13章-4:天壊兇変
亀裂の入った天蓋の夜が、少しずつ白み始めていた。
まだ太陽が顔を出したわけではないが、たとえその一部が欠けようとも、変わらず新しい一日の到来を待ち受けている。
そしてそれだけの時間が経とうとも、空の亀裂から溢れる金光は依然として衰えない。訪れる日の出を食い破らんとしているかのような輝きを泉のごとく放ち続ける。
そんな金光にあふれる空間で、暗赤色の雷撃が一気に前へ飛び出した。
「ふッ!!」
低姿勢からの雷撃による斬上げ、それをミカエルの刃がぶつかって正面から相殺する。
そこから流れるように繰り出す洋斗の刀も、ミカエルは片腕の動きだけで受けきってみせた。
神通力とかいう特有の力のみではない。等しく剣術の腕を備える一人の剣士でもあることを、洋斗は感じ取った。
黄金の剣と逆薙が、轟音を立てて拮抗する。
「ぐ…………ッ」
ミカエルの片手に対して、洋斗は両腕に力を込めて意地で抵抗する。
それを両サイドから回り込むように───ユリアの銃弾が二発同時に飛び込んだ。
ミカエルはバックステップで洋斗との拮抗を解き、銃弾を回避。
(死角からの貫通弾!)
そこを狙い、ユリアが引き金を連続で引く。無数の弾丸は一旦上空に上がってから、地上のミカエルへと降り注いだ。
「……………………」
衝撃で巻き上がった粉塵を眼鏡越しに見つめる。
それを見ながら。
その体勢で、ユリアは一発引き金を引く。
弾丸は彼女の後ろへ回り込み、振り上げられていたミカエルの剣を弾き飛ばした。
『な…………ッ!?』
ミカエルの顔が、初めて動揺に歪んだ。
その間にユリアは振り返り、弾丸を数発放つ。
弾丸はミカエルの残像を穿ち、本体は彼女から10メートルほど離れた位置に移動。その脇腹には何かが掠めた痕が確かに刻まれていた。
ミカエルが先程から行使しているこの瞬間移動は、神通力第一の力───神足通によるもの。正確に言うと、神足通による移動はテレポートではなくあくまでも『目に見えないほどの高速移動』だ。転移ではないにしても、人の身でその動きを捉えることなど到底不可能である。
だが、彼女はその動きを確かに捉えていた。という事は…………。
『…………お前、見えているな?』
「ええ、これのお陰です」
そう言ってユリアは指で小さく片眼鏡をはじく。
『…………なるほど』
その一言で、ミカエルは至った。
『神通力、いや、その類の何かをものにしたというわけか。つくづくラファエルに好かれたものだな、女よ』
視線を交錯させる両者。
(すごい…………あの眼鏡で動体視力も上がっているのか)
洋斗は、それらの一部始終を傍から見て、素直に感服していた。
(いや、それだけじゃない。一発一発の弾丸の威力、操作の正確さも格段に上がってる)
裏付けているのは、ミカエルの瞬間移動で後ろに回り込まれた時。
見えてもいないミカエルの剣に正確に弾丸をぶつけ、洋斗でも拮抗が精一杯だった剣を確実に弾いていた。
洋斗は、別れた後ユリアに何があったのかを知らない。だが、彼女の力と自身に満ち溢れたその姿を見て感じた。
俺もうかうかしてられない。このままでは俺の方が足手まといになってしまう───と。
『だからこそ、許せぬ。我が主の威権を示すため、お前を粛清する』
ミカエルは瞬時にユリアの横へ移動し、剣を振るう。
振り向いている時間はない。すぐさま動きに合わせて銃弾を撃ち出した。
が。
『こっちだ』
「 !!」
弾丸が弾くはずの剣は、弾の軌道の反対側で振り上げられていた。
フェイントに嵌められた。
───間に合わない
一瞬の焦燥が全身を駆け巡る。
その一瞬。
完璧とも言えるタイミング。
「俺も混ぜろよ」
ミカエルの真横で、脇腹へと暗赤の一閃を叩き込んだ。
ミカエルはそれを、黄金の盾で防いでいる。
「ぐ、おおおおおおおおおお!!!」
『ふ、無駄…………だ…………!?』
───ビシ、と。
ミカエルが鉄壁と自負する黄金の盾。それが鬼の妖気をぶつけられて、軋んだ。
動揺の隙を逃さず放たれた弾丸を神足通でかわしつつ、ミカエルは再び距離を取る。
ただ、その揺らぎは先ほどとは比べ物にならない。
かち合って最初の一撃ではびくともしていなかったはずだ。
揺らぎもしていなかったはずだ。
(……………………なぜだ?)
魔界に近いとはいえ、彼の力は地獄ほどの濃い力ではない。
神通力とはいえ、彼女の力は天使の力の紛い物だ。
だというのに。
(……………………なぜだ?)
なぜここに来て、あの人間の一撃は我の盾と競った?
先程と今の違いとは、果たしてなんだというのだ?
…………彼らのどこに、そんな力が?
「ユリア」
「…………はい?」
「俺が絶対、ユリアを死なせない」
洋斗の顔を仰ぐと、彼の赤い瞳もこっちを見ていた。
その眼は、自信と勝気に満ちていた。
その眼を見ても、もう恐怖は抱かなかった。
「それなら私だって、絶対に洋斗君を死なせません」
だから負けじと自身に満ちた声でそう返した。
「これで、私達は無敵です」
「…………だな」
洋斗は小さく笑い、一歩大きく前へ出た。
洋斗とユリアが攻めに転じた。
黄金と暗赤。
能力という世界の根幹ごと消滅させ得る二つの力が、幾度となくぶつかる。木々を薙ぎ倒しながら衝突し、爆散する。
吹き荒れる爆風の中、ミカエルの大振りを飛び退いてかわしつつ、雷撃を撃ち出した。
衝撃で地面を刳り迫るそれを、ミカエルは神足通で上に飛んで回避。
───そこからの急速落下、剣戟を振り落とすことで地盤ごと叩き斬る。
───そのつもりだった彼の急降下に迎え討つように、地上から黄金の弾幕が迫っていた。
ユリアが撃ち上げたのは拡散弾。大きな一発の銃弾が無数に分裂し、大量の弾丸をばら撒く。
ショットガンと唯一異なるのは、分裂した弾丸一つ一つが、大きく拡散した後で標的を追尾することだ。
『小癪な…………!!』
已む無く思考を攻撃から守備に切り替える。目の前に力を集め、一枚の黄金の盾を形成した。
小弾が、巨大な盾に群がる。
ズガガガガガガガガガガガガ!!と、弾が盾を穿つ音が連続する。
それでも、聖地エルサレムの守護に足る程の堅牢な壁に穴を開けることは叶わない。
無論、この事はユリアも承知の上だ。
ミカエルの眼前に盾を張っている間に、神足通を発動して上空に飛び上がる。そして一気に背後へ回り込み、ゼロ距離で一転集中した貫通弾を撃ち込───
『惜しい』
「ッ!!?」
回り込み、盾の裏側へと銃口を向けたが、そこはもぬけの殻。
動揺するユリアの更に背後へと、ミカエルは既に移動していた。
(しまっ……………………!!!)
身の危機を感じてとっさに銃弾を一発、間に一枚の板を形成し───
『ふんっ!!』
ミカエルは間の薄板ごと薙ぎ払う。
一瞬。
身体が鈍重な痛みを訴えるより遥かに速く、ユリアの身体は大気を下に貫いた。
体勢を整えることも、地面がどこなのかを定めることすらできない。
壁に投げつけた人形のように、むしろそれよりも重く、強く、冷たい地面へと叩き落とされる。
衝撃で空気が揺らぐ。
ズ…………ン!!と、腹にのしかかるような鈍い音が響く。
「か、ハ…………がふ…………っ!!??」
今まで感じたことの無い、未知の世界だった。
全身を打ちつけられて、口から鮮血がこぼれてくる。頭が強く揺さぶられて意識が飛びかける。たった一撃、もろに受けただけで全身の筋骨が気魂しい警鐘を鳴らす。自分が今五体満足なのも疑いたくなる激痛だ。
だが、まだ動ける。
折れるな。
怖気づくな。
覚悟はしていたはずだ!
彼を助けるために立ち上がるという事は、彼が受けてきたこの痛みを代わりに引き受けるという事なのだから!
「ぐ…………ぅ…………ッ!!」
揺れる意識の中で手をつき、五月蝿い警告を無視して足に力を入れる。
意識が揺らぐ。
───目の前に、ミカエルがいた。
ユリアが目を見張る。
───目の前に、彼の背中があった。
「はぁあああああ!!」
盾ではなく剣で受けたミカエルを、洋斗の雷撃で押し飛ばす。
ユリアから強引に引き離す。
『…………このスピーディーエンジェルである我に追従するとは、お前、中々の俊足と反射神経である。だが…………』
真正面から妖気の雷撃を受け、押し飛ばされて、それでもミカエルは無傷のまま淡々と語っていた。
『それも果たして長く保つのか?随分息が上がっている』
「……………………うるさい」
『まだまだ余裕がある、という事だな?それならもう少し上げても良かろう。この世界が壊れることもあるまい』
その瞬間。
空気の質と量が、変貌した。
「「ッ……………………!!??」」
じりじりと全身を炙られるような未知の感覚。重力が膨れ上がったかのような未知の感覚。
先ほどまでのプレッシャーとは全くの別物。今この瞬間に別の環境へと放り出された、そう二人の身体が錯覚した。
───確実に何かが替わった。
そう感じさせるには充分だった。
キィ…………ン、と耳鳴りに近い音が頭を叩く。ユリアが模造天使として地に現れた時と同じ音。それこそが、天使の存在の大きさに苦しむ世界の悲鳴であることを、二人は知らない。
ミカエルが剣を持った腕を、振る。
それは、滑らかに、水平に。
普通の人間でも見えるくらいの、普通に棒を振る腕の動き。目の前にいても微風すら感じないであろう程度の速度、その上両者の間には20m以上の距離。それは取るに足らないただの挙動。
───そのはずだった。
その動きに、洋斗の身体は逆薙で防御する体勢を採っていた。
その一瞬後、
彼の身体が真横に吹き飛んでいた。
「 ッぶぐぅォ!!??」
身体が転がる、というより水面を跳ねる石のように地面を跳ねる。
(あるじさ !
速度が落ち、地を転がるようになってようやく身に起こったことを理解した。
意識は、それの到来に気付いていなかった。
これまで幾度となくその命を守ってきた反射神経ですら、体とそれの間に逆薙を挟み込むのが限界だった。
そして腕に力を入れる暇すらなく一気に防御ごと薙ぎ払われた。
それとは、距離の概念を自在に変更するミカエルの剣。
振った腕が緩慢でも、回転半径が20mになればその速度は手の速度の約40倍までハネ上がる。
そして振られた剣は音速を超え、軌道を阻む樹木を斬り飛ばしながら逆薙に激突。衝撃で横に吹き飛んだのだ。
「ぐ…………げほ、ゲホッ!!」
回転と激痛で混乱した頭を叩き直し、喉につっかえていた血の塊を咳で吐き出す。
「あるじさま!!ご無事ですか!!」
「あぁ…………」
ナギが人型に具現して主のもとに駆け寄ってきたので、それをなだめる。そこで初めて、途中で逆薙を持つ手を離していたことに気づいた。
「な……………………」
まだ立ち上がっていなかったユリアは、眼前で起こった事に唖然としていた。
何かの激突の瞬間、目の前にいた彼の背中が消えた。
頭上すれすれを何かが横に駆け抜け、何かが爆発したような轟音が耳の奥で爆ぜた。
その直後に襲いかかった衝撃波で身体が薙ぎ倒されかけた。
───天眼通が無ければ恐らく、それが剣であることすらも気付けなかった。
『どうした、怖気づいたか?』
「ッ!!」
えら骨をなぞるように、気味の悪い汗が流れ落ちる。
全身が強張り、硬直して動けない。
『…………ふむ。ビューティフルエンジェルである我から目を離せぬ、というのは最早真理であったな。元来、天界の住人の存在というものはこうでなくては』
正真正銘本物の天使、その力の一端を見たユリアの心中で、恐怖の感情が渦を巻いて湧き上がる。
「まだ、戦うのですか…………?」
ナギ自身、自分の口からそんな言葉が出てくると思っていなかった。
「相手はとんでもない化物なのです。地形さえも変えてしまうレベルの攻撃を片手間でホイホイ出してくる怪物なのです。このまま相手をしてたら、ホントのホントに主様が死んでしまうのです!」
「…………それって、ユリアの事を諦めろって事か?」
「そ、それは、ぁぅ…………ッ」
我ながら意地汚い質問だ───と洋斗は思う。
片や、共に苦難を乗り越えてきた自身の持ち主。
片や、共にはしゃぎあった家族のような存在。
どちらも捨てたくないに決まっている。二人の命を天秤にかけることなどできるはずがない。
「うぅ、で、でも…………」
ナギは身も心もくしゃくしゃにして、それでも捨てられない思いを口にした。
「私は、ユリア様にも、主様にも、いなくなってほしくないです…………」
それは今となっては無謀な、儚い希望。たとえ叶わないとわかっていても、それでも手を伸ばさずにはいられない幻想。
目から大粒の涙を零しながら、しかしそんな夢物語を噛み締める。
それを聞いて、洋斗は少し安心していた。
「…………それは俺も同じだ…………っぐ」
「…………!」
地面に手をついて、膝に力を入れる。重力の負荷にすら『激痛』という悲鳴を挙げた。
「俺だってまだ死にたくない。それにユリアも助けたい。だからここで諦める訳にはいかない…………!」
「あるじさま…………どうか、御無事で」
それ以上は何も言わず、ナギは刀に具現して地面に突き刺さった。
逆薙を杖代わりにして全身に一層の力を込める。
力んだ脚が腰を上へと押し上げた───
真正面にそびえる壁が頭上に倒れてくるような重圧。
それに抗い、ユリアの手が地面から離れる。
圧倒的力量差を見せつけられて、
生まれたての子鹿のような虚弱さで、
それでもなお、彼女は立ち上がる。
『…………分からん』
その姿に、ミカエルの眉がわずかにつり上がった。
『未来は既に終えている。先がないとわかっていながら進むのは最早勇気ではない。ただ滑稽で無為な行為だぞ?』
「…………意味なんて無いってわかってても、止まるわけにはいかないんです」
膝が砕けそうになるのを両手で必死に抑え込む。繰り返される呼吸は荒く、身体が前後にぶれて倒れそうになる。
それでも心だけは真っ直ぐに、折れることはない───
そして、二人は。
互いに誓いを立てるように高らかに叫んだ。
「こんな私を助けたい人がいるんです」
「こんな俺を助けようとしてくれている人がいるんだ」
「「そんな人を見捨てて、自分だけ諦める訳にはいかない!!」」
───お互いの声が聞こえる。
それだけで、足の震えは止まっていた。
───お互いの存在を感じる。
それだけで、握った拳に力が戻っていた。
その身体はぼろぼろでも、二人の立ち姿は活力に溢れているように見えた。それが放つ煌々とした光を、ミカエルは見た気がした。
───ミカエルは確信した。
その正体はわからない。
ただ。
彼らの存在は時空のパワーバランスを崩しうる存在である、と。
『…………ならば見せてやろう』
───虚構の道の先を。崖の下で口を開く奈落の底を。
「「っ!!」」
二人が同時に地を蹴る。
身体強化して走る洋斗、神足通で飛翔するユリア。その速度はほぼ等速。
両者を捉えるため、ミカエルは剣を水平に薙いだ。
軌道上、先にぶつかるのは洋斗。今度は腕の動きをしっかり見極め、全身の力を使って逆薙をぶつける。
(受け止めたら駄目だ。それなら…………!!)
剣の重量は最早剣戟のそれでは無く、走ってきた乗用車を止めているような感覚だった。また押し飛ばされる危機を感じた洋斗は瞬間的に意識を切り替える。
衝突の瞬間に合わせ、受け止める腕を上に引く。そして全身をバネのようにねじりながら、逆薙を一気に上方へ振り抜いた。
衝突していた力を正面から受け止めるのではなく、上に軌道をずらして強引に後ろへと受け流す。そのための行動が功を奏し、洋斗が吹き飛ばされることなく地面を転がり、剣の軌道が上に逸れてユリアの頭上を両断した。
洋斗を信じて前へ飛び続けていたユリアが、光弾を5、6発同時に射出する。弾は軌道を曲げながら囲い込むように一点の標的を狙う。
ミカエルは唯一弾幕が無かった後方へと飛び退いた。標的を失った光弾は一点でぶつかり合い、大きく閃光を放った。ミカエルの視界一面が巻き上がった粉塵に覆われる。
その粉塵を、一条の光線が貫いた。
『く…………』
その光線は、正確にミカエルの胸を穿つ軌道だった。粉塵の中にいながらも、天眼通で粉塵を透視して撃ったのだろう。
その光線を、剣で叩き斬ることで相殺させる。光線は一振りで粉々に砕け散って消えた。
粉塵に孔を開けながら、続けて何本もの光線が続けて放たれる。時に一直線最短距離で、時にあらぬ方向から折れ曲がって、ミカエルを狙う。
が、レーザーが彼を貫く瞬間彼の姿が消えるのを、片眼鏡越しに見た。
「え…………!?」
消えた、というのは『天眼通を発動した状態の』ユリアから見た主観的な表現だ。本当の意味で、目で追うことができなかった。
ついさっき、彼女はその眼でミカエルの神足通を追いかけ、迫る剣を銃弾で弾き返すという芸当をやってのけた。それができなかったという事は…………。
(また速く…………!)
───マズい。
きっと、ミカエルは自分を斬れる位置にいる。そしてもうその剣を振りかぶるところまで終わっているに決まってる。どこにいるかと首を回す暇なんてあるはずも無い。
よって、そんな状況で直後にとった行動は、殆ど瞬間的なものだった。
トリガーに掛かった人差し指に力を加えるだけの微動。
撃ち出された光弾は銃口を離れて───
ドッッッッ!!!!
周囲の粉塵ごと自分自身を爆破した。
ユリアが元いた場所で、神速の一閃が空を斬った。同様に爆発を間近で受けたが、動きに支障はない。
10メートルほど先には、ふらつきながらも立ち上がろうとする金髪の少女。辛うじて命を繋いだが、『爆発をわざと受け、爆風で回避した』ため所々に火傷の跡が見える。
とどめを刺そうと彼女に迫ろうとしていた意識は、
「はああああああああッ!!!」
腹を割くような雄叫びにそらされた。
直後。
雷撃と盾が、激突する。
その一撃に、ミカエルが思わず目を見張った。
(威力が、上がっている…………?)
疑いたいが、疑いようがない。
目覚ましいほどにその威力が重くなっている。
それはミカエル自身がわずかに恐れを抱くほどに。剣で受けていたら砕かれていたかもしれないと思わせるほどに。
『ふんッ!!』
防いでいた盾を前に押し出すことで洋斗を弾き飛ばす。それによって洋斗の身体はわずかに宙へと浮き上がった。
その一瞬の隙を逃さない。
その盾ごと斬り裂くかたちで金の刃を横薙ぎに振った。
盾はいつでも霧のように消滅させることができる。いかに盾が強固でも、当たる寸前に霧散させてしまえば剣を阻害することはない。
その上刃の距離に限りはなく、剣を振るう姿は盾で覆い隠されている。
───これならどうだ?
相手を試すように振るわれた一閃。
それを受け、
洋斗は再び横へと弾き飛ばされる。しかし、その身体が二つに分断されることはなかった。
剣と身体の間に逆薙を挟み込んでいたのである。しかも身体のねじりで衝撃を少し和らげ、吹き飛ぶ距離を短縮するという小業付きで。
剣を振るったあの時、彼の目は確かに剣ではなくこちらを見ていた。剣先も見えていなかったと思われる。
そんな状況で、その場における最善の対処をやってのけた。だとすればやはり視認していたのか。
……………………いや。
(そもそも目は宛てにしていない、か)
視覚に頼らず、彼の持つ本能や反射神経に全身を預けているのだ。身体のねじりも、本能が反射的に選び取った反応なのだろう。だとすれば、目は標的を定める事にのみ使われている。攻撃を受けたでさえビューティフルエンジェル(自称)であるミカエルを凝視していたことも頷ける。
確かにそれは愚直ではあるが、その域に達する事の難しさを、天使きっての剣客でもあるミカエルは理解している。
だが、腑に落ちない。
追い打ちをかけよう、とミカエルが次の行動を選ぶ。
その刹那を狙いすましたかのように数発の光弾が飛来して行く手を遮る。弾は先程よりはるかに速度が上がっており、ミカエルはそれを無視できなかった。
あの金髪の少女は、まだ諦めていない。体は傷多いが、それでも意志は強くある。
やはり、腑に落ちない。
それらの光弾を、剣でひとつ残らず切り払う。
光弾は爆発することもなくすんなり霧散した。速度を優先して威力を落としたようだ。
確かに有効打にはならなかった。
しかしその数発は、洋斗が復帰するまでの時間を勝ち取っていた。
再度駆け込んだ洋斗の流れるような乱撃を、ミカエルは盾と剣を巧みに使い分けていなしていく。一見柔軟に見えるが、それらの一撃一撃はかなり重い。
横に迫る剣を屈んで回避する。そして低空姿勢のまま大きく一歩、ミカエルの懐に踏み込んだ。
『な…………ッ!?』
わざわざゼロ距離まで踏み込んでくる事に一瞬言葉を無くしたが、すぐにその目的を理解させられた。
元々剣がぶつかり合うクロスレンジから更に前に出て、体が触れるほどの距離に潜り込む。無論互いに剣を振ることはできなくなる。
しかし、嵯鞍人拳皆伝の洋斗にとって、接触寸前のこの距離は無類の強さを十二分発揮できる絶好の範囲だ。
剣士には不利な距離、拳士には至高の距離。
洋斗はミカエルの鳩尾めがけて、鬼の妖気を溜め込んだ掌底を叩き込んだ!
ドンッッッ!!、と砲撃と間違うほどの轟音がミカエルの腹で響く。
急造ではあるが、間に小さな盾は挟んだ。だがそのあまりの威力に、衝撃波がミカエルの肉体を貫通し、宙に浮きあげて盾ごと吹き飛ばした。
ミカエルとの戦いにおける、人間側がぶつけた初めての有効打だった。
『くそ…………!?』
この一撃もあって、ミカエルの意識は完全に洋斗へと注がれていた。
だから、寸前まで気付けなかった。
ミカエルがまだ宙に浮いている───その状態で、何かを感じた。
その目が後ろを見た、まさにその瞬間に。
飛ばされた方から向かってきた光弾が複数、ミカエルを直撃した。
ドドドドドドド!!!と衝突した全ての弾が炸裂する音が森の空気を打ち鳴らす。
「はぁ…………はぁ…………」
片膝をついた状態で銃を構えるユリア。その肩は荒く上下を繰り返している。
感触はあった。
神足通で回避した様子もなかったし、盾も見えなかった。
恐らく、全弾命中。
ダメージは与えたはずだ。
「アイツは!?」
洋斗が鬼気迫る声で叫ぶ。その意味を素早く汲み取って、ユリアは天眼通で爆煙の中を見た。
そして、視認した。
「ッ!まだ立ってます!」
「やっぱり…………!」
未だ生存の知らせを聞くやいなや、洋斗が一気に爆煙の中へと走り込む。
その直前、ユリアは異変を感じ取った。
「ま、待って!!」
そう叫んだのは、既に洋斗が煙の中に突入した直後だった。
数発の衝突音。
次の瞬間、洋斗の身体が煙の中から勢い良く吐き出されていた。
地面を転がる彼のそばになんとか駆け寄り、身体を起こす。
「っく…………っ」
「洋斗君!大丈夫で……………………ッぐ!」
突如、ギギィ…………!!と天から鳴り響く、聞き慣れてしまった耳鳴り。
しかし、この音は以前のそれとは桁が違った。
鼓膜どころか頭が痛むほどの振動。すぐ隣にいるユリアの声が霞むほどの音量。耳鳴りというより超音波を耳元で当てられている気分だった。
『…………………………………………もうよい』
内から湧き上がる感情を引き絞るような、押し殺された低い声。溢れる思いが今にもはち切れそうな重たい声色。それは頭を占める不協和音の中でものしかかるように重く響いた。
『最早この世界がどうなろうと我の知るところではない…………』
天使よりはるかに下の存在である筈の人類を相手にして、あろうことか守備に徹し、圧されているという事実。それに対する屈辱や憤懣が、空間を揺らがせる激動となって表出する。
そして、その揺らぎは沸点を超えて───
『天の蹂躙によって叩き潰してくれよう』
ビシィッッ!!と、
二人のすぐ横の空間に、新たな亀裂を生み出した。
彼の存在が、世界の許容を超えつつある。まさに存在そのものがこの時空を破壊しつつあった。
洋斗の身体からどろりとした汗が噴き出す。
これまでだって、ミカエルは長さを無視した剣を巧みに振り回し、並の威力では到底砕けない黄金の盾を自在に出現させ、更には瞬間移動まで使っていた。この時点で人間を相手にするには贅沢すぎる物量であり、特異な力を持つ洋斗とユリアが死力を尽くして、無限と続く死地を切り抜けて、身を削りながらその隙間をかい潜り、そうしてようやっと一、二発の有効打を与えられる。
それくらいの差が、既にそこにはあった。
───これ以上、何が起こるというのだ?
あの天使は、この世界などどうでもいい、と言っていた。そんなレベルの攻撃が、これから自分たちに襲いかかってくるのか?
異次元からの攻撃で感触も分からぬまま粉々にされるのか。
自分たちが存在している空間ごと拳大に握りつぶされるのか。
時空もろとも消滅させられ、存在すら人類史から抹消されるかも分からない。
そんなもの、自分たちにどうにかできるのか?
必死にあがきながらも繋ぎ続けてきた明日への道。それがぼろぼろと崩れ落ち、奈落の底へと消えていく。
洋斗も、ユリアも、絶望の海に沈みつつある。
『いくぞ。精々逃げ惑え』
ミカエルが、本領を現した四大天使の一角が遂に、動く。
その腕を天高く掲げて───
『間に合ったようですね』
───何かが炸裂して、音や光が消滅した。
音速をゆうに超えた衝撃波の壁が、ミカエルを中心として周囲の木々を紙束のように薙ぎ倒し、地面すらも抉った。
ミカエルを中心とした直径25kmの範囲で木々が消失し、直径15kmのクレーターを形成していた。
『今この時までよく耐えてくれました』
しかし、そのクレーターの形は少しばかり歪だった。
それがつくる円、その円周から中心へ細くえぐるように鋭くへこんだ部分がある。
その先端部分にあったのは、金に輝く盾。
「「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」」
洋斗とユリアもその先端部、盾の裏側にいる。
確かに生きている。
二人の視界の両端には、ミカエルがもたらした惨状が地平の彼方まで広がっている。
けれども、二人の目にはそれが映らなかった。
現実逃避していたわけではない。
ただ───
『もう、大丈夫ですよ』
目の前にある現実が、あまりにも美しかったのだ。
断罪の執行者としてではなく純粋な救世主として戦地に降り立ったその天使は、澄み渡る空のような深い水色の三対六枚羽を揺らし、清純さが溢れ出るような端正な顔立ちを微笑みで彩り、聖母の温もりをそのまま形にしたようだった。
それはまさに人類の思う天使の理想型。戦地に蔓延る絶望をさらう希望そのものだった。
『な…………ラファエル!?』
ミカエルが、これまでに見たことの無い驚きをその顔に見せる。
『…………信じられませんか』
対して、あくまで柔和に言葉を繋いでいく。
『私が断罪とやらに間に合っていることに。いや、私が間に合ってしまうほど人間一人の処罰に時間を取られたことに、でしょうね。時間を忘れるほど拮抗していたと、そんなところですか。フフフ…………』
ころころと上品な笑みをこぼすラファエル。
『自分が散々下等だ下等だと卑下していた人間様に遅れを取った気分はどうですか、エンジェルオブエンジェルさん?』
そんな彼女が、温厚な笑顔のままで中々の毒を吐いた。
「「……………………」」
『……………………おい』
『あらあら一丁前に聞き返すのですか随分と傲慢になりましたね?既にプライドは細切れにされたと思っていましたがまだ意固地になるだけの自尊心が残っていたのですか。正直に申し上げて感服です。感服の至りこの上なしですよ』
『…………なぜ邪魔をする』
『…………私が与えたこの力は、この娘の未来に必要です。ここまでしなければ彼女に降りかかる悲劇に釣り合わないのです。それに、私は命の持つ可能性を信じています。それについては、貴方も時間をかけてじっくりと体感したと思いますけど』
『可能性?笑わせる。彼らは共に滅ぼし合う愚者の塊、謂わば失敗作だ』
『驕りも甚だしい。我らが主の手で産み出された尊き存在を貶すなど、主への冒涜に他なりません。天使の筆頭がこれとは、同族として哀れみさえ覚えます』
『邪魔をするというなら、たとえラファエルといえどただでは済まんぞ?』
『えぇ結構ですとも』
ミカエルの脅し文句をぴしゃりとはね除ける清らかな玉声。ただしその顔に滲んできたのは、温厚からは程遠いドロドロした感情だった。
『私はとても怒っています。えぇそれはもう、炎や溶岩を軽々通り越して超新星爆発に匹敵するほどに。今の私なら時空の一つや二つ、苛立ちの感情だけで消せてしまいそうですよ。ですけど…………』
この時には、既にラファエルの姿は消えていた。
と、同時に。
ズドンっ!!と、
ミカエルの後ろで、鈍重な何かが地に突き刺さる音が響いた。
『何のつもり、だ…………っ!?』
突如、ミカエルの身体に圧力がかかった。突き刺さった何かの方へ、天使の筆頭ですら抵抗できない力で。
『まさか、これは!!』
『私を捕らえていたものと同じものを使いました。どういうものかは貴方が一番ご存知でしょう?』
余剰次元のあらゆるベクトルをその中心に向けさせる無壁の牢獄。後ろに刺さったのはその中心を指定するための御柱だと、ミカエルはすぐに察した。
勿論、その解決策も。
『なら柱を破壊するまで…………!』
『無駄だと思いますよ?』
そしてラファエルは、解決策の行使を予見していた。
『その御柱には私の力を溜め込んでおきました。貴方は、私の名の由来を知っていますよね?』
『神の、癒し…………という事は!!』
『その御柱は強力な自然治癒能力を備えています。要するに壊したそばから復活する、というわけです。私だって四大天使の一角であることに変わりありませんから、拘束力自体もお墨付きですよ?』
『く…………』
『先程も申し上げた通り、私はとても怒っています。ですがこの世界の中でするつもりは毛頭ありません。そんな事をすれば文字通り世界が粉々になってしまいます。なので…………』
ラファエルはミカエル───正確には彼の背にある御柱へと手をかざす。
『私の用事が終わるまで混沌の中を漂っていてください』
その瞬間、御柱が天へと撃ち上がり、未だ空に口を開ける大穴を通り抜けて黄金の彼方へと飛んでいった。
張り付けられたミカエルごと。
発射されたロケットのように。
「「………………………………」」
天使が柱に括りつけられたまま空高く飛んでいく、というかなりシュールな光景を洋斗とユリアはただただ拍子抜けた顔で見上げていた。
思えば二人はラファエルが来てから一度も言葉を発していない。命の危機からいきなり急速に変わっていく展開に現況理解が追いついていない。
『…………さて、ようやく例の羽虫…………失礼、厄介者がいなくなってくれたので落ち着いてお話ができますね』
何やら天使の口からとんでもない暴言が出てきたような気がするが、二人にそれを指摘する余裕はなかった。
「あ、あの」
『はい?』
「あのてんしさんは…………?」
『見ての通り時空の彼方へと放り捨てました。もう心配いりませんよ』
「そうですか…………」
『それに、全てが終わったあとで私がきつく、キツぅくお灸を据えておきますので』
「……………………」
ともあれ、どうやら危機は去ってくれたらしい。それが分かり、二人の全身から一気に力が抜けて地面にへたり込んだ。
「よかった…………」
「助かりましたぁ…………」
『本当に無事で何よりでした。本当に…………っ』
ラファエルはふと言葉を詰まらせる。
そして地に両膝をつき、地面に座っているユリアと同じくらいの高さまで頭を低く下ろす。そして両の手は指を絡めて、うなじの前でしっかりと組まれている。
その姿は、十字架の前で神に許しを請う信徒の姿そのものだった。
天使が、口を開く。
『私は貴女方に、不要な運命を押し付けてしまいました。貴女に力を与えた当時、貴女がその未来を生き抜くためには必要であると考えていました。よもやそれが新たな火種になるなど考えもしませんでした…………』
『結果その火種が大きくなり、業火となって貴女を焼くこととなってしまった。その上その火が貴女方に届く前に、未然に消すことすらできませんでした。神のお側に使える者として心の底から情けなく思います』
『今日迄の私の罪、許しを乞うことは許されないことも心底理解しています。命を救う役を任された天使として在るまじき醜態だということも解っています。けれど、こうして頭を垂れて言葉にしない限り私の気が収まることは無かったのです』
『どうかこの罪を、お許しください…………ッ』
うずくまる彼女の背中が震えていた。
言葉に詰まることはなかったが、所々で声が上ずっていた。
時々、俯いた顔から光るものがこぼれ落ちていた。
ここは自分が口を挟むところではないと察して、洋斗はただその様子を見つめる。
「私は、悪い事ばかりではなかったと思いますよ?」
そう言ったユリアは、微笑んでいた。
「確かに、こんな事になったのをあっさり受け入れることはできません。けど、私とてんしさんの出会いは絶対に無駄じゃなかったと信じられます。こんな事になってしまったのは確かに神通力のせいでしたけど、同じようにこの力のおかげでまた新しい一日を迎えることができましたし、私に大きな自信をくれました。そもそも、私達が出会っていなかったら、私は11年前の時点であの森の中で生を終えてるはずですし。それに…………」
ふと、洋斗と目が合った。
この出来事がなかったら、きっと胸につっかえていた思いを彼に伝えることはできてなかった。いつまでもずるずると引きずって、結局伝えられず、お互いの関係が終わっていたかもしれない。
だから。
「この出来事は、私が大きな一歩を踏み出すきっかけなんだって思います。この出来事で得たものはきっと、この先の私を支えてくれるはずです。ですから、今後もてんしさんの神通力に助けてもらいます。その分で償いになりますよ、きっと」
『………………………………』
戯けたように笑うユリアを、ラファエルはただ呆然とした顔で見ている。ラファエルの頭の中では、繋がりを通して話をしていた時の言葉を思い出していた。
ラファエルが謝罪した後のユリアの言葉。
「それよりも今のことを考えましょう」
それは「これ以上言い訳は聞きたくない。そんな事はいいから早くどうすればいいのか教えて欲しい」という意味の言葉だと、ラファエルは考えていた。
しかし、それは間違いだった。
この少女は本当に未来を見据えていたのだ。あの時点で、これらの事件にプラスとなる何かを見出していたのだ。
彼女はただ、そのプラスを無駄にしないために今を生き抜く手段を求めただけ。
最初から『罪』を『罪』だと思っていなかったのだ。
━━━━涙が出た。
彼女の心の強さに、とにかく胸を打たれた。彼女━━━ユリア・セントヘレナという少女は自分が思っていた以上に勇敢で、寛大だった。
ぽつり、ぽつり、と滴り落ちるそれを、ユリアはただ優しく見守り続けていた。
~~~~~~~~~~~~~~~
『それについてはご安心ください』
ラファエルがそう答えたのは、未だポッカリと口を開いた天蓋についての質問に対してだった。
『元々、世界というものは安定した形となるように修復する自然治癒能力を持っています。これまではあのゴミ…………失礼、ミカエルがこの世界に居座り続け、今も私が時空の中にいるため、その存在が修復を阻害している状態です。なので、私がここを離れればたちまち治り始めますよ』
そう聞いた二人は大きく胸をなでおろす。もしこのままだったらどうしよう、という懸念が拭えなかったからだ。
『しかしそれは世界の表面の話、その中の、例えば貴女達の怪我だったり、この荒れきった地面などは勝手には治りません』
「え?じゃあどうすれば…………」
『なので私が直します』
ラファエルは人差し指で自分の顔を指差して笑った。
『私の名は「神の癒し」、治癒に関する力は主の太鼓判をもらっています。世界の修復など造作もありません。確か、洋斗さんと言いましたね?』
「あ、はい」
『少しこちらに』
手のひらを下に向け、手首から先を上下に振る。いわゆる「こっちおいで」というジェスチャーをされて、洋斗はラファエルのすぐ近くに歩み寄る。
近づいてきた洋斗の顔に、更にラファエルが顔を近づけて。
洋斗の額に、軽く口づけをした。
「「な…………!?」」
暖かく柔らかな唇をその額に受けた洋斗はもちろんのこと、突如好きな人への大胆な行為を見せつけられたユリアも度肝を抜かれた。
そんな二人の動揺をもろともせず、ラファエルは潤った唇を耳元に移して小さく囁く。
『体調はいかがですか?』
「え……………………あれ、身体が軽い?」
身体を見ると、怪我どころか服の汚れすらさっぱり消えていた。いや、もしかしたら怪我をしていなかった頃よりも健康かも知れない。
『ユリアさんもこちらへ』
「は、ひゃい!」
同じようにユリアも近づき、きつく目を閉じる。来たるであろう魅惑の唇を覚悟して待ち受ける。
『終わりましたよ?』
「…………あ、あれ?」
ユリアは二つの意味で驚いた。
一つ。本当に怪我が消えた。
二つ。キスどころか身体のどこも触れられなかった。
『ふふふ、人間一人の傷なんて「触らなくても」この通り治せてしまうのです』
「え、じゃあ洋斗君へのキスは必要無『おんなじように、この世界も…………あ、一応目を閉じておいてください。機密事項なので』
引っかかることはあるが、二人は目を閉じる。
『ふむふむ………ほうほうなるほど。であればここをこうして………あ、ここにも………このくらいですかね』
パチン!と
指を鳴らす音がした。
『いいですよ』
目を開くのを促す声。
目を開くとそこに一面の更地は無く、鬱蒼と生い茂る森林があるだけだった。
『とまぁこのように速攻で完治できてしまうのです。多少地形が変わってしまいましたが、数百年も経てば大陸移動で戻るでしょう』
ただただ脱帽だった。と同時に、天使が人間から崇拝を集める理由も何となく理解できるようだった。
同類の天使に悪態をついたり、自分の得意分野を誇らしげに語ってきたり、不意に冗談じみた言動を挟んできたり、そういった『人間らしさ』のようなものをこの一日でかなり感じていた。
『では、私はそろそろここを出ることにしましょう。あの屑…………失礼、ミカエルへのお灸を据えなければ』
「てんしさん!!」
振り返ると、ユリアが寂しげな顔でこちらを見つめていた。
「その…………また、会えますか?」
少しだけ驚いた。
罪を許すとしても、まさか再会を望まれるとは思ってもいなかったのである。
だから、ラファエルは少しだけ嬉しそうな表情で言った。
『ごめんなさい』
「え?」
『私はもうこのような過ちを繰り返したくありません。なので私は、一人への過度な干渉はしないことにしました。なので、もうあなたに会うことはないでしょうし、この世界に来ることもありません。それだけの何かが起これば話は変わりますが』
「…………そう、なんですか」
『えぇ。ですからここで今生のお別れです』
「……………………」
『…………安心してください、離れても、私との繋がりは切れません。なので私の方からは貴女のことが分かりますよ?』
「そ、そんなのズルいです卑怯です!」
『卑怯じゃないです天使特権です。今後も精々貴女の天然ボケで笑わせてもらいますよ』
「そんなぁ……………………ふふ」
『フフフ……………………私は、貴女のことを決して忘れません』
「私も、絶対に忘れませんから!」
『ッ……………………それでは、もう行きますね』
「はい…………」
ユリアの頬を、一条の涙が伝う。
それでも笑顔を崩さず言った。
「さようなら。本当にありがとうございました!」
その一言で、ラファエルの涙腺が再び緩み始める。ここで涙を見せるべきではない、と、ラファエルは直ぐさまユリアに背を向けた。
───この人と出会えて良かった。
そう神に感謝しながら。
『貴女に、美しき未来が有らんことを』
そう言い残して、ラファエルは姿を消した。
「てんしさん…………」
一人、呟く。
その声は誰に届くともなく、木々のせせらぎに消えた。
何となく、ユリアは空を見上げていた。消えてしまったのでどこに行ったからわからなかったが、何となく空の中を泳いでいるような気がしたのだ。
「おいユリア、見ろ」
不意に洋斗に促されて周囲を見やると、森の各地に散らばっていた天蓋の破片が空の孔へと戻っていくところだった。
ガラスの破片のような無数の物体が、溢れる金光を反射させながら空へと上っていく。まるで星々が空へと舞い上がっていくような、幻想的な風景がそこにあった。
「きれい…………」
「…………だな」
空間の自己修復が始まっている。これは、もうこの世界にラファエルがいない事の裏返しでもある。なのでユリアには、これがラファエルからのささやかな贈り物のようにも感じていた。
二人はその光景が終わるまで、その観賞に浸り続けた。
いつの間にか、空が塞がって元の真っ平らに戻っていた。
───ここで得たものは、絶対に無駄にしない。
ユリアは、空を超えた向こう側にいるであろう恩人に誓う。
ずっと追いかけ続けた人の背中が今、すぐ隣にあった。
きっと、あの赤い目を見ても恐れることはない。この誓いがあれば、例え彼が正気を失っても恐れない。自分が止める、と立ち上がることができる。
私は頑張る。
求め続けた私の居場所、そこをずっと歩き続けるために。
「…………帰るか。きっとみんなが待ってる」
「……………………はいっ!!」
━2014.07.23━
ようやく太陽が顔を出し、元通りの空を、元通りの大地を、眩しいほどの朝日で照らす。人類の歴史に新たな一日が刻まれる。
まるで、人類の危機など無かったかのように。
こうして、長い、長い7月22日が終わりを告げた。
~~~~~~~~~~~~~~~
今回起きた一連の天文学的現象は、世界中のあらゆる分野に大きな爪痕を残した。
宗教分野では、一夜で起こった数多の神秘に胸を躍らせて人類史の革新を歌う団体が激増し、キリスト教信者の中には極東に向けて祈りを捧げる者まで現れた。挙句の果てに世界終焉説を広める著名人が現れたことで、助けを求める子羊達が教会に押し寄せることとなった。
科学の世界では、並行次元論についての論争に終止符が打たれた。反対派にとっては、世界を内包する大宇宙の存在を経験則で証明されてしまったため、口を開くことができなくなってしまったのだ。対して賛成派は両手を挙げて歓喜し、経験則をもとにした余剰次元に関する研究が科学雑誌を埋め尽くした。
政治面にもその影響は大きい。世界中の機関から、今回の事態の概要説明を求める声が日本の中央政府に押し寄せた。当然日本政府も理解できていない為、まともな返答ができない。そうなると、世界中から日本に対する懸念の声が上がるようになった。世界から見た日本への不信が募り日本円の価値が急落、貿易の頻度も大きく減少した。更に世界から「時空すら破壊する超次元兵器」の存在まで吹聴されるようになり、日本の立場は狭くなっていった。
雑誌、ラジオなどのマスメディアでは、この現象についてのドキュメントで持ち切りとなった。時々取材陣がフォートレスに押しかける事があったが、玄ちゃんを始めとした教師陣は「知らない」の一点張りでそれを追い返した。生徒への聞き込みまでしている熱心な放送局もあったが、『一部』を除いて本当に何も知らない人達ばかりだ。そういうわけで、学校から客の目を引きそうなネタは上がらないと判断したのだろう。学校に押し寄せるメディアの波が収まるのに、そう時間はかからなかった。
世界中に多大な影響を及ぼしたこの現象は、時空の外に存在する神秘の世界の名前『天界』と、空が『壊』れるという視覚的現象をかけて、
英語では『Heaven's_Break_Phenomenon』。
日本では『天壊兇変』。
そう命名された。
そして、その名前は新たな人類史に記録として残され、後世に語り継がれることとなった。
それは一部の人が誇張したものであって真実ではないが、世界ではそれが真実として世に出回っていった。
無理もない。
天壊兇変で起こった『真実』を知る人間は、この世界にたったの4人しかいないのだから。
~~~~~~~~~~~~~~~
一方で。
世界を席巻した閃光の裏で生まれる暗い影の存在があった。
「ここが避難所として地域開放されてラッキーだったぜ、お陰で全く怪しまれることもなくここまで来れた」
「…………ですね」
「どうした『雅人』、浮かない顔しやがって」
「あの……………………これ、本当にやるんですか?」
「何言ってやがんだ馬鹿野郎。頭首の命令なんだから仕方無いだろ。第一、これも蘇我の復活に必要だ」
「はぁ…………」
「これが成功すれば、間違いなく俺達の名は上がる。間違いなくだ。お前の親父さんもきっとお喜びだぜ?」
「…………」
そんな会話をする数人の前には、漆黒の輝きを放つ水晶の石碑があった。




