15章-2:鬼ノ元興寺
鬼に関する数多の逸話、その中に『ガゴジ』というものがいる。その名の由来はとある説話が残る元興寺(当時は飛鳥の法興寺と区別するために『平城の飛鳥』と呼ばれていた)からとったものだ。
───時は六世紀後半頃。
ある日、尾張国の農夫が田んぼで働いていると、突如落雷とともに雷神の子が落ちてきた。その子が農夫に命乞いをするので、農夫はその子を匿うことにした。
雷神の子は後に元興寺の童子となったが、その当時元興寺の鐘突き堂に子を食べる鬼が現れるので、雷神の子がその討伐を買って出た。雷神の子は鐘突き堂に隠れて待ち構え、鬼が現れるやいなやその髪を掴んで轢きずり回し、見事その鬼を退治してみせた。
その後鬼退治の功績を讃えられ、出家して正式な僧侶となった。
見ての通り典型的な鬼退治のお伽話である。
だが、ここでひとつ問いたい。
───このお伽話のタイトルである妖怪『ガゴジ』とは、文中における誰を指しているのか?
それは勿論、騒ぎを起こして雷神の子に轢き回された鬼の事だ───当然、話を聞けば誰もがそう思うだろう。
実際のところそれが通説である。だが、当時の社会情勢を念頭に入れると異なる説が浮上してくる。
当時国の運営における多大な権力を握っていた蘇我氏。その敵勢力である藤原氏は彼らを「鬼」と揶揄して言い伝え、蘇我氏に悪の烙印を押し付けたとされている。
また元興寺は、蘇我氏が建てた法興寺の一部を藤原氏が強引に移し替えたもので、元々蘇我氏の所有だった。
ついでに言うと雷神という神格の存在は人を恐怖で震え上がらせる祟り神とされ、鬼の様相と瓜二つの姿で言い伝えられている。
───以上を踏まえた異なる説、それは『文中におけるガゴジとは鬼を退治した雷神の童子を指す』である。
童子が鬼を倒すということは、その童子が鬼を超える力を持っていたことを意味する。すなわち、童子は『鬼を引きずり回すほどの力を持った雷神の化け物』ということになる。
蘇我由来の寺に居座る、鬼を超える怪物。
蘇我氏という存在の恐ろしさを、藤原氏は比喩にして言い伝えたのである。
───可能性の話をしよう。
物語の童子は無事鬼を倒し、その功績を讃えられて僧侶となった。
だがもし仮に、その力が鬼以外に向けらる可能性があるとしたらどうなっただろう?鬼以上の強大な力を持った童子に対して村人たちはどんな感情を向けただろう?
鬼を倒したはずの英雄は世界を恐怖へと落とす悪魔へとその名が変わってしまう?世界、他の童子、育ての親である農夫からも恐れ恨まれる存在へと落ち、天涯孤独の存在に成り下がる?
だとすれば。
その末路は、森の奥で孤独に居座る、強大な力を持った怪物だ。
───この時代の人は、そういう存在をこそ『鬼』と呼んでいたはずではないか?
───さて。
時代は遥か移り変わり、現代の2014年夏。
ある所に、一人の童子がいた。
その童子は強大な力を持って生まれ、
世に蔓延る巨悪を断つべく育てられ、
───それに失敗した。
改めて問う。
もし仮に、その力が鬼以外に向けらる可能性があるとしたらどうなっただろう?
鬼以上に強大な力を持った童子に対して村人たちはどのような感情を向けるだろう?
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━2014.08.20━
〜11:47〜
「……………………んぅ」
目が覚める。
私にあったのは、倦怠感に毒された体に、重たい頭に、靄のかかったように浮つく意識…………そして、自分が寝ていた事に対する疑念だった。
なんだろう、いつからか記憶がぶっつりと途切れてる。何とか思い出そうと頭をかきまわしてみるけど、自分がいつ布団に入ったのかが…………。
そうして記憶を辿った末に、私はようやく行き着いた。
あの時、兄さまに無茶苦茶に泣きついて…………ああ、うん。そのまま寝落ちしました。私ながら恥ずかしい事をしてしまった…………。
でも。
あの時は確かに気が滅入っていた。不意に突き付けられた死と戦の重圧に、私は明らかに潰れかけていた。
正直に言うと、あの時兄様が来てくれてとても嬉しかった。あの時はきっと私を慰めて、包みこんでくれる誰かの存在が必要だったと思う。そして私にとっての『誰か』なんて兄さま以外に有り得なかった。もしあのまま一人で布団にくるまっていたら、私は本当に壊れていたと思う───それはもう修復不可能に、自我を保っていられなくなるほどに。だから、家族の温もりとわんわんと涙を流す時間をくれた兄さまには感謝の思いしか浮かばない。
「ふぁ…………」
眠気眼で大きなあくびがひとつこぼれる。どうやら欠伸ができる程度には平静を取り戻せているらしい。
ふと置き時計に目をやると、三本の針は既に昼前の刻を指している。目線を窓に移すと、雲は厚いが確かに日も高い。それを見て、自分の中にどれだけの心労が溜まっていたかを思い知った。
「…………起きよ」
目覚めて時間が経つうちに、自分の喉が思いの外渇いていることに気付く。
早く布団から出て、まずは台所にでも行こう。迅速に水分補給をすべきだし、もしかしたらいつも早起きな兄さまが美味しいサンドイッチでも作ってるかもしれない。そうなれば、空腹を満たして兄さまに感謝の気持ちを伝える絶好のチャンスだ。
気だるい身体を引きずりつつ明朝の廊下を進み、台所の引戸を開ける。
計画に反して、そこに兄さまの姿はなかった。いつも私より早く起きるから、もしやと思っていたけど…………。
とりあえず冷蔵庫を開けて、よく冷えた梅ジュースを流し込む。水分による潤いと、クエン酸の酸味が乾燥していた身体に染み渡る。頭にかかっていた靄を晴らし、意識をクリアに戻してくれた。
…………うむ、たとえ気落ちしていようと、梅が至宝の産物であることに変わりはないようだ。やはり梅、いと素晴らしきモノなり。
でも、目が覚めても部屋に誰もいないというのは違和感がある。それだけ兄さまは早起きで、私にとって居るのが当たり前な存在なんだ。それは昨晩の件でそれを改めて思い知っている。
そのままリビングに足を運んでみた。
「…………あれ?」
そこにも人影はなかった。
…………なんか変。
耳の後ろあたりから何かがそう囁き、ざわ、と背筋がざわつく。
瞳に映るのは何の変哲もない普段通りのリビングルーム。しかし有って当たり前の何かが欠けているみたいに、その空間に漂う空気に混じる違和感を感じていた。
ふと、机の上に置いてあるものに目が移る。それはラップに包まれた数個のサンドイッチと、一枚の紙切れだった。
サンドイッチはハム、卵、キャベツ、チーズが薄いパン切れに挟まっているベーシックなもの。特に言及するほどのものでもない。
私はその横にある紙切れに目を通した。
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おはようマサキ
ソガ本家の人達に用ができたからさっさと行ってすませてくる。用が終わった後で家に電話するから、マサキは必ず家にいるように
鬼の討伐にも行かなくていい。心配するな、安心して待っててくれ
マサヒト
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いつもどおりの、私を気遣ってくれているのがよくわかる文面。だがそれを見ても、心の中の妙な胸騒ぎは止まらなかった。
蘇我の大人たちは鬼を蘇我家の手で倒すことに躍起になっており、現に鬼がこの地のどこかにいる。そんな時に急遽招集がかかるのだから、安易に切って捨てられるほどの小さな案件とは思えない。
ひとつ気がかりなことは、これが兄さま一人だけの召集である事だ。普段なら鬼に関する案件は私だけ、もしくは私と兄さまの二人が召集されるはず。これまでに兄さまひとりだけが呼ばれたことは一度もないと思う。
一体、兄さまの用事って何なんだろう?
不安、疑念、困惑、動揺。
隅に残った埃のようなモヤモヤとした感情が胸のあたりに蔓延る。パニックに陥るほどのものでもないが、それだけの小さな違和感だからこそ、その存在が妙に気にかかる。傷だらけのガラスだと妥協できるが、綺麗なガラスに一つあるキズは妙に目立つ、それと同じかもしれない。
そしてもう一つ、私には気がかりな節がある。それは、文の中の『鬼の討伐にも行かなくていい』っていう部分。
先に言った通り、鬼の討伐は蘇我家が長きに渡る野望であり、私にその素養があったからこそ、大人たちは戦いへと強いるレールへと私を縛り付けた。それなのに、ここに来て唐突に手のひらを返すというのはどういう事なのだろう。
その問題に関しては、蘇我家だけではなく私自身にも気がかりな点がある。
一度悩みを他所へとやって、私は自分の心身と向き合ってみた。
確かに気がかりはたくさんある。けれど、もし昨日のとおりまた鬼と戦うとなったら、果たして私は正気でいられるだろうか?
…………ダメだ。やっぱり自信がない。
私の眉間に落ちてくる銀の刃先を思い出して、幻覚で眉間が痛む。鮮血のような赤い瞳を思い出して、私の瞳孔まで震え始める。
兄さまの言うとおり今日は家にいよう。じっくり休んで、自身の中にあるこの感情と向き合ってみよう。そうすれば何か、自分なりの答えが出せるかもしれない。
よし、そうと決まればまずは腹ごしらえだ。腹が減っては何とやら、喉の乾きもそうだが空腹もそれなりの所まで来ているのだ。
ラップを剥がし、サンドイッチの一つを取って、かじる。
…………うん。特に変わった所もない、至ってシンプルなサンドイッチの味。けどそれがいい。たとえ梅に及ばずとも、空いたお腹にはこれくらいあっさりしたものの方がいいのだ。シンプルいずベストだね。
舞咲が4つあったサンドイッチの3つ目を口に咥えた時だ。
───ピンポーン。
と、来客を知らせる軽快なインターホンが鳴った。
どこかのマンションと違って、この家には扉の向こうと遠隔で通話する機構は備わってないため、直接足を運んで戸を開かなければならない。
舞咲は食べかけのサンドイッチを一気に頬張り、もしゃもしゃと咀嚼し始めた───彼女としては、この時なぜサンドイッチを食べきる事を優先したのかは分からない。が、今回この行動は彼女の運命を変えた。
ごくん、と喉を鳴らし、早足で玄関先まで廊下を進む。扉に嵌まった曇りガラスには二人の人影が透けていた。顔は分からないが恐らく男性だ。うちの一人が言う。
「…………いねえのかな?」
まずい、このままでは帰ってしまう。
そう思った舞咲が、更に加速させた一歩を踏み出した、その足が───。
「もうドア蹴破ってサクッと殺しちゃいましょうよォ」
(…………え?)
相方と思われる人の言葉でピタリと止まった。
「馬鹿野郎、大声でそんな物騒なこと言ってんじゃねぇ」
「いいじゃないですか別に。兄妹もろとも始末するのが親方の勅命なんですから」
(親方って、お父様の…………?なんでそんな…………)
頭の中では疑問を投じているが、心の中ではすでに答えが出ていた。
理由についてはわからない。けれど…………いまドアの向こうにいる人たちは、お父様の指示で私を殺そうとしている…………!
舞咲の内で湧き上がった恐怖が、彼女の足を後ろへ下がらせる。
───ギシ
(…………!?)
空気が凍りついた。
下がった足が鳴らした、床がきしむ音。それが舞咲を震わせる。
(き、聞かれた…………?)
舞咲は硬直したまま扉の先を見つめる。この音が彼らに届くことなく、二人が帰ってくれることを祈りながら。
「…………聞いたか」
「あぁ」
───聞かれてる!
ざざざざ…………、と一気に血の気が引いていくのがわかる。
舞咲をあざ笑うかのような会話が続く。
「これもしかして、居留守されてるんじゃないです?」
「かもな、ってかそうだろうな。って事はこの会話も聞いてたことになる。ったく、お前が口を滑らせたせいで余計な手間が増えちまったじゃねぇか」
「そっすけど、これ聞いてるってことは…………『強引に扉ブチ破って』も文句言えなくないですか?」
「…………だな。今の聞いて音沙汰ないってことは、ようは黙認ってことだろうな?」
「……………………いきますか」
「……………………いいぜ、一番槍は譲ってやるよ」
扉の向こうで交わされる脅迫とも取れる会話。
舞咲はそれを、まるでラジオから流れる会話を聞くような感覚で聞いていた。一連の脅迫が自分に向けられていることに、自分が事態の当事者であることに現実味を感じられないままでいる。だから、これから扉が吹き飛ばされることに勘付いていても、その体は何一つ行動を起こせなかった。
しかし、舞咲は強引に現実へと引き戻されることになる。
扉に嵌められたガラスを通して不意に揺らめいた炎。その瞬間、舞咲はすぐ横の襖を破って部屋の中へと逃げ込んだ。
直後、全身を叩くような爆音と業火が廊下を突き抜けた。
扉の残骸が散弾のように飛散し、猛烈な熱風が襖を突き破った彼女の体を押し転がす。
「はァ…………はァ…………ッ!?」
とっさに元いた方を振り向けば、ありふれた廊下の風景が火炎の赤に呑まれていた。空気が蜃気楼のように揺らめき、木材が焦げる臭いが鼻をつく。熱気がじりじりと舞咲の肌を炙る。部屋から一歩先が、一瞬にして焦土に変わっていた。
焼け付くような焦燥感で喉が一気に干上がる。
(ホントに、吹き飛ばされた…………!?)
所詮単なる脅した、と心の何処かで抱いていたわずかばかりの期待、それすらも刹那のうちに消え失せる。
嫌でも理解した。
───彼らは本気だ。
───本気で私を、殺そうとしている!
(…………いや、慌てないで)
こういう鬼気迫った状況に動転した精神で突っ込んでも碌な事にならない、その事を洋斗との一戦で学んでいた。
舞咲は大慌ての頭脳を精一杯なだめて少しでも落ち着かせる。次、自分が取るべき行動を画策させる。
まずは窓へと駆け寄り、外の様子を見る。玄関から少し離れたあたりに同じような服を着た人が数名立っていた。
(やっぱり…………来てるのはあの二人だけじゃなかったんだ)
私の殺害はお父様の指示だと言っていた。ここに来てお父様が大きく出たという事は、それだけ切羽詰まった状況になりつつあるということだ。それを避ける目的で人数を多めに投入するのは当然と言える。
見た限りで数名、だが恐らく他にも控えている。最悪この屋敷が包囲されている可能性だってある。
(これじゃあ逃げるのも難しい…………。だったら取れる行動は、これしか…………っ!)
運良く、咄嗟に飛び込んだのは自分の部屋だった。すぐさま部屋の奥へとすり寄り、そこにかけてある刀を掴み取る。
───『童子切』
鬼を斬り捨てた逸話の残る名刀であり、舞咲を運命に縛っているものの一つだ。
親指でわずかに鍔を押し上げる。顔を覗かせた白刃が、あたかも舞咲の心を試すように、炎の揺らめきを反射して怪しく光った。
舞咲の瞳孔が揺れる。
(………………………………怖い)
これを一度抜いてしまえば、もう後には退けない。互いの命を賭けて争う血みどろの世界に踏み込むことになる。
鬼の妖気を使うあの人が歩いたという、人を殺める修羅の道。自分は今きっと、そこに通ずる扉の前に立っている。
舞咲の足がすくむ。
(怖い、けど…………私は生きたい)
思えば、舞咲の人生は他人のレールの上で運ばれるだけのものだったのだろう。彼女自身には何一つその自覚はなかったけど、最低でも死から逃げ出す未来を選べない。そのことを昨日今日のわずかな時間で知った。
しかしそれでも、兄さまと二人でそれなりの生活を歩いていたのだ。死が現実味を帯びる前は何不自由ない生活をしていたし、どんな状況下だったとしても、それでも兄さまや友達と笑い合う時間は楽しかったのだ。
それが今度は、そんな幸せでさえ他人の都合で蟻のように潰されようとしている。
何を今更…………と、自分でも思う。
契約書に書かれた内容を容認して、自分に不都合な事が起きた途端に手のひらを返すような横暴。自分がこれからやろうとしている事は、そんな自分勝手な我儘に過ぎないのだろう。
それでも、もうこんな人生は認めたくない。自身の墓場すら決められない、そんな我儘すら許されない打算と偽りだらけの未来なんて、いらない。
カタカタと揺れる自分の手を、確固たる意志で封じ込める。
彼女の眼光に、鋭い光が差す。
(私の命を、私の自由を…………今度こそ掴み取ってみせる!他の誰かじゃない、私自身の意志で!!)
童子切の刀身を完全に引き抜いた。
踏みあぐねていた一線を、超える。
───定められた自分の運命を、その手で切り拓くために。
鋭い視線が射抜く先。
木が爆ぜる音に交じる足音を耳にし、すぐさま剣を構える。向けられた剣先のさらに先、特に警戒する様子もなく二人の男が現れた。
舞咲はその人たちに見覚えがあった。蘇我は、本家とは別に数個の分家がある。その内の一つに顔合わせをした際に見た人たちだ。
男の内の一人が口を開く。
「生きてるな?ここにいるって事は、俺達の会話も聞かれてたよな?」
「…………だったら、何です?」
「無抵抗で死んでくれると楽なんだが?」
「……………………冗談じゃない。みすみす首を差し出すなんて、絶対にしない!!」
バチ…………と、彼女の決意を誇示するように、全身から翡翠の雷撃が弾ける。
それを一瞥して、男は恐れるどころか大きなため息をついた。
「オーケー十分だ。それだけあれば殺し甲斐があるってもんだぜ!!」
そして、闘争心で瞳をギラつかせ、一直線に突っ込んできた。
防御のため咄嗟にかざした刀に拳が激突する。
炎をまとった男の拳、その指には鉄の金具が握られていた。
(ナックルダスター…………近接!)
この男は拳で戦うファイターだ。果てしない手数で押し切られては厄介だが、斬撃であるこちらの攻撃を当てれば機動力を確実に奪える。連撃の中に一撃滑り込ませる隙を見つけられたら、勝機を見出だせるはずだ。
男は出の速さを活かして猛烈なラッシュを叩き込んでくる。舞咲の想定通りとはいえその連撃をさばくのは困難を極め、能力のアシストがあっても辛うじて防ぐのが精一杯だった。このままでは勢いで押し切られてしまう。そう判断した舞咲は咄嗟に一計を講じることに決めた。
「オラオラオラオラ!!こんなもんかァおい!!」
なおも霰のように降り注ぐ拳。ぎりぎりの所で防ぐ、その刹那。
(……………………今!)
バヂン!!!と。
男の不意を突いて、刀から翡翠の雷光が弾けた。
「ぐ…………ッ!?」
防戦一方からの不意の攻撃───威力の無いただの『目眩まし』。その音と強い光に、男のラッシュが止まる。
その隙に、舞咲が男の脇へと一閃を振り抜いた。
「く、そ!」
一閃は無音で空を斬る。
男は大きく後ろへ下がっていた。
同じように次も隙が作れる保証はない。この期を逃すわけにはいけない。男が体勢を立て直すわずかな時間も潰すべく、後を追って大きく一歩前へ出る。
あと一歩。いや、半歩でいい。
その間さえ埋めれば、この刃が届く。
───そう考えていたため、迫る奇襲の存在に気づかなかった。
「手間取ってんじゃねーよ」
「が、ふ…………ッ!?」
ズンっ!、と。
完全に意識の外にいた、もう一人の男。その声が耳に届く頃には、舞咲の腹に鈍重なものがめり込んでいた。
「ゔぐ…………ぁあ…………!?」
「なんすか、邪魔だては勘弁っすよ」
「猫騙し食らって後ろに飛び退くようなやつを見ていられないんでな」
膝を付いて呻く舞咲の前で、二人が何かを話している。腹部を見ると、そこには『何も無かった』。
腹の下に何か落ちているわけでもないし、鈍器を叩き込まれるほど接近されたら嫌でも気づく。だとすれば…………。
(今ぶつけられたのは『空気』?てことはもう一人の能力は風…………!)
風属性の攻撃手段の一つである圧縮空気。その道を極めれば気圧だけで内蔵を潰すことも可能とまで言われている。
しかし、その威力は腹に直撃しても耐えられるほどで、さほど強くはなかった。やはり対処すべき優先順位は、絶え間なく攻め続けてくる火属性の男が上だ。
「そんじゃ仕切り直して、いくぜ!」
しばらく目をチカチカさせていた火属性の男が復活し、一直線に突っ込んでくる。
まだ体の自由が戻っていない舞咲は、揺らぐ意識の中で走る男に向かって雷撃を撃ち出した。
熱気を切り裂くように直進する雷光。それは、ズバンッ!!と炸裂音を響かせて弾ける。
───しかし。
ノーガードで攻撃を受けたはずの男は、止まるどころかスピードすら落とすことなく接近してきた。
「な…………ッ!?」
それは一瞬のことだったが、舞咲は確かに見ていた。
雷撃は『男に当たる直前で弾けた』。しかし暴発したわけではなく、雷撃は男に当たる前に『見えない壁』に阻まれて炸裂していたのだ。
───風属性の男。
見えない壁を作ることが可能なのは、この場において一人しかいない。
ここに来て、ワンマンプレーに見せかけたコンビネーション。そのトリックで意表を突かれ、舞咲の中に動揺か生まれる。
そして、その動揺は彼女の動きに致命的な隙を生んだ。
ズゴンッッ!!!!!
それは、拳が生み出しうる衝撃を遥かに超越していた。
拳の「速さ」、ナックルダスターの「重さ」、そして火属性による「火力」。
それらを相乗された破壊力の塊が舞咲の頭部で炸裂した。
世界が目まぐるしい速度で回転し、舞咲の体が放り投げられた人形のように空中で弧を描いて畳の上に落ちる。受け身など取ることも叶わず、背中から畳の上に叩きつけられた。
「こんなモンか」
朦朧とする視界に殴り飛ばした張本人の脚が映る。
「雷神といえど、フタを開けば所詮ただの子供か。楽しめるかと思ってたのに、これじゃほんとにタダ働きじゃねーかよ」
「く、づ……………………!」
頭から鮮血を流しながらそれでも歯を食いしばる舞咲を、男は静かに嘲笑う。
舞咲は、戦闘における経験が欠落していた。それが2対1という不利な状況での判断を誤らせた。
2対1なんて卑怯だ───そんな綺麗事など、戦場のどこにもありはしない。あるのは、戦って負ける、その結果だけ。
意識が揺らぐ。額に熱い液体が伝うのを感じる。それでもなお、立ち上がろうと手足に鞭を打つ。
この時はまだ、自由への渇望は消えていなかった。
「まだやろうってか?随分と頑張るじゃねえか…………よっ!」
ズンッ!!と鈍い音を鳴らして、舞咲の脇腹に男のつま先が突き刺さった。男の脚力で思い切り蹴り飛ばされ、注ぎ込むわずかな力すら消え失せる。
「ごふっ…………ぅ…………」
本当に意識が飛びかけた。
もう、自分の体のどこが痛みを発しているのかも分からなかった。
「別に抵抗しなくてもいいぜ?すぐに『おにいちゃんと同じ所まで逝かせてやるから』よぉ」
「……………………ぃ、さま…………?」
くら…………、と。
舞咲の瞳が揺れた。
その様子を見て、男は怪訝な表情を見せる。
「…………まさかお前、知らなかったのか?ふ、ははは!こりゃ傑作だぜ!」
(そういえば、兄さまは…………………………………………………………………………ぁ)
舞咲はその半生の中で一番長く間近で見てきたであろう、大好きな家族の顔を思い浮かべる。
その中で、舞咲は思う。
───男たちは「兄妹諸共始末する」と言っていた。
私だけでなく、兄さまも殺しの対象になっているとしたら…………。
───兄さまは今朝蘇我の本家に向かう、と手紙に書いてあった。
手紙の通り、兄さまが本当に本家に向かっているとすれば…………!
「…………ぃさまに…………」
「あ?」
「にいさまに、なにを…………」
「まだ何もしてねぇよ。まだ、な」
今は何もしていない、彼はそう言う。だが、その醜悪な笑みが語っている。
───お察しの通りだよ、と。
(……………………………………………………………………………………父様は)
あくまでも我儘に、身勝手に。
私だけじゃなく。
私の兄さままで刃にかけるつもりなのか。
ただ私の側にいてくれただけなのに?
私のそばに寄り添ってくれていた、たったそれだけの理由で?
それだけで父様は、家族を殺せと命じたのか?
私だけでなく、私の『たった一人の』家族まで奪おうというのか…………?
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。」
ざざざざざ…………と。
まるで氷の像が熱を受けて溶解し、その形を失うように。
舞咲の中で、彼女の根底にあった何かが崩れ去る。
悲しかった。苦しかった。
そして何より、許せなかった。
刀を握る手が軋む。
ぎり…………と食いしばった歯が悲鳴を上げる。
かつて氷像だった水たまりが、更なる業火を受けて沸々と煮えたぎる。
「……………………ふざ、けるな」
バヂ…………と。
傷の入った頭から、握りしめた拳から、蹴り飛ばされた脇腹から。
その全身から、燃える炎よりも激しく雷光がほとばしる。
───ゆるせない。
「なんだ?聞こえねーよ」
再び、男の爪先が迫る。
けど、遅い。
さっきまで目で追う余裕すらなかったのに、今はその足に手を添えることだって出来る。周りの時が止まりかけているような、そんな不思議な感覚。
ぴと、と。
手のひらが靴に触れた瞬間、『男の脚が弾け飛んだ』。
「………………………………………………………………あ?あ、あぎゃああああぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!!」
───ユルセナイ。
体が音も無く起き上がる。
身体に糸をつけて立たされているようだ。自分の身体じゃないみたいに、軽い。
男がなにやら片足を押さえてのたうち回っている。それに手を伸ばして、いつものように雷撃を飛ばす。
障子紙を指で破る程度の感覚で、空間を突き破ったような凄まじい破壊が起こった。
翡翠色の閃光が視界を蹂躙する。それが消える頃にはすべてが消滅し、屋敷に大きな横穴だけが残った。
そばでは風属性の男が腰を抜かしている。だがこれに構っている暇はない。
自分の体に想像を絶する『何か』が起こっているのは自覚している。だがそんな事は関係ない。兄さまの命と比べれば等しく塵に等しい。
少しでも早く、兄さまの所に行かなければ。
───ゼッタイニ、ユルサナイ。
この時蘇我 舞咲は、既に超えてはならない一線を超えてしまっていた。
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「さすがに遅くねえか?もうすぐ大雨になるってのに。早く終わると思ってたから傘持ってきてねえよ…………」
「知らないわよ。猫が窮鼠にでも噛まれてるんじゃない?」
現在、燃える舞咲の屋敷をとり囲むように部隊が配備されている。その一角で、男女が駄弁っていた。
「にしても、総長も随分酷なことするよな。なにも自分の娘を殺すことはないと思うんだが…………」
「それについては何度も仰ってたじゃない。総長もどうやら犯罪であることは自覚してるみたいだし、第三者機関にでもバレれば大惨事。その前に蘇我を抜けようと企んでるあの兄妹をとっちめてしまおうって算段だと思うわ。もっとも、あの兄妹は家出の企みが筒抜けだってこと知らないでしょうけど」
あくまでメインは中に入っていった二人で、残りは任務に万全を期すための補助に過ぎない。そのため、参観日に教室の後ろに並ぶ親のような気分で突っ立っていた。
───今なお火中に沈みつつある屋敷に、突如『異変』が起こるその時までは。
─────────ッッ!!
音域を超えた一瞬の閃光と炸裂。
同時に黄緑色の雷が『屋敷内から水平に』駆け抜け、突如屋敷の一部を吹き飛ばした───屋敷から一直線に、その延長上に並ぶ家屋数件、その下の大地をその衝撃で削りながら。
「く、は…………っ!?」
「何!?何が起こったの!!」
二人を一拍の衝撃波が襲い、次いで熱で圧縮された暴風が彼らを叩いた。心身ともに揺さぶられた二人はパニックに陥りながらも周囲の情報を求める。
一発。
それだけで町の地図を引き裂くように吹き飛ばした。もし雷がこちら側に貫いていたら、衝撃波で彼方まで飛ばされていたか、膨大な熱量で蒸発していただろう。
───この現象が、『人間1人を消すため』だけに起こったものだと知る者は、誰もいない。
それから一拍置き、
ドゴンッ!───と。
残っていた屋敷の壁と石壁を吹き飛ばし、道を挟んだ反対の家屋に何かが激突した。
巻き上がった粉塵が収まると、激突したものの正体が見えてくる。
───それは人だった。
更に見れば屋敷の中に入った男の一人だ。壁にたたきつけられた衝撃で最早人間の形を成していない。瓦礫と化した家屋の残骸が体を貫通し、針のむしろのようだった。
そして。
屋敷を包んでいた粉塵が風に流され、屋敷に不自然に空いた大穴が露わになる。
その穴から、ふら…………と。
揺らめく亡霊のように小さな人影がゆっくりと姿を表す。
「な……………………」
「あ、れは…………?」
二人は魂を抜かれたように呆然と立ちすくみ、その姿を見て全身から汗を吹き出した。
その姿は最早、高校生の少女と呼べる一線をゆうに飛び越えて、魑魅魍魎の類へと足を踏み込んでいた。
全身を這い回るように駆ける雷光は目を焼くほど鮮烈な翡翠の色。
背部で唸りを上げる稲妻の輪はまるでリング状に並べられた雷鼓のようにその存在を示し、両手と刀を取り巻く稲妻はまるで獰猛な熊の爪のように象られ、額のあたりから突き出た二つの翡翠色の塊は、まるで牛の双角のように鋭く天を衝いていた。
あれは本当に、標的の蘇我 舞咲なのか?───そんな自明な疑問すら反芻せずにいられない。それほど、目の前にいる者の存在は異様、かつ、異質な存在だった。
完全に気を抜いていた。
一人の少女を殺す程度、あっさりと済む仕事だと高を括っていた。いや、実際その程度だと伝えられていた。
彼女は、特殊な能力を持っているだけで普通の女子高校生と何ら変わらない、と。
聞いていた情報と違う。想定外。
それは最早雷神とさえも呼び難い。
───猫に噛み付いたのは窮鼠ではなく、紛れもない『怪物』だったのだ。
「ねぇ」
「ッ!!?」
不意につぶやかれた言葉は、釘を打ったように硬直させる。今の彼女が放つものは、言葉でさえ相応の重圧を秘めていた。
汗が止まらない。頭の警報は唸るようなけたたましい音を鳴らし続けている。
「今は私の前から消えて。何もしなければ、戦う気はないわ」
稲妻と同じ翡翠色の瞳が私を貫く。
瞼ひとつ動かすことも困難を極めていた。まして動くことなどできるはずもなかった。
化物の瞳に力はなく、表情だけなら上の空にすら見える。それなのになぜその目に気圧されている───?
立ち向かうことも、逃げ出すこともできず、ただただ立ち尽くした。
ひた、と。
裸足の彼女が歩を進める。
その足が通りに出て、私の方へと歩いてくる。
精神が更に警戒を強める、たとえそれが無駄だと分かっていても。さらに、荒くなった呼吸で辛うじて酸素をかき集める。
そうして何とか重圧と戦っているその間に、それは『何もすること無くそのまま私の前をすり抜けていった』。
私の左方向、それは蘇我の総長がいる寺院の方向だ。
「………………………………………………………」
何もされなかった。
その事実がふっと体の警戒を緩め、彼女は地面に膝を落とした。メンタル次第ではそのまま泡を吹いて倒れても無理はない、そう思えるほどの圧倒的な存在感。それは最早、彼女の背中を追って振り返る事も許さなかった。
…………そうして、汗でぐっしょりになったまま呆然としていると。
「はぁ…………はぁ…………!!」
『異変』が起こるまでは私と駄弁って、つい先ほどまで腰を抜かしていた男がふらふらと立ち上がる。
そして。
「う、うあぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!!」
血走った眼で彼女へと突っ込んだ。
彼は恐怖にアてられて錯乱状態に陥っている。その突貫に正気など一辺たりとも残っていなかった。
「や、やめ…………!」
固まっていた首が男を止めようと後ろへ振り返る。しかし、その時にはすでに手遅れに終わっていた。
男が、風をまとわせて切れ味を上げた小太刀を振り上げ、飛びかかる。
その瞬間。
ドッッ!!!!と。
音を超えた轟音を響かせて、雷撃が真横の建物を吹き飛ばした。
彼女が刀を持ってない側の熊のような手を振り返りざまにふるった。それだけで男は肉片と血飛沫へと変わり、瓦礫とともに宙を舞った。
私はそんな惨状を見ても何も変わらなかった。というよりも、他人に意識を割けるほどの余裕は無かった。
少しずつ、少しずつ。
邪魔者を消した怪物の姿が遠のいていく。
彼女が視界から消えるほど遠くへ行っても体は動かないままだった。
その先の光景を、私は忘れることが無いだろう。
ドンッ!!、
ドンッッッ!!、
と、遠方から幾度となく轟音が響く。
騒ぎを聞きつけた仲間たちが無謀にも立ち向かったのかも知れない。そして、少女はかかる火の粉を払っただけなのだろう。
雨雲の厚い空の下、まるで風に巻き上げられた紙吹雪のように、腕の一振りで、刀の一閃で、稲妻の一撃で、京都の街がその形を変えていく。
これと似たような景色を、私が小さい頃に見た。無数の叫びと数多の破壊の中で母に手を引かれながら見た、赤黒い血溜まりみたいな景色だ。
───その光景は、かつて京都を震撼させた『鬼神ノ災禍』の再来を彷彿とさせる、翡翠色に輝く地獄だった。




