14章-4:月夜の晩に涙は光る
「ふぅ…………着いたな」
(です…………)
日もかなり傾いて、鮮烈な赤が燃える空ではカラスがふわふわ飛び回っている。
洋斗は斜陽の光を受ける樹木の影に身を潜め、外国人用学生寮の様子を見つめていた。
寮の入口に特別な警備が敷かれているわけではないが、確か寮の入口には管理人たる人が常駐しているはずだ。正面から堂々と入る訳にはいかない。
どうやって入ろうか決めあぐねていると…………。
「主様、メールが来てるのですよ?」
人型に具現したナギがポケットに手を差し込み、携帯電話を差し出した。画面を開くと、確かにメールの着信を示すメッセージがある。
『
部屋番号は303
窓を開けて、鈴麗の槍を立て掛けておく
』
メールをみた洋斗はすぐに窓が並ぶ南側に回り込む。すると、文面通り3階の左から3番目の窓が全開で、窓の横で金に光る槍が立てかけられていた。
窓の並ぶ南側は校舎とは反対側、人の往来が少ない方を向いている。そして場所は3階、能力のアシスト付きで助走をつけて跳べば十分届く高さだ。
「ナギ、刀に具現」
「ラジャーです」
刀に姿を変えた逆薙の紐を手首に結びつけて、鞘をしっかり握る。そして電撃を脚にまとわせて助走を始めた。
迫る壁にタイミングを合わせて、数歩分手前で一気に上へ───跳ぶ。
目測は完璧。放物線の頂点は部屋のベランダにある柵にあわさり、難なく柵の手すりに着地した。
「来た…………洋斗、早く中に!」
洋斗が窓から部屋に入り込むと鈴麗がすぐに外の槍を回収、窓とレースのカーテンを締め切った。
「「「はぁぁ…………」」」
三人はほぼ同時に安堵のため息を吐き出す。
「それにしても、思ったより遅かったわね。本気で心配したわ」
「早く行きたかったのは山々だったけど、意外と捜索の網を避けながら進むのに時間がかかってさ…………」
「状況が状況だからね、それは仕方ないか」
呼吸を整える洋斗に、芦屋が落ち着いた様子で声をかける。
「僕も…………まぁ『ちょっとした野暮用』があってここに来たんだけどね、その途中に先生から洋斗のことを聞かれたよ。なんだか大変な事になってるね」
「洋斗が来るまでの間、その事で話してたの。それでね…………」
珍しく鈴麗が言い澱む。沈黙が数秒ほど続き、ようやく問いかけた。
「洋斗が水晶碑を壊したわけじゃないのよね…………?」
なんでそんな質問を…………とも考えたが、
「まさか、そんな事してない」
ただ質問に返答するのみにとどめた。
「黒色水晶碑、だっけか?あれが壊されて鬼が逃げたって事自体今日の朝、ゴードンさんから教えられたんだ。ユリアも一緒だったから、ユリアにも聞いてみたらいい」
洋斗は真剣な瞳で二人を見つめる。
洋斗は、自分が水晶碑を破壊したという噂が広まっていることを知らない。だが鈴麗が言いよどんだ時点で、自分に疑惑があることを察していた。
そしてたとえ難しい事だったとしても、信頼できる友であるからこそ信じてほしかった。
「そっか、ならそうなんだろうね」
「ええ、だろうと思ったわ」
───だから、あまりに呆気なく疑いが解けたことは意外でしかなかった。
「………………………………」
きっとこの時、えも言われぬような何とも言えない顔をしていただろう。
「ん?どしたの洋斗?」
「あ、いや…………もう少し尋問されるかと思って身構えてたから…………」
「ったく、勘違いされちゃ困るわね。今のは『疑問』じゃなくて『確認』よ。むしろ『俺がやった』なんて言われてたら逆にどうしようかと思ったわ」
そう言って呆れたようにため息を吐く鈴麗と、それに乗じて何度も頷く芦屋。
どうやら端から大して疑っていなかったようだ。
「…………そっか」
洋斗は大きく胸をなでおろした。
街中で捜索の目に神経をすり減らしながら辿り着き、ようやっと心身ともに安心できる場所と仲間の信頼を得ることができた。
感傷に浸っていると、客の往来を伝える呼び鈴のチャイムが鳴り響く。
この建物は部屋の住人が部屋のボタンでエントランスの正面玄関を開ける仕組みだ。鈴麗がボタン横にある受話器を取る。しばらくして玄関の扉を開けたのは、肩で息をするユリアだった。
「ああユリア、お疲れさ「洋斗くん!!」
洋斗のねぎらいも聞かずに彼のもとへ駆け寄り、その肩をつかんで言った。
「名前を言ってください!フルネームで!」
「いきなり何言ってんだ?」
「いいですから!」
「…………き、桐崎洋斗」
「よかった、本物でしたぁ…………」
…………何が言いたいのかはさっぱりだが、どうやらユリアは一安心したらしい。安堵の表情で床にへたり込んでしまった。
「急にどうしたのよ。大慌てしてるかと思ったら変なこと問い詰めて勝手に安心したり…………」
「ええと、その前にもう一つ確認させてください」
ユリアは引き続き真顔を洋斗に向ける。
「洋斗くん、今日のうちに大江山の方に行きましたか?」
「いや、街から自然公園に行って、それから一直線にここに来た。寄り道はしてない」
「そうですか…………実は、大江山の方の森で洋斗君と会いました」
「…………は?」
洋斗はもちろん、芦屋と鈴麗も驚愕と怪訝の表情が浮かぶ。
「何かの見間違いじゃないの?」
皆が当然思うであろう説を代表して問う鈴麗。しかし、ユリアはそれに対して大きく頭を振った。
「そんなはずは…………!だって話もしましたし、触りもしました!」
「……………………」
触った、まで言われてしまっては妄想妄言の可能性をこれ以上唱える訳にはいかない。そう考えた芦屋の切り替えはやはり迅速だった。
「そ、その人とどんな話をしたの?」
「えっと…………私が洋斗くんって名前を読んだら、驚いた様子で『なんで名前を知ってるんだ?』って言われました」
「…………それで?」
「その後私も偽物だと思って『洋斗君に化けて何するつもりだ』っていう風なことを聞いたんです。そしたらその人は…………」
ユリアは真剣な目つきで洋斗の方を向いて言った。
「『違う、俺は偽物じゃない。たしかに俺は洋斗───嵯鞍 洋斗だ』って…………」
「「………………………………サクラ?」」
芦屋、鈴麗はそろって目が点になっていた。
「真面目な顔で何言うかと思ったら、やっぱり洋斗とは別人なんじゃない。驚かさないでよ。大体誰よサクラって…………?」
鈴麗がユリアの語る一部始終を呆れたように笑い飛ばす。
「…………『嵯鞍』ってのは俺の昔の名前だよ」
しかし一人、その台詞を笑い飛ばせない人間がいた。
「俺の元々の名前は嵯鞍 洋斗。その後に桐崎家に移って名前が変わったんだ。そのことを知ってるのは、今の所俺とユリアの二人だけだと思う」
「…………うそ、なによそれ。怖い事言わないで」
「まるで本当に洋斗が二人いるみたいな話だね」
「…………俺が、二人…………」
───その瞬間。
洋斗の中で、ある一つの仮説が浮上した。
それを念頭に入れて今日起こったことを想起してみる。
───突然先生達が俺の事を追い回し始めたこと。
───他の生徒達の目撃情報。
───ユリアの言葉。
仮説そのものは奇天烈だが、それを思慮に加えた説明はかなり筋が通る。
だが、まだ腑に落ちない部分がある。まだ他に何か…………。
「……………………あ」
記憶をさまよっていた頭がぶつかったのは、坂華木先生とのいざこざ。
先生は、なんで自分の中に鬼がいる事を知ってたんだ?
それに先生はこう言った。『水晶碑から出てきた俺を殺す』と。俺が水晶碑から出てきたなんてあるわけ…………………………………………。
───まさか。
それは最初に浮かんだ仮説を、更に高く超える予想外な仮説。
だがこれだと説明がうまく行く。以前の説ではつっかえていた部分も、まるでそれが通るために作られたかのように巧みにすり抜けて合致する。
ありえない説なのに、完璧に筋が通ってしまう。
「…………洋斗君?」
が、この説について説明する以上、自分の秘密を打ち明ける事は避けられない。
その説が成り立つためにはその秘密の存在が大前提なんだから。
「もしかしたら、って思うことがある。というか、多分これが正しい。けど…………」
いや、もしかしたら今がその時なのかもしれない。
とうとうこの時が来たのかもしれない───全てを打ち明ける、その時が。
「それを説明するために、言わなきゃいけない事がある」
芦屋、鈴麗、そしてユリア。
三人が洋斗の次の言葉を無言で待つ。
その視線が胸に刺さるが、肝を据えることでそれに耐える。
しっかりと気持ちを整えて、洋斗は口を開いた。
「実は俺、こことは別の次元から来たんだ」
───言ってしまった。
そういう後ろめたさにも似た感情が、頭の中をめまぐるしく駆ける。
だが言ってしまった時間は戻ってこない。ただじっと三人の反応を待つ。
黙ってそれを聞いていた三人は…………
「「「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」」」
三人はただ一つの言葉も発さないまま絶句していた。
……だが、少々様子がおかしい。
思っていたのと反応が違う。
『驚きすぎて二の句が次げない』というより、『呆れてものも言えない』という感じの雰囲気が充満している。
これは間違いなく、信用されていない。
まだ言わないでいてくれているが、『え?アンタのために大事な話ししてるのに、真剣な顔して唐突に何言ってるの?壊れたの?』という本音があたかも耳に響くようだ。
「ま、まぁすぐに信用できないのはよくわかる。けどそういう前提を持って聞いてほしい」
当惑の雰囲気をひしひしと感じながら、浮かんだ仮設について順々に説明し始めた。
「パラレルワールド、っていう言葉は知ってるか?」
「「……………………?」」
「それって、同じようで少しずつ違う世界がたくさん存在するっていう…………?」
ユリア、鈴麗がキョトンとしている中、芦屋が自信なさげに返答した。
洋斗は小さく頷いて、話を進める。
「そう、俺はその『少しの違いを除けばほとんど同じ世界』から来たんだ。それでここで大事なのは、その二つの世界が『同じようで違う別の世界』だっていうこと」
ひと呼吸置いた後、洋斗はピッと人差し指を立てた。
「例えば、俺の世界にはそもそも能力なんてない」
「「「え!!?」」」
「この世界では『生命力』って呼ばれてる物質が、俺の世界では多分『電子』っていう別のものとして発見されてる。能力が無い、っていう違いはそこから枝分かれした結果だと思う」
たとえ発見した物が同じでも、その見方が変わればそこから何が見出されるかも変わる。『生命力』の研究からは能力が生まれ、『電子』の研究からは電気が生まれた。そうして生じた差が、二つの世界の根幹を成すエネルギーの違いに繋がっているのだ。
───それだけではない。
「あと俺の世界では、芦屋道満は安倍晴明に負けてるし…………」
「負けてるの!?」
「中華民国もとうの昔に滅んで、中華人民共和国って名前に変わってるし」
「滅んじゃうの!?」
芦屋と鈴麗の仰天をよそに、洋斗は核心へと歩を進める。
「それに、俺が元いた世界には芦屋や鈴麗、ユリアとよく似た人がいるかもしれない。そして逆に、『この世界に俺とよく似た人がいるかもしれない』ってことだ」
「あ…………」
やはり芦屋は頭の回転が速い。今の情報だけで言わんとしている事に気づいたようだ。
「それでもしこの世界、この場所に『桐崎洋斗』がもともと存在して、そこに俺が入り込んだとしたら、どうなる?」
「それって…………元の洋斗君と別の洋斗君、二人の洋斗君がいる事に…………あ!!」
「それならユリアちゃんの言ってる事に繋がる…………?」
ユリアと鈴麗も言いたいことを理解してくれたようだ。
───だが、まだ俺の仮定はここで終わらない。
「それだけじゃない。一応ここからは全く確証が無いんだけど…………」
合否に自信がない、という前置きを挟んで洋斗は続きを述べていく。
「俺の中に鬼の妖気が混じってる、っていうのは天使になったユリアを助けたときに話したよな。実は妖気が俺の中に入ったきっかけになる騒動が、故郷の村であったんだ。ユリアには前に話したんだけど、二人にも教えとく…………」
洋斗は昔の事について話し始めた。
───生まれた村の事、本当の両親の事、頻繁に通っていた石碑の事。
───そして、その村で唐突に起こった地獄の殺人乱劇の一部始終を。
雲の切れ間から覗いていた橙の夕空が、話が終わる頃には夕と夜の間を示す紫の空に変わっていた。
「それで、偶然今の親父が俺を見つけてくれて、家に連れて行ってくれたんだ」
血で汚れたあの記憶を思い返しながら長いこと話していた洋斗は、一度言葉を切る。
「…………………………………………」
しばらくの間、鈴麗の部屋には重々しい沈黙の時間が流れた。
芦屋は双眸に驚愕を溜めてうつむいている。
鈴麗は手で口を押さえて固まっている。
一度話を聞いているユリアも、辛そうに目を伏せていた。
「…………それで話を戻すけど」
この空気を変えようと、話題を現在に引き戻す。
「もう一人の俺は、自分のことを『嵯鞍洋斗』って言ってたんだよな?」
「…………はい」
「さっきも言った通り、パラレルワールドっていうのは『同じようで違う別の世界』のこと。その俺が『桐崎』じゃなくて『嵯鞍』のままになってるってことは、この世界の俺は桐崎家に拾われてないってことだ」
「…………まさか、それがその二つの世界の違い、ってこと?」
洋斗の過去に対する衝撃はまだ残っているが、なんとか頭を振り絞って論理を積み上げていく。
「まぁ、あくまで予想だけどな。もしあの時俺が親父に救われてなかったら、何もない故郷で精根尽き果てて、鬼に囚われて、周りの街に降りて暴れ狂ってたんじゃないか───俺はそう思うんだ」
「まさか、それで起こったのが…………」
「鬼神ノ災禍、って事ですか…………?」
───そう。
桐崎 洋斗が転がり込んだこの平行世界は、
陰陽師の名家二名の勝敗が逆転し、
ある国家の統治が一変し、
電子が生命力という異質な概念に成り代わり、
そして、
───地獄を彷徨う一人の少年に、救いの手が伸ばされなかった世界。
再び訪れる沈黙の時間。
ただこの沈黙は、驚愕から来る絶句ではなく思慮に耽る目的があって生み出された時間だった。
洋斗の仮説を念頭に入れて、これまでの事実との齟齬が無いかを確かめていく。
「時系列が合わないけど、黒色水晶碑の中で成長が止まってたとすれば……………………確かに、全てのことに辻褄が合うね。気持ち悪いくらいに」
言葉の文面は納得を示すものだったが、その声色と顔色はそれとは程遠いものが宿っていた。それはユリアや鈴麗も同様で、とても腑に落ちない顔をしていた。
───それを認める事は、洋斗が異世界から来た事を認めるのと同義だからだ。
芦屋とユリアがそれを理由に容認を躊躇している中で。
「なんか、どうでもよくなってきたわ」
静寂の中、唐突に鈴麗がつぶやいた。
「な、何言ってるんですか!」
「そうだよ、この状況をどうするか真剣に考えないと…………!」
「ああいや違うの!そういう事じゃなくて…………洋斗が異世界から来たっていうやつ、あれをそんな深く考える必要はないんじゃないか、ってね」
率直に言うと、ユリア、芦屋、洋斗には彼女が言おうとしていることがよくわからなかった。
『異世界から来た』という非現実的な概念を唐突に持ち込んだのだ。それはにわかに受け入れられるわけなどない。ずっとそう考えて、洋斗はなかなか言い出せずにいたのだから。
対して、鈴麗の考えは非常に垢抜けていた。
「正直、洋斗がどこから来たのかとかって、根を詰めて真剣に議論する意味はないんじゃないかなって思うの。暇でやることがなくなった時に、机に頬杖でもつきながらぼんやり考えれば良いじゃない。今は『へー、そういう世界があんのね』くらいで丸投げできる程度の小さなことだと思わない?」
あっけらかんと放たれた鈴麗の言葉について考えたユリアと芦屋は、ある結論に至った。
「…………それもそうですね」
「…………確かに、僕って何に悩んでたんだろ?」
そう言って、三人はあっさりと話題を終結させてしまった───洋斗がぽっかりと口を開けている傍で。
(…………そんなもの、なのか…………?)
もっと多くの疑念が押し寄せてくると思っていた。三人にとってこの事実はとても大きなものなんだと考えていた。
だが実際、三人は早々にこの話題を切り上げて、「明日はどうするか」についての議論をすでに始めている。
一言で表すなら、拍子抜けだった。
状況が状況なだけに、一つの議題に多大な時間をかけられない、というのも理由の一つだろう。だかこんなにあっさり終わるなら、思い悩んでいた時間に意味はほとんど無かったのだ。
もっと早く打ち明けるべきだった。
洋斗は心からそう思い、小さく笑った。
それ以降は「明日はどうするか」という議題に洋斗も加わり、主に状況の整理に時間を費やした。
そして家に帰る訳にも行かないので、その日は鈴麗の部屋で一泊することになった。
カーテンの隙間から見えた月明かりは、洋斗の目にはいつもより穏やかで軟らかいものに見えた。
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所変わり、ここは舞咲と雅人が住まう木造の屋敷。雅人は夜の冷たい廊下を裸足で歩き、ある一室の前で立ち止まった。
そこは雅人の妹、舞咲の自室だった。
その襖は縫い付けられたように固く閉ざされ、襖の脇から漏れ出すはずの照明の光もない。中にいるはずの舞咲の生気も感じられない。
───まるで今の舞咲みたいだ。
なんて柄にもない事を、雅人は思っていた。
舞咲が屋敷に帰ってきたのは、太陽がほぼ沈みかける時刻になってからのことだ。
家でずっと妹の無事を祈っていた雅人がすぐに出迎えたが、服も肌も傷だらけになった彼女に笑顔は無く、代わりに魂を抜かれたように虚ろな表情が貼り付いていた───それを見て、鬼を倒すことは出来ず返り討ちにされたのだと悟った。だが相手はあの鬼、無事に生きて帰ってきてくれただけでも御の字である。その意味も込めて「おかえり」と声をかけると、舞咲は「…………うん」と空虚な笑みを見せた。
抜け殻のような状態は夕餉の刻になっても変わらなかった。思い出したようにある程度口に入れては、焦点の合わない眼で空間を呆然と見つめる───その繰り返し。
そして半分も食べ切らないまま無言で立ち上がり、自室へと閉じ込もってしまった。
とても心配だった。
今はそっとしておくべきなのではないか、という思いもある。ヒビの入ったガラスのように、下手に触れると壊れてしまうほど今の舞咲は繊細なのかも知れない。
だがもしこのまま放っておいたら、ヒビが全身へと根を広げて自壊してしまう───今の舞咲からそんな雰囲気を感じていた。明確な理由があるわけではないが、雅人は自然とその予感に身を委ねることができた。
「入るぞ、舞咲」
───返事は無かった。
襖の引手に指をかけ、横に引く。
部屋を照らす明かりはなく、窓から入り込む月光だけが部屋の輪郭を浮かび上がらせる。
その光が直接注ぐ布団の上で、舞咲は全身毛布にくるまって座っていた。冬の寒さを耐え凌ぐようなこの状態、これは何か辛いことがあった時の習慣みたいなもので、彼女が小さい頃から母に叱られた時などによくこうしてすすり泣いていた。
「…………入っていいって、いってない」
顔を毛布に埋めながら喋ったのでこもった声色になっているが、それに混じる嗚咽を確かに聞いた。
「入っちゃ駄目とも聞こえなかったからな…………泣いてたか?」
「…………ないてないもん」
冗談も甚だしい。俺が入ってくる前に涙を止めようとしていたことは火を見るより明らかだった。
───そんな事、ずっとそばにいた俺が気づかないはずがない。
胸の内で零すが表には出さず、小さく「そっか」と返すに留めた。
「何があったか、教えてくれるか?」
5秒、10秒…………。
無音の時間が重なる。月に照らされた空気が徐々に重さを増していく。
───やがて、舞咲が口を開いた。
「…………鬼と、戦ったの」
その一言に続いて、ぽつりぽつりと言葉が舞咲の口からこぼれ落ちる。
「『兄さまが昨日言った通り』、桐崎先輩は鬼だった。それで、戦って…………負けた。全然歯が立たなかったよ」
雅人はここまで聞いて、力が至らなかった事が悔しいのだと思っていた。
「その時に先輩から言われたの、『人を殺すには優しすぎる』って、『動きに躊躇いが見える』って…………幼い、って。ろくに人を斬ったこともないことだって見抜かれた」
だが、それが的外れであるとすぐに分かった。
「先輩は知ってた。人を斬った時の怖さも、人を殺した時の辛さも、人を守る時の難しさも、人を殺める時に必要な覚悟の大きさも。だから先輩は強いんだって、私が敵わないんだってわかった。私はきっと、あんな風にはなれないよ…………」
舞咲は相対する相手の強さを知ってしまったんだ。自分が躊躇して踏み切れない一線を、彼は確かな決意を持ってしかと踏み越え、先の景色を目の当たりにしている。その絶対的な『差』を目に見てしまったのだ。
悔しかったんだろう。
悲しかったんだろう。
苦しかったんだろう。
とても、怖かったんだろう。
「………………………………もう、やだよ…………」
ぽろり、と。
大粒の涙が一粒、瞳から零れるように。
「わたし…………たたかいたくないよぉ……………………っ」
舞咲の口から、ひとつの思いがこぼれ落ちた。
「こわいよ、次はきっと私が殺されちゃう…………グズッ…………こんなのもういやだよ…………」
心の枷がふっと緩み、そこから内なる思いが滲み出す。
もう、自分では止められない。
「だいたいなんで…………何で私なの?なんで私だけこんなことしなくちゃいけないの?ただ蘇我の家に生まれて、変な色の雷がだせる…………それだけなのに。たったそれだけしか違わないのに!」
水滴の集まりに過ぎなかった理不尽に対する激情は、いつしか激流となって彼女の口から溢れ出す。
「それ以外は普通の高校生なのに!なんで私だけこんなことにならなきゃいけないの!?なんで私は戦わなくちゃいけないの!!?」
毛布にくるまっていたはずの彼女は、いつの間にか雅人の胸ぐらに縋りついて嗚咽を漏らしていた。
胸に顔を押し付けて、服を涙滴で濡らす妹を見て、彼の胸で湧いたのは後悔と罪の意識だった。
『お前は選ばれた娘だ』
『お前が鬼を倒す運命なんだ』
『お前が鬼を討つんだ』
『───全ては蘇我の繁栄の為に』
舞咲は幼少の頃からそう言われ続け、その期待を一人で受け続けてきた。一方俺は見向きもされず、周りから期待される妹をただ傍から見ているだけだった。
雅人にはそれだけの価値がなく、
舞咲にはそれだけの価値がある。
俺はそれを、心の何処かで『羨ましい』と感じていた。
だが、それは俺が思うほど輝かしいものでは無かったのだ。
蘇我という苗字は彼女の足を縛る枷となり、翡翠色の雷は彼女の腕に絡みつく鎖となり、大人達からの期待は彼女の体を縫い付ける十字架となった。
そして、雁字搦めに磔られたままトロッコの上に立てられ、レールに乗って背を押されながら、一線の先へと流される───彼女の未来はたったそれだけのものとなってしまった。
無論、何も起こらなければその現状に気付くこともなかっただろう。不満に思う事はあっても、現状に頬を膨らませる程度に留まって「チョットくらい外に出してくれてもいいのにー」と呑気に笑っていられただろう。その一線を超えたところで、洋斗が言うような地獄など存在しないのだから。
だが洋斗との出会いによって、理解してしまった。そのレールが殺し合いの運命から逃さないためのものである事、一線の先に暗闇しか存在しない事を。
この世界に産まれ落ちた時点で定められた宿命。自分にそんなものを押し付けた世界を、舞咲は心の底から恨んでいた。
───そして滂沱の涙を流す妹を目の当たりにして、俺もようやく理解した。
そこで妹がどれだけ苦しんでいたかという事に。自分には妹を苦しみから救い出す力が無いという事に。
いや、違う。
その事にはずっと前から───妹を傍から見ていたあの時から、無意識ではきっと気付いていた。その現実からずっと目を背け続けていた。
『妹なら俺の力なんていらない、どうせ自力で何とかする。大丈夫だ』
そう言って妹の力を言い訳にして、妹を救い出す事を放棄していた。
(……………………ああ)
自分の馬鹿さ加減に憐れを通り越して腹立たしささえ覚える。
なにが、妹ならあっさりと倒してくれる、だ。
互いに命を奪い合う凄惨な世界に妹が足を踏み入れる───その事実だけで、俺は妹を止めなければいけなかったはずなのに。舞咲が一線を超える前に、その一線の前に立ち塞がるべきだったのに!
そんな溢れるばかりの後悔で、胸がぎりぎりと締め付けられるようだ。
「…………ごめんな」
胸にすがる妹の身体を優しく抱きしめる。
腕の中で舞咲が小さく震える。
…………舞咲って、こんなに華奢で、こんなに小さかったのか。
「力になれなくて、ずっと気づけなくて、ホントに…………ごめんな…………っ」
背中や頭をそっと撫でながら、心底の謝罪をこぼす。なぜか自分の眼からも涙が一筋、頬を伝って落ちた。
その言葉が胸に刺さったのか、それとも兄の温もりに抱かれたせいなのかはわからない。
「ぁ…………ぅ…………」
だが、その言葉と温もりは舞咲の心を繋ぎ留めていた最後の枷を、完全に決壊させた。
「ぅわああああああああああああああああっ、ぁああああああああああああああああああああああああああああああああ…………!!!!」
舞咲は掴んでいた襟を更に強く握りしめて、声を張り上げてわんわんと泣き続けた。
どれだけ経ったかわからない。
いつの間にか舞咲の号泣は止まり、泣き疲れて眠りに落ちていた。
それまでずっと抱きしめて背中を撫で続けていた雅人はその手を止め、舞咲をきちんと布団に寝かせてやる。
月明かりを受ける妹の身体に毛布をかけ、すっかり目元が赤く腫れてしまった寝顔を見つめる。
(これ以上、舞咲を危険に晒す訳にはいかない)
こんな状態で鬼と戦っては、本当に舞咲の心が壊れてしまう。
(俺に力があるかなんて関係ない)
俺のせいで、妹がここまで苦しんでいる。涙を流している。
一体、いつまで見て見ぬふりをしているつもりだ?
───いい加減、腹を決めろ!
───一線へ向かうレールから、妹を助け出せ!
(舞咲のために、できることをやる)
雅人は一人、ひとつの決意を固めるのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~
「…………そうか、もうよい」
経過の報告に来た雑役の中年を顎一つで下がらせ、上座に胡座をかいて小さくため息をつくのは、髪に白髪の交じる初老の翁。
私は、彼の前で横一列に立ち並ぶ2、30代の男女のうちの一人としてここにいる。
「いかがなさりますか?」
我ながら解を求めるにはあまりに漠然とした質問だったと反省するが、初老の翁はそれらの意味をひとつひとつ紐解いていく。
「今宵の企ては我らの後世を築くうえで必要な一計である。失敗など許されまい」
否応なく従わせるだけの質量を持った低く重たい声色が、行灯が照らす畳張りの間を支配する。
「儂ら蘇我の総力を挙げる。儂も腰を上げよう」
自ら戦場に赴く、という意思の御言葉に重鎮達から動揺の色が浮かぶ。この御方がどれだけこの機を待ち侘びていたかを再認識した。
「そして、失敗は勿論だが、この企てが世に知れ渡ることも避けねばならん。鬼とともにその根は毟らねばなるまい」
私は御方の、罪に対する背徳感を感じている、という言い回しに多少なりとも驚きを感じていた。
これは起こるべくして起こった尊い犠牲なのだ───という、救世主気取りの三下がやるような偽善丸出しな考えだと勝手に決め込んでいたが、どうやらそれはとんだ思い込みだったらしい。『倒れかかった蘇我家を立て直す上で、手段を選んでいる暇はない』といったところか。
改めて、私は具体的な行動方針を問う。
「それはすなわち…………」
「同時に彼らも抹殺の対象とする」
「……………………」
空間に驚愕を込めた沈黙が漂う。
この場で言う『彼ら』とは、十中八九御方のご子息である舞咲と雅人の事だろう。御家の為とはいえ行為は犯罪であるため、計画を知るものを外に放置しておく訳にはいかない。だが兄の雅人はともかく、討鬼の力をもつ舞咲まで刃にかけるというのは意外だった。
要するに、あの出来過ぎた妹様の尻拭いと後始末、それが明日の私達の任務というわけだ。
「明朝にここを発つ。心せよ」
ザッ、と皆一斉に片膝をついて頭を下げる事で、了解の意を示した。
目的のために自分の子どもまで手駒とし、用が済めばお祓い箱として躊躇なく吐き捨てるとは…………。
───この御方も大概鬼だな。
私の口は弓なりに弧を描き歪んでいた。




