16章-1:帰還の時
ー2014.09.18ー
───世界は、溢れかえるほどの神秘に満ちている。
太陽の光が燦々(さんさん)と降り注ぎ、生命の母なる大地を照らす。
空はこの世のすべてを包み込み、雲の流れは緩やかな時間の流れを体現する。
涼しい風がそっと頬をなで、夏の去り際を感じさせる。
木々草花も風や光を受け、自分を歓迎しているようだ。
───さて。
なぜ、校門の前に立つ少年桐崎 洋斗が長々と世界の神秘について思っているのかというと───。
「ついに、時は満ちた…………ッ!!」
この日は遂に永い入院期間が終結を迎えたのである。この流れは以前にもあった気がするが、前回は夏で今回は秋に差し掛かっており、昼過ぎに吹くその風はやや冷たかった。
そして、前回と違う部分がもうひとつ。
「お、お待たせしました洋斗くん!」
「なのです!」
見舞いに来たのは芦屋と鈴麗ではなく、ユリアとナギだった。
丁度季節の変わり目と時期が被った事もあり、雨の日の戦いの中で泥だらけになった浴衣を買い換えたらしい。ナギの服装は変わらず裾が膝上までしかない子供用浴衣だが、色は落ち着きのある濃紺からパッと華やぐような山吹色に代わっており、見た目相応の活発な雰囲気を引立てていた。
ユリアは、下は膝が隠れる長さの群青色のフレアスカート、上は白のタンクトップに濃い水色のカーディガンを羽織っている。夏の余韻が残る落ち着きのある服装で、濃い色をメインに据えているためかユリアの金色の髪がとても良く映えた。
山吹色の袖とブロンドの長髪をなびかせて、二人がパンプスと下駄を鳴らして走ってきた。
「ありがとな、わざわざ迎えに来てくれて」
「い、いえ!すいません、遅れてしまいました!」
「まったく、高々病院までのイチ往復のために入念に服を選びすぎなのです」
「ナギちゃんちょっと静かに」
「あっハイ」
ファッションに潜む本心の漏洩を一声で封殺し、なおも柔和な笑顔を崩さないユリア。すっかり体を硬くしてしまったナギをよそに、影の消えた朗らかな微笑みが洋斗に向けられる。
「それでは、行きましょうか」
「…………そうだな」
「です」
そう言って病院を後にした。
病院からセントヘレナ邸までの帰路の中で一行は、洋斗が嵯鞍洋斗と死闘を演じた中心地であり、現在進行形で復興に勤しむ居住区画を通過した。
局所的にハリケーンが通り抜けた跡のような、あるラインを境に瓦礫と荒地に変貌する風景。その風景は実際に戦っていた者には見えなかった戦闘の凄まじさを物語っていた。
「…………『鬼神ノ災禍』のときもこんな感じだったのかな」
思わずと言った様子で呟く洋斗。
芦屋の言葉を通して騒動の全容を聞いた時と、自分が鬼となって直接鬼と相対した時。思い入れや抱く心境は天と地ほどの差がある。
「どうなんでしょう。その時の記憶が曖昧で…………私がセントヘレナ家に引き取られた頃には大方の修繕が終わってましたし…………」
鬼神ノ災禍が起こった年、時期的にユリアは幼稚園児くらいの年齢にあたる。これほどの光景なら脳裏に焼き付いて離れそうもない気はするが、一方で相当の歳月の中で記憶が薄れるのも無理はないともいえる。
「けど───」
ユリアもそのほんの一端を担った者のひとり。傍観者を貫いてはいられなかった。
「多分前もこれくらいひどい被害が出て、これくらい早く立ち直っていったんだと思います」
それは当事者としての率直な言葉であると同時に、この街を助け、この街に助けられながら二人三脚で支え合って歩いてきたセントヘレナ家の後継者としての言葉であった。
それを聞いて、改めて街の風景を見やる。そこは確かに瓦礫が山積する荒廃したものだったけれど、騒動の直後にもかかわらず避難から戻ってきた住人たちが復旧に勤しむ姿は力強い。彼らの活力は落ち込むどころかむしろ煌々とみなぎっているようにさえ見える。
そこに人間の力を感じた気がして、洋斗は「そうだな…………」と感嘆混じりの言葉を返した。
それから数分歩いていると───。
「あらあら、ユリアちゃんじゃないかい!」
快活な声の先から、お盆を持って晴れやかな笑顔を向けるお肉屋のおばちゃんが歩いてきていた。手持ちの盆にはお茶入りのコップが乗っている。復旧に勤しむ男たちに渡すものだろう。
そしてその言葉を聞きつけて、周辺で仕事をしていた男たちも手を止めて彼女のもとに集まる。すっかり井戸端会議の様相を呈していた。
「久しぶりじゃないかユリアちゃん!元気そうで何よりだぜ!」
「ありがとうございます!おかげ様でこの通りピンピンです!」
騒動で避難して以来の再会で、世間話に花が咲く。騒動の中心人物でこの街を破壊した張本人でもある洋斗は何食わぬ顔で会話に加わることも憚られるので、輪から外れてユリアの様子を見つめていた。
そして、野に咲く一輪の花のように朗らかな笑顔で話を弾ませる彼女を見ながら、元の世界に帰る方法が見つかった時のこと───自分がこの世界を離れる時のことを考えた。
───ユリアを連れて、一緒に元の世界に行く。
今までに何度となく脳裏によぎった選択肢のひとつだった。
自分は元の世界に帰りたい。
一方でユリアから離れたくもない。そのふたつの事項を両立させる唯一の解として先の選択肢がどうしても浮かんでしまう。
しかしその選択肢は、ユリアにこの世界から離れることを強いるものだ。今まで培ってきた場所、人、記憶の全てを切り捨てさせるものだ。
だからその選択肢が脳裏をよぎるそのたびに安直な考えを振り払ってきた。
しかし、眼前で華やぐ井戸端会議を見ながら洋斗はこう考えた。
───やっぱりユリアはここに居たほうがいい、と。
彼女がこの世界を好きなように、この街の人たちも皆彼女が居てくれることを願っている───会話を見ていればそれがすぐに分かった。この街にとってもユリア・セントヘレナは無くてはならない存在なのだ。自分のわがままで強引に切り裂ける絆ではない。
「一段落したら私も片付け手伝いますね!」
「いや〜、さすがにユリアちゃんにはきつい仕事なんじゃないかい?それならアタシと一緒に飲み物でも運んだ方が…………」
「大丈夫です!いざとなれば銃弾で丸ごとぶっ壊します!ガツンと!!」
「おいおい、そんな事されちゃ俺たちの仕事が無くなっちまうぜ。こりゃヘバってらんねェぞお前ら!!」
男のひとりが発破をかけると、周りの男たち全員が勝鬨の声を上げ、休んでなど居られないと言わんばかりに瓦礫のもとへ戻っていった。
その力強い後ろ姿を見送った彼女はその身をくるりと翻す。
「では、家に戻って準備をしないとですね!」
微笑みながらの一言に、洋斗は小さく「だな」と返す。
この時、ちゃんと笑顔を作れている自信は無かった。
~~~~~~~~~~~~~~~
所変わって。
フォートレス能力専門高等学校を挟んで被害が多い中心地の反対側、郊外のカフェテリアのテラス席で一組のカップルが机を挟んでいた。
「本当に行かなくてよかったのかな?せっかく退院なのに…………」
「良いの良いの、自分が行きたいってユリアちゃんのお願いなんだから甘んじて受け入れましょ。きっと前回お見舞いに行けなかったこと引きずってるんだわ」
そよ風になびく橙色の髪を押さえながら、鈴麗がストローでレモネードをかき回す。
「それにしても…………」
その目がふと傍の通りを向いて、ポツリとつぶやいた。
「びっくりするほど平常運転ねぇ」
見渡す限り店は開いているし、そこを出入りする客をはじめ通行人もそれなりにいる。朗らかな日差しを受ける街の風景は何事も無かったように平穏な時を刻んでいた。
「頑丈というか、鈍感というか。あんな事があったのによくこんな平然としてられるもんだわ」
「カフェでお茶してる僕達が言えた義理じゃないけどね。人間って案外強いものなのかも」
芦屋もブラックコーヒーを口に含みながら同意した。
二匹の鬼、一人の雷神、一つの家系と数多の人間が交錯してこの地を席巻した。鬼神ノ災禍の再来はたった数日前に起こったばかりの異変であり、現に学校の向こう側では街の復旧に追われているのだ。
まるでそんな惨劇など無かったかのように。
まるで───。
「なんか、別の世界で起こった事みたい」
「……………………別の世界に、ねぇ」
そんな言葉がこぼれた。
特に理由もなく思わず呟いた言葉の綾を感慨深そうに繰り返す鈴麗。それを見て、芦屋も彼女の思うところを理解した。
───桐崎洋斗。
彼は自分のことを『こことは別の世界から来た人間』だと言った。今回起こった一連の事件の中軸となった事はその言葉の裏付けとなっている。
その上、二人は九月初めに執り行われた鬼───嵯鞍洋斗の葬儀にも参加していた。装いを喪服に変えて、蒼白となった彼の姿をその目で見て来た。だからこそその事実を無かったことにはできない。目を逸らすことは許されない。
芦屋と鈴麗は、街中が封印されていた鬼の喪失で騒然としている中でその事実を聞かされた。その時は「そんな事よりも大事なことがある」と一度頭の隅に追いやったものの、こうして事態が落ち着いてしまうとどうしても考えざるを得なくなってしまう。
実を言うと、およそ一ヶ月の間ひとりで悶々と思い悩む時間に耐え切れなくなり、頭の整理も兼ねて話す相手が欲しかった───というのも騒動から日も浅いこの時期に、不謹慎なのは承知の上で二人がデートを企画した目的だったりする。
「…………あの時は正直言ってよくわかってなかったけど、結構スゴい事に立ち会ってるよね、僕たち…………」
芦屋が呟く。
鈴麗は黄色の透き通った飲み物を口に含む。蜂蜜の甘さとレモンの爽やかな酸味をもってしても頭にかかった靄は晴れない。
「けど、友達に別の世界から来た人がいるときはどう接したら良いですか───なんて、答えとか出るわけないじゃない。そう思わない?」
「まぁ…………それは確かに」
それについては芦屋も全く同意見だった。
これは『本来の物理法則なら全く起こり得ないはずの問題』だ。そんな事を考えるのは職業柄机上の空論を本気で信じ込む物理学者か哲学者くらいのもので、そんな事を町中の誰かにヒアリングして回るのも野暮だ。まして二十年も生きていない高校生が考えるにはあまりに領分を逸脱していた。
───となればいま二人が考えるべきはもっと緊急、かつ喫緊の問題であるはずだ。
つまり。
「…………きっと考えなきゃいけないのは『別の世界から来た洋斗の事』じゃなくて、『洋斗がもとの世界に帰るかもしれない』って事なんじゃないかな?」
「それってつまり、洋斗がこの世界からいなくなる───って事よね…………」
芦屋の言葉に、鈴麗は目を細めた。
───桐崎洋斗が世界からいなくなる。
自分たちが一年半のうちに積み上げてきた関係が唐突に消えてしまう。
その可能性が、すぐ目前まで迫っている。
「…………洋斗、本当に帰るのかな?」
ぽつり───と。
もの寂しげな視線を黒い液体に落として呟いた。
「ずっと一緒にいたんだよ?もしかしたらこっちの世界に残ってくれるかもしれない」
「いや、それはないと思うわ」
希望的観測に走る彼を、はっきりときつい一声で遮った。彼女はぼんやりと道行く人を眺めながら言う。
「ほら、私って中華民国の出身じゃない?中華民国で嫌なことがあって、国を捨てて日本に逃げてきた。だからかな…………なんとなく分かるのよ。帰れない故郷に『それでも帰りたい』ってなる気持ち」
幼少期、中華民国第一皇女としての重責に耐えきれず日本に逃亡して来た鈴麗。もとの世界から転がり込んできた洋斗と自分を重ねた彼女の言葉を、芦屋はコーヒーに口を付けることもなく聞いている。
「故郷や家族…………自分が生まれ育った場所や環境って、やっぱり世界でたったひとつの『特別』なのよ。そこでどんなに嫌なことがあっても、その根元にある気持ちはそうそう変わるものじゃないわ。たとえ逃げた先がとても楽しくて永遠に居を据えてもいいと思える場所だったとしても、それは故郷を捨てる理由にはならない…………絶対に。」
「…………………………………………」
「だから、洋斗はきっと帰ると思う…………いや、もとの世界に帰るべきよ」
「寂しいとは思ってるんだよね?」
「当然よ。そんなあっさり受け入れられるほど物分り良く育ってない。ただ受け入れる時間がほしいだけ…………そうね、帰るときは笑顔で送り出したい、とは思ってる」
その言葉を皮切りに、二人の間を静寂が包む。
二人共考えているのだ───洋斗がいなくなったらこの世界は、自分たちの生活は、第七班は今後どうなってしまうのだろう、と。
桐崎洋斗が消えた世界を頭の中でイメージする。
「私達ももちろんだけど…………」
そうなると、揃って当然のようにある懸念に行き着いた。
「ユリアさんは大丈夫なのかな…………」
小さく言ったのは芦屋だが、鈴麗も同じことを考えていた。
ユリア・セントヘレナと洋斗の関係性は同じチームのメンバーというだけに留まらない。彼女にとって桐崎洋斗という存在はメンバーの一員であると同時に恋愛の対象として好意を向ける相手であり、切磋琢磨を繰り返していく上での活力の源であり、彼女が至るべき到達目標である。
それが一夜にして一度に全て幻のように消えてしまったとき、果たして彼女はこれまで通りの自分を保てるだろうか。
「どうかしら、正直分からないわ。けど、ひとつ言えるのは…………」
「うん。『僕たちに出来ることは無い』ってこと」
外野がどれだけ手を尽くしたとしても、最後に求められるのはユリア本人の決断と覚悟である。その段階になれば二人に介入できる余地は無い。
二人の存在が力を発揮するのはユリアと洋斗が別れた後、恐らく気落ちしているであろうユリアのアフターケアだろう。
そう考えておいて、ユリアに関する相談を打ち切る。
頭に山のような悩みが積み上がるのを自覚して、鈴麗がストローでレモネードをかき回そうとして初めてグラスが空だと気づいた。
グラスに残った氷を眺めて、ため息混じりで呟く。
「この先、どうなるのかしらね…………」
彼女が誰にともなく投げた問いかけに、芦屋は答えを見出だせなかった。
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「お帰りなさいませ洋斗様!!」
「お怪我はもう大丈夫なのですか!?さぁさぁお席の方へ!」
「お腹空いてますよね、何が食べたいです?洋食?それとも和食!?いえいえこの時間だと間食ですかデザートとかもありますので!!」
「え、あ、おぅ!?」
「ああ、お休みになられるならベットを整えないと!ベランダに干したままだわ取り込まないとなのだわ!」
「いいえ!ここはお風呂でさっぱりしたいでしょう?待っててくださいすぐ用意しますからというかお背中流しますから!!」
先程はユリアを中心に輪ができたが、セントヘレナ邸に戻った瞬間、今度は洋斗がメイドさん達に取り囲まれることになった。ちなみにメイド長であるセリカさんは三番目である。
病み上がりかどうかは関係なく、あまりの熱烈待遇に動揺を隠しきれない洋斗。しかし如何に奉公先が目を白黒させているとなんとなく察していても、積もりに積もった心配の念を『奉仕』という形で晴らさずにはいられない───メイドさんとはそういう人種なのだろうか。
───というわけでずっと燻っていた奉公心(世話焼き精神)が一気に爆発したわけだ。
食事は普段より華やかになってパーティの様相を呈し、間食の時間も含めて手厚く食べさせようとまでしてくる。風呂の際もスポンジ片手に体を洗ってくれる───までさせるわけにいかなかったのでにじり寄るメイドさんを丁重に追い返す。さらに部屋にいれば扉の向こうに立っているメイドさんの気配を感じ、廊下を歩けば各自の作業をしながらも自分の様子をうかがう視線を感じ、と言った妙に落ち着かない様子が続いた。
まさにどこぞの王にでもなったような好待遇。「どんだけ俺の世話したかったんだあの人たち…………」というのが、後日思い返した際の洋斗の感想だったりする。
そうして賑やかな時間を激流に流されるように駆け抜け、時刻は夜になっていた。
「ふぅ…………」
綺麗にメイキングされたベットに自身の体を放り投げる。ボフンっ、と柔らかい音とともに毛布に沈みつつ、洋斗は息を吐いた。
病院で採用されているベットは強めのスプリングが効いた硬めのものだった。怪我人や高齢の人が寝ながらでも身体を動かしやすいようにという措置なのだが、やはり健常者にとっては身体に合わない。そういった意味で身体に伝わる柔らかい感触はとても懐かしかったりする。
「とうッ!」
洋斗に続き、掛け声とともにナギがすぐ横に飛び込む。大の字で投げ出された四肢は一瞬で毛布の中に埋もれた。
ふかふかのベットを満喫しながら呆然と天井を見上げていると、「主様」と洋斗を呼ぶ少女の声が聞こえた。
「毛布の柔らかさで思わず忘れかけていたのですが、伝えておきたいことが」
顔を向けると、ナギは毛布の柔らかさに緩みきっていた顔を引き締めて、布団の上で正座していた。話を聞くために体を起こす主を確認してから、ナギは口を開いた。
「私はあの時、真性の鬼の妖気を奪い取ることで鬼の力を削ぎました」
その事については病院にいたときに教わっている。ナギが嵯鞍にしがみついた後の不自然な妖気の弱まり、それが彼女のおかげだと知った時は感謝が絶えなかったものだ。
「実は…………その削いだ力はまだ私の中にあるのです」
「それって、大丈夫なのか?まさかナギの身体を乗っ取って復活したりとかは…………」
「それはないのでご安心を。朱点さんの確認も得ているのです」
「な、なら良かった。いきなり悪魔みたいになって街壊し始めたらどうしようかと」
「しないです!たぶん!」
多少普段の感じに戻りつつあった気持ちを立て直し、話を続ける。
「以前、妖気と親和性を持つために私は主様の体から朱点さんの『器』のみを譲り受けました。しかしそれはあくまでも空の器、そこに意識はあれど力は無かったのです。しかし今回、全開の三割とはいえ空だった器に妖気が溜まりました。つまり、それだけ私の中の朱点さんが力を取り戻したということです」
「えっと、要はお茶を飲み干したペットボトルにお茶を注いだみたいなもんか?」
陳腐な例えに多少腑に落ちない顔をしつつも、ナギは首を縦に振った。
「結局何が言いたいかというと、主様の中にある妖気十割に私の中にある三割を加えて出力が従来の三割増ってことです!」
ふんっ!と、まっ平らな胸を張って大威張りの黒刀逆薙。簡単に言えば『私を使えばもっと強くなれるようになりましたよ』と言いたいのだろう、と理解する。
しかし、同時にこうも思う。
「…………けど、もう戦うこともなくなるんだよな」
容姿が幼子であろうとその本質は刀剣であり、戦有りきで輝く存在である。その存在を支えているのは『陣式』というこちらの世界の概念で形作られたのもであり、あちらの世界では通用しない理である。つまり、あちらに帰れば私は物言わぬ刀に戻ってしまうはずだ。
そうなったとき、自由を手放すことになる彼女はどうなるのだろう。
「それはそうですが、それでもいいのです」
危惧する洋斗を他所に、ナギは陽気な笑顔を見せた。
「洋斗様は無駄と悟っていながら愚かな夢を見続けていた私に、まさに夢のような時間を与えて下さりました。
───そして、夢は必ず覚めるものです。然らば、その夢を与えてくださった主様に永久の忠義を誓い、お傍を離れぬのが名刀たる私の本懐なのです。名刀の肩書に加えて鬼の妖気を宿らせた妖刀が加わったので、ワンランクアップした私を精々家宝として奉るといいのです!」
ナギはナギなりに今後のことを考えたようで、心配は杞憂であったと洋斗は胸を撫で下ろす。
───そしてその覚悟を問われるのは、今度は洋斗側になるようだ。
「その…………主様はいつ『あちら』に帰られるのです?」
「そうだな…………悔いが無いように、けどなるべく早く帰りたいとは思ってる」
あわよくば帰る方法が見つかり次第、決心が揺らぐ前にここを去りたい。しかしやはり音もなく別れもなくただ消え去るのは間違っているような気がするのだ。ここで出会った人に、場所に、ちゃんと別れの言葉は残したいと思っている。
「…………またこちらに来ますか?」
「もしもの話なら…………それはしたくないかな」
彼女の丸い目が更に丸く開かれる。あまりにあっさりと、さほど迷わず返答されたことが意外だったのだろう。
「俺は一度戻ったらあっちの世界で頑張るって、心に決めた。これまでにいろんなものから目を背けてきたから、その…………今度こそ逃げずに頑張りたいんだ。中途半端な気持ちであっちに行きたくないって思うんだ」
───思えば、向こうの世界では散々だった。
『壊れてしまうくらいなら関係など最初から作りたくない』と言って学校では塞ぎ込み。
無意識ながら唯一そのしがらみを壊しつつあった巳島由梨香との接し方も解らず嫌な思いをさせたかもしれない。
ずるずると過去を引きずった挙句に命の恩人である育ての親すら認められず、育ての母を母とすら呼びきれず、『世良さん』と呼ぶたびに時折見せる寂しげな顔は今も覚えている。
これも全て、向かい合わずに逃げ続けた結果なのだ。
───しかし、
こちらの世界に転がり落ちて、
いろんな人と出会い、
いろんな出来事にぶつかり、
それを通じて自分の過去や自分自身と向き合って、
それを通じて、もとの世界にも幸福が散らばっていた事を知った。
もう逃げたくない。
しっかりと過去を受け止め、現在の幸せを受け入れ、未来を見据えて歩くと決意した。
「……………………そうですか」
その決意を聞き取ったのか、ナギもまた迷いなくはっきりとこう言った。
「そうと決まれば出立の準備なのです」
その言葉に、洋斗は困ったように大きく肩を竦めてみせた。
「お前なぁ…………そんなすぐに帰れるんならこんな悩んでないだろ?」
その姿に、ナギの小さな頭がかくりと傾げられる。
「何を言ってるのです?一度帰ろうと決めたなら腹を括って、気が変わらぬうちに帰るのが定石なのです」
「いやだから、帰り方もわからない状態でどうやって帰るんだよ」
「…………へ?」
「ん?」
───この時。
ズレというか溝というか、両者は間にある決定的な隔たりを感じていた。
そして、その隔たりが何なのか───ふたりはその答えを大方察してしまっていた。
「…………………………………………………………………………………………………………あの」
「おいちょっと待て」
「………………………………」
「やめろ。はは、やめてくれよ?流石にそれは冗談にしてはキツいというかいくらなんでも洒落になってないと思うぞ?」
「………………………………えっと」
「オッケーもう少し…………もう少しなんだ…………」
息を吸って、吐く。
全神経を集中させて、じっくり十数秒を使って呼吸を整える。
───全ては、自らの脳天に来たるであろう衝撃に備えて。
「………………………………よし、いいぞ」
洋斗はついに腹を据える。そして、それを機にナギは口を開くのだった。
「その前に確認なのですが…………もしかして、知らないのです?」
「何が?」
「……………………私、言ってなかったのです?」
「いやだから何が?」
「…………あぁ、ああそうでした。私、人の器を手にした矢先嬉しさで言うの忘れたのですか。そうですかそれで…………そういえば確かに…………」
「ナギさん?」
もったいぶらずに教えてくれ、この覚悟が揺らがないうちに───。
洋斗の顔からはそんな逼迫した雰囲気が放たれている。
「…………主様はあの『門』を通ってこちらに来ましたよね?けどあの門は誰でもホイホイ通れるものではないのです。当然といえば当然ですけど」
ここでナギの言う『門』というのは恐らく桐崎龍治の部屋の押入れ奥で沈み込んた部分であり、セントヘレナ家裏手の森林で大樹の一部となっている石の鳥居───噂でいう異界の門のことだ。しかし確かに、『沈み込んだ』という言い回しからもわかるように、もとの世界で奇妙な本を開いたわけでもどこかに幾何学模様を書き込んだわけでもない。
ウォータースライダーに流されるようなあの空間に入る際、何か特殊な手続きを行ったわけではないのだ。
「あの『門』が開く条件はふたつ、その者が『鍵』と『運命』を持っていること。『運命』に選ばれた者が『鍵』となるものを手に持ってさえいれば、その『鍵』を錠に差し込むまでもなく自然とその者を受け入れるのです。そしてここでいう『鍵』とは二つの世界にまたがる縁を持った存在───いわば以前に世界を渡った記憶のある物。すなわち…………」
そう。
───ただひとつだけ。
普段と決定的に違ったことがあるのだ。
「目の前にいるこの私がその『鍵』なのです。詰まるところ、私を持っていればすぐにあちらに戻れたかも知れなかったのですよ?」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
洋斗はため息ひとつ吐くこともできず、ただ呆然と頭を垂れる。
確かにそうだ。
ここに来てから何度も異界の門を叩いてきたが、それを黒刀逆薙を帯刀して行った事は無い。黒刀逆薙がナギになる前では刀は部屋に置きっぱなしだったし、それ以降は少女の姿のナギをわざわざ僻地の森に連れ歩くことは憚られた。ここ数ヶ月に至ってはほとんど門を叩くこともしていなかったのである。
今更悔やんでも最早後の祭りである。
「嘘だろ……………………俺は持ってた鍵をポケットに突っ込んで、玄関の前で扉蹴り飛ばしてたってのか…………」
「身中お察しするのです」
「……………………いや、けど」
「?」
俯いていた顔を少しだけ上げて、洋斗は呟いた。
「それをもっと早く知ったとして、俺は帰ってたかなぁ、って」
これまでの彼の様子からも分かる通り、親がいるあちらに帰るか充実した生活が保証されたこちらに残るか、桐崎洋斗はずっと迷っていた。自分自身と戦う、なんて奇跡的なことが起こらなければ決心を固められなかったほどに。
それだけ、ここの世界での生活が楽しかったから。
もう既に、簡単に切り離せるような居場所ではなくなっていたら。
だからもしその事実を教えられてたとしても、踏ん切りが付けられずに引きずって時間を浪費していただろう。
「…………いや、今日までの流れを考えると帰ることができた可能性は少ないと見るべきです」
「そうなのか?」
「これまでの事件、主様があまりにも事態の中心にいすぎたのです。きっと今日までに起こりうる事態を乗り切ることこそが主様に託された『運命』である可能性が高いのではないかと」
言い換えれば、『ここで様々な事件を解決し、その果てに嵯鞍洋斗を殺す』ことがこの世界で洋斗に任された『運命』というわけだろう。
「…………じゃあ、俺はもう帰れるのか?」
「…………憶測ですが、この『運命』の鍵として主様が選ばれたのはこちらの世界の主様───すなわち嵯鞍洋斗さんの存在が大きいのではないかと考えています。しかしそれが無くなった今、主様をこちらに引き寄せていた物が無くなっているわけですので…………」
「戻れるかも、ってわけか」
「可能性は、非常に大きいかと」
「…………………………………………」
この世界が楽しくて、充実していていた。居心地の良さに甘んじて簡単な方のルートを選ぼうとしていた。
───だが、今は違う。
今はもう帰る決心をしているし、もとの世界に帰る意味を見出している。もう十分、この世界で貰えるものは貰っている。
これ以上揺らぐ猶予を与えるつもりは無い。
これを逃せば、もう二度と帰ろうなどと思わなくなりそうだから。
「……………………明日から、支度を進めよう」
「ラジャーです!」




