振り絞った勇気、彼女が打ち明けた想いはどれだけ重くても…………いや、重いものだからこそ自分自身で背負う義務があると思ったからだ。
「でも、振り切る。ここで折れたくない」
「大丈夫だよ。いざという時は僕たちがいる」
「そうよ。泣いてても、同じ第七班の親友としてユリアちゃんを見捨てたりしないわ」
柔和な笑顔で言う鈴麗の顔が、真剣味を帯びる。
「だから好きな子泣かせてまで貫いたぶん、めげずに行きなさい。そうすれば私達も、ユリアちゃんも、きっとまた進めるようになるわ」
それは自分の背中を全力で押してくれる力強い言葉だった。そこまでの本音を言われては、洋斗も真面目に応えざるを得なかった。
「…………あぁ、がんばるよ」
「ま、もし怖気づいたら私のところに来なさい。私がこの世から蹴り飛ばしてあげる」
「言い回しはともかく、それはありがたい」
「石柱でもいいよ?」
「それはやめろ」
そう言いながら三人で笑い合う。
その後も途切れそうで途切れない、ぶつ切りの会話がだらだらと続いた。この談笑が最後だと分かっているからこそ、空間を満たす温かい空気を終わらせる機会が見つからないのだ。
そんな割り切れない空気を感じ取ったのは、案の定人の感情に鋭敏な鈴麗だった。
「…………で、洋斗はいつ元の世界に帰るつもりなの?」
「…………今日中、なるべく早くに」
「ずいぶん急だね」
「元々刀一本だけ持ってこっちに転がり込んで来たからまとめる荷物も無いし、やることと言ったらこの書類書くくらいだからな。決意が鈍らないうちに」
「後悔は、無いのね?」
その問いをしっかり時間をかけて見つめ直し、その答えを首を縦に小さく振ることで示す。
その答えを見た鈴麗は、その目を障子へと回した。
「それじゃあ、そろそろ出ないと日が暮れるんじゃない?」
気付けば、障子紙から差し込む昼過ぎの白い光に夕方の橙が混ざり始めていた。
「確かに、いつまでも居座るわけにいかないしな」
そう言って立ち上がる洋斗に合わせて二人も立つ。その足で、芦屋を先頭にして玄関へと進んでいった。
門の外ではからりと乾いた風が一同の頬を撫でた。その感触に心地よさを感じながら、洋斗は二人へと振り返る。
「……………………それじゃあな」
「うん」
「じゃあね」
簡潔な挨拶を交わし、二人に背を向ける。その流れに任せ、なるべく早足で門前を離れるのであった。
~~~~~~~~~~~~~~~
「……………………行ったわね」
「そうだね」
彼から伸びていた影すらその視界から消えた頃、鈴麗はぽつりと呟いた。
「…………もう、会うこともないのよね?」
「まぁ、そうなるかな」
「……………………そう。そうよね」
「平然と振る舞えてたから、ホントは分かってないのかと思ったよ」
「あそこで泣きじゃくってどうするのよ。最後の最後で、私達が決断鈍らせるわけにもいかないじゃない…………っ」
俯いて鼻をすすり始めた鈴麗の頭に優しく手を添える。
「がんばったね」
「……………………………………………………うん」
鈴麗の震える肩を、芦屋の腕が包み抱く。彼女はその腕に引かれるように、額をそっと彼の胸に押し当てるのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~
それからセントヘレナ邸宅に戻った洋斗は、早速退学届の記入に取り掛かった。
書類を一瞥し、書けそうな部分から順に埋めていく───と言っても、記載項目は氏名も含めて三ヶ所しかない。
まず、退学の理由。
ここまで来ると正直に書いてしまいたいが、誰が読むかもわからないし教職員全員が自分の成り行きを知っているとも限らない。
数分にわたって頭を抱えた挙げ句、『一身上の都合により』という極めてありきたりな妥協案に留めることにした。
そして、最後の項目。
これは『何を書けばいいのか分からない』という意味ではなく、ただ書くのを躊躇って後回しにしていた部分。
その項目は、保護者の署名および捺印欄だった。
「今の俺の保護者って……………………ゴードンさん、だよな?」
フォートレス能力専門高等学校への入学手続きに自分が参加していたわけではないが、恐らくゴードンさんがその手続きを済ませてくれていたはずだ。真摯な人間であるゴードンさんが勝手に他のメイドさんの名前を使って手続きをしているとは考えづらい。
すなわち退学手続きを済ませるためにはゴードンさんに署名してもらう必要があるのだ。
署名以外の項目を埋めた書類を机に置いておくという手も脳裏に浮かんだが、それをしたところで散々世話になった人たちに黙って屋敷を抜け出していい理由にはならない。洋斗は素直に『元の世界への帰還を伝える良い機会を得た』と考えることにした。
執事の姿を探して歩を進めるにつれ、洋斗の身体が厨房の前をすり抜けようとしたのだが…………。
「…………ん?」
すり抜けざまに視界の端に映った異様な空気が、その足を止めさせた。
そこにはお目当てのゴードンさんと、セリカさんをはじめとした家政婦さんが数名。彼らは揃ってハンカチを口に当て、それぞれ本や赤い液体の入った霧吹きなど様々な装備を手に鋭い眼光を四方に向けている。
その空気は到底厨房が放っていいものではなく、まるで剣豪同士が相対しているような、殺気すら帯びた様相だった。
「あの、何やってr
「静かに」
話しかけることすら許さない張り詰めた時間が続いたが───。
「……………………いました」
ぽつり、と、メイドのひとりが呟いた。
「場所は?」
「三…………いや二時の方角」
その一言で中心に固まっていた従者一同が動き出した。
方向を指示したメイドさんの正面を正午として、霧吹きを持ったメイドさんが一時と四時に、その他のメイドさんが二時半方向の食器棚前を陣取る。
「敵影動かす、私も噴霧と同時に討伐班後衛に加わります」
「スリーカウントで噴霧。三、ニ、一…………今!」
ぷしッ!───と。
両端からの噴霧の音とともに一帯がつんと唐辛子系の香辛料の香りが鼻を刺す。
その後、時間にして数秒後の事だった。
食器棚の影から、逃げ道を無くした小さな『黒い影』がメイドさんの一人の足元に───!
「───せッ!!」
パァン!!、と。地面にメンコを投げるように、もはや美しいとさえ言えるフォームで這い出た影へと料理のレシピ集を叩きつけた。
点でも線でもなく、面。
五体四散しない程度の程よい衝撃で広い範囲を捉えるための洗練された攻撃だった。
「音が悪いわ、もう一発お願い!」
叩きつけた本の上から、さらにもう一冊のレシピ集が叩き落とされる。
「第二陣を展開、二人は下がって。念の為索敵を再開、噴霧班は範囲を狭めて」
両端にいた二人がその間隔を縮めながらスプレーを噴いていく。その間隔は最終的にゼロとなったとき、一同の視線を向けられた索敵班は神妙に一言。
「…………残存敵影、なし!任務全工程終了です!」
その言葉に、メイドさん達は皆歓喜の渦に包まれた。
ひとしきりの歓声が収まって従者一同が通常業務に散ったので、改めてゴードンさんのもとへ歩み寄った。
「…………お疲れ様でした」
「食事を預かる者の天敵ですからね、効率よく処理できれば衛生的にも安心です」
「軍隊さながらの連携でしたしね」
「そうですね…………似たようなものだ、とでも言っておきましょう」
燕尾服の彼はそんな冗談を言いつついたずらっぽく口角を上げた。
───ニック・ゴードン。
ユリアを始め失墜以前からセントヘレナ家を支持してきた執事。鬼神ノ災禍の際に果敢にも鬼に拮抗した『救世の第七班』のメンバーであり、こちらの世界にいた桐崎龍治の級友。そして別世界の存在を知る唯一の理解者だった人だ。
家主である両親ですら狂乱の果てに手放した空っぽの邸宅、そこに置き去りにされた養子のユリアと執事のゴードン、そして路頭に迷っていたところをユリアに匿われたセリカを筆頭とするメイド達。彼らは共に苦難を乗り越えた共同体、言葉通りの『家族』だ。今回の掃討作戦だって彼らが常に同じ屋根の下で生活を共にしてきたからこその連携だろう。
そんなセントヘレナ家の『和』に加わることができたことはこの世界に転がり込んできて最初の奇跡であり、仮に異界の門で二人が出会わなければその時点で洋斗の人生が終わっていた可能性もあり得る。
「それで、私に何か用事があったのでは?」
「…………実は、この屋敷の保護者としてこの用紙に署名をお願いしたいんです」
差し出された用紙を受け取り、ざっと目を通す。すぐにその目の色が変わるのが見えた。
「……………………これは?」
「もとの世界への帰り方が分かりました」
疑念の色に変わっていたゴードンさんの瞳が、今度は驚嘆の色に変わる。洋斗が曖昧な記憶を頼りに又聞きの理屈を説明するその間も、彼は黙ってそれを聞いていた。
「…………それで、すぐにでも帰りたいと、そういう訳ですか」
説明が終わり、改めて書類に目線を落とした彼は一言呟いた。その声には、まるで外の天気が雨だと知ったときのような暗い気持ちが澱んでいた。
「はい。なるべく早く…………出来るなら今日中にでも」
「………………………………分かりました。セリカさん達には私から伝えておきましょう。それで、お嬢様は何と?」
『伝えていない』という可能性を全く考えていない台詞に、流石に言葉を失いかけた。
「ユリアは…………精一杯引き留めようとしてくれました。だけど、振り切ります」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………そうですか。分かりました、印鑑は部屋にありますので着いてきてください」
彼は説得も追求もせずに踵を返し、洋斗は彼の背中を追いかける。部屋までの道中は、決して無言の時間にはならなかった。
「しかし、いざお別れともなると随分呆気ないものですね。桐崎龍治が元の世界に帰った時のことを思い出します」
「親父、ですか?」
「えぇ。桐崎龍治が元の世界に帰ったのは卒業式の数日後だったのですが、帰る前に…………まぁ、それなりに大きな騒ぎを起こしまして。その騒ぎから身を隠すように、結局私になんの挨拶もせずセーラ・カリファーごとこの世界から遁走…………すなわちトンズラしていったのです」
この言葉に洋斗は、この世界での親父───桐崎龍治の生活をほとんど知らないことに気づく。
ごく最近までこの世界の桐崎龍治と元の世界の親父はパラレルワールドによる『同一だけど違う人間』だと思い込んでいたので知ろうとも思わなかったのだ。それが完全に同一人物だと概ね確定した今は、ここでの親父の生活について是非とも知りたいと思う。
しかし洋斗は、この場でそれについて深く掘り下げるつもりは無かった。あの親父の武勇伝なのだからほんの数分で終わるわけがないし、何より元の世界に帰ってから親父自身の口から聞いてみたかったからだ。
「その点、洋斗様は人が出来ていますね。戸籍上とはいえ桐崎龍治の息子とは思えない」
「それなりに振り回されましたよ。おかげで毎日ドタバタで楽しいです」
「きっとその波乱はこの先も続きますよ。なんと言ってもあの桐崎龍治ですから」
ゴードンさんの私室に到着する。その流れで机の引き出しから取り出した印鑑を書類の保護者欄にしっかりと捺してくれた。
「…………それでは。くれぐれもお体にはお気をつけて」
「はい、本当にありがとうございました」
洋斗は書類を片手に、そして別れの言葉を胸に抱きゴードンさんのもとを離れた。
~~~~~~~~~~~~~~~
日が傾いて空がすっかり橙色に焼けてきた頃、出立の準備を始める。
元々この世界に持ってきた荷物は日本刀たった一本だけだった事もあって持ち運ぶべき荷物はさほど多くない。しかしそれでも、持って帰るかどうか迷っているものがひとつだけあった。
備え付けの棚に丁寧に畳んでおいた紺色のマフラーを取り出す。これは去年のクリスマスにユリアからもらったプレゼントだ。たとえどの世界にいようとこの贈り物が大切な事に変わりはない。だが一方で、この思い出の品が悔恨の種になって元の世界での生活がこの世界にいた時間に引きずられてしまうのではないかとも思っていた。詰まるところ、『全て切り捨てる』と言っておいて思い出の品を持って帰るのは、折角打ち立てた決意を反故にしてはいないかと思うのだ。
「…………………………………………」
棚の前に胡座をかいて座り込み、マフラーを見つめながら悩みぬいてみる。夕日に照らされたマフラーを数分と眺めるが、思考は堂々巡りで一向に進展の気配がなく、結果的にほとんど唸るだけの時間だけが過ぎた。
手に掴んでいたマフラーを、今度は首に巻いてみる。今は九月末、もうじき秋になろうかという時期になって過ごしやすい気温まで下がってきている。それもあってマフラーを巻いたからといって首が蒸されるほどの暑さは感じない。
しかし、熱を感じるのだ。
マフラーと交換するかたちで贈った月と星のモチーフが付いたペンダントと、それを身につけて微笑む彼女。その姿を火口としてこの世界で生まれた思い出の数々が燃え上がる。
首元ではなく、胸の奥のほうが確かな熱を帯びてくる。
───その熱を自覚して、このマフラーは元の世界に持って帰ってはいけないものだと悟った。
マフラーをもとの棚に戻しそっと蓋を閉める。
「良いのですね?」
自分の姿を見て心配に思ったのか、刀の状態で壁に立て掛けておいたはずのナギが寄ってくる。あえてそう聞いたのは共有している自分の心に逡巡があるのを見たからだろう。
「うん、大丈夫だ」
そう言って小さく微笑んだ───そのつもりだ。ナギもまたその顔を見て「そうですか」と微笑んだ。
「…………では、私もそろそろ物言わぬ刀に戻らなければなりませんね。いつまでも子供の姿で背負われているわけにもいかないですし」
ナギはそう言いながら床に両膝を突いて居直る。帯びる空気の静謐を感じて、洋斗も胡座のままナギへと向き直る。
「我が柄を預け、我が刃の閃きを授けた我が主、桐崎洋斗様。人の身を授かった時から貴方が私に与えてくださった時間と幸福は私の宝物です。物言わぬ刀剣に戻ったとしても、この記憶が身に宿る限り、我が刃は星のように白く輝き続けるでしょう。この身に唯一の輝きをくださった主様には感謝の意が絶えないのです。本当に、ありがとうございました」
整った正座を崩さず、床に手を突くナギ。そんな彼女の頭にそっと手を置いて優しく撫でてやる。
「最初、いきなり全裸で現れたときの衝撃は今も忘れられないな」
「あ、あればかりはどうしようもない…………というより本来刀が服なんて着てるはずないのです!」
「いやそれは…………まぁいいか」
頭を撫でていた手を離す。物欲しげに顔を上げたナギと合った目を離さないよう努めながら、洋斗も思いを伝える。
「俺からもお礼を言うよ。ナギがナギの意志で人間の身体を選んでくれたからこそ、俺はお前と言葉を交わすことができたし、お前と一緒に行動することができたし…………お前と心から理解し合うことができたと思う。これはきっとナギじゃないとできなかった事だと思う」
「…………っ」
少女の瞳が潤む。
こうして武器の感情を知ることができる人間が、果たしてどれだけいるだろう───そう考えると、この対話がいかに希少で幸福なことかを強く実感できた。
「きっと、いろんな戦いを乗り越えて、こんなに楽しい時間を過ごすことができたのも、黒刀逆薙がナギになってくれたおかげなんだ。俺の相棒が黒刀逆薙で良かったよ。本当にありがとう」
一方で、潤んだ瞳で感謝に聞き入るナギも同じような幸福を感じていた。
「ぅ…………もったいない、お言葉です…………っ」
───お前じゃないとできなかった。
───相棒がお前で良かった。
『黒刀逆薙』という銘を授かった名刀とはいえ所詮は道具、代用品が五万とあるうちのひとつでしかない。そんな道具の中で、このような感謝の言葉を言ってもらえる物は果たしてどれほどあるだろうか。
この言葉の持つ価値は、人が思っているより何倍も重いのだ。
世界中、八百万の道具の中で一番の幸せ物だと泣きじゃくるほどに。
少女の涙が切れるまでに、多少の時間を要した。
「…………それでは。これより先、私はひと振りの刀となって人の身に成ることはできません」
鼻を真っ赤にしたナギは最後の別れを告げる。
「そうだな、もとの世界に戻ったら刀の手入れの仕方でも勉強するよ」
少女はその容姿に違わる年相応の笑顔を見せて、主に背を向ける。
───そして。
「ありがとう、です!」
その一言を残してカッ!!、と強烈な閃光に包まれる。思わず閉じた目を開く頃には少女の姿は無く、代わりに鞘が黒い一本の刀が転がるだけだった。柄頭と鞘の下緒には少女の浴衣と同じ山吹色の紐がしっかりと結ばれていた。
刀を掴み上げる。
机には退学届が一枚。
手には刀が一本。
これで、準備は全て整った。
既に別れを言っているのにまたばったり会う───となると座りが悪いので、誰かと会うリスクを極力減らすために部屋の窓から外へ出る。この時間なら庭掃除をしているメイドさんもいないはずなので、ユリアやゴードンさんに会わないようにそそくさと庭を抜けた。
庭を抜けて数分と経たずに森に入ることができる。茂る草を踏み分ける道中、本当に『異界の門』は開いているのだろうか?という今更すぎる疑問が浮かぶ。
門の出入りについて聞かされた次の日に確かめに行こうかとも考えた。しかし物は試しと突っ込んだ指の先から掃除機が紙を吸い込むみたく丸ごと全身引きずり込まれる───なんて事になっては堪らない。
けれども洋斗には「もう行ける」という一種の確信みたいなものがあった。それにナギは門の確認をする前に別れを告げ、物言わぬ刀に戻った。それも開門を大方察してのことだろう。
浮かんだ疑問をものの数分で払拭し、洋斗は獣道を進む。
視界の奥に大樹の影が見える頃には、暗い紫の空に紅蓮の雲が燃えていた。
大樹の樹皮にめり込むように一体化した石造りの簡素な鳥居のような門が見える。『異界の門』と噂されるそれは雲の朱色を受けて木陰から妖しく浮かび上がっていた。
門の前に立つ。
見上げるほどの大樹を前にして、身をかがめればくぐれるほどの石の門と向かい合う。
試しに逆薙で門の入口を塞ぐ樹皮を小突いてみる。すると鞘は樹皮を貫通し、門の先へと沈んだ。ゼリーに爪楊枝を刺したように、刺している実感すら薄れるほどにすんなりと。
───なお、『腕ごと持っていかれる』なんて事は起こらなかった。
どうやらこの世界で果たすべき『運命』とやらを完遂できているらしい。
(……………………そっか)
目の前で起こった現象を、洋斗は特に驚きもせずに眺めていた。
(もう、帰れるんだな)
ただその一言だけが脳裏に浮かんで消える。
感情は思ったほど揺らがなかった。
ようやっと悲願が叶う喜び、この世界との別れへの憂い、思ったよりすんなりと門戸を貫通した驚き───等々の感情がぶつかって混ざり合い、結局揺らぎが表に現れなかった。
一度逆薙を引き抜いて、目を閉じる。
吸って、吐く。
肺の空気に胸中の感情を溶かして吐き出す。
「…………よし」
石の鳥居に手をかけてその下をくぐるべく身をかがめる。
「洋斗くんッ!!」
……………………………………………………。
耳を疑った。
しかし、この声を聞き間違うはずもなかった。
堪らず振り返ると、肩で大きく息をする少女が立っていた。
「なんで…………」
「私、生命力を…………追えます、ので…………っ!」
ぜぇぜぇと、洗呼吸を繰り返すユリア。彼のあとを全速力で追いかけてきたのだろう。
心が揺らぎそうになるのを、辛うじて抑えた。
「ユリア。俺は、もうここに残るつもりは「分かってます!」
遮るように叫んだ。その声には確かな意志が感じられた。
「分かっている、つもりです。けど、あんなお別れが最後なんて、私はイヤです」
そうだった。
ユリアと最後に会ったのはデートの日で、陰鬱な空気を残して洋斗から逃げるように自室の閉じこもった時だ。
最後としてはあまりにも後味の悪い。
「このままじゃいけないって思ったんです。洋斗くんは私の気持ちにしっかりとした決意で応えてくれました。だからその少しでも、私はその決意と同じだけ伝えたい、って思ったんです」
しっかりと息を整えて、キッと想い人の瞳を見つめる。そして───。
「私も、頑張りますから!」
ユリアは声高らかに宣言した。
「私がみんなの先頭に立ってセントヘレナを支えられるように勉強も頑張ります!銃の練習だって欠かさないで今よりもっと強くなります…………!」
ぽろ、と。
溢れる思いが涙となって流れる。それでもユリアは思いの丈を叫び続ける。
「ここまで頑張れるようになれたのは、洋斗くんのおかげです。だから…………私はっ、洋斗くんが遠くに行っても、離ればなれでも…………大丈夫ですから…………っ!」
涙をぽろぽろこぼしながら、それでもユリアの表情は笑っていた。
心配かけまいと踏ん張ってくれているのだ。
そんな顔をされては彼女のもとに戻るわけにはいかない。
目頭から熱いものが溢れてくる。
洋斗は思わずユリアのもとに駆け出しそうになるのを抑え込んで。
───代わりに洋斗は彼女に背を向けた。
「…………ありがとう」
それが、洋斗が口にできる最大限の気持ちだった。
「俺も、頑張るよ。ユリアに負けないくらい」
鼻の奥がつんと痛む。胸の奥はとても温かく、瞳を潤ませるほどだった。
(…………行こう)
こうして強く背中を押してもらったのだ。
もう迷いはない。
震える手で鳥居を撫で、そのまま鳥居の下をくぐる。彼が時空の奥へと沈み込んだあとには樹の根に落ちた涙の雫と嗚咽を堪える少女の背中だけが残っていた。
彼の姿が樹皮の向こう側へと消えた。
もう二度と届かない、遠い場所へと行ってしまった。
「……………………」
成長の過程で大樹と一体化してしまった石の鳥居。
この石門は通称『異界の門』と呼ばれていて、この門をくぐると異世界に行けるという噂話が闊歩している。
夕焼けに照らされて神性すら帯びる門の前で、頬を濡らした一人の少女が立ちすくんでいた。
「お嬢様」
彼女に付き従う執事が後をつけていたのか、壮麗な男が心配そうな顔で歩み寄る。
「…………大丈夫です」
少女は袖で目元をぐしぐしと拭い、赤く腫れた目で男に向き直る。
「泣いてる暇なんて、ないですから!」
そう言って、少女は守るべき我が家へと戻っていった。




