12章-2:今宵の闇は眩しい
ー2014.07.22ー
ここ数日は曇り続きで、厚めの暗雲が空を覆っている。そのため日差しが地に降り注ぐことは少なく、どことなく彩度が薄れた外の色彩とジメジメした空気による不快感がここ大江山周辺一帯の空を包み込んでいた。
そんな中、ダァ…………ン!と床板を踏み叩く音が響く。
音源はセントヘレナ邸宅の空き部屋の一つ、その中で汗を流す洋斗の脚である。
「………………………うん、大分戻ってきたかな」
音の響き具合を確認して、洋斗は勘を取り戻してきたことを実感する。
嵯鞍人拳は喧嘩術の延長で、対人を目的とした実戦的な武術である。そのため、相手の攻撃をいなして体勢を崩す『柔』の動きと、相手の急所に痛烈な一撃をたたき込む『剛』の動きの二つがあり、戦闘中における『柔』と『剛』の瞬間的な切り替えが嵯鞍人拳の根幹を成しているのだ。
これにおいて重要になってくるのは、身体に全く力が入っていない状態から瞬時に全力の攻撃を繰り出せる事、そして身体が力んでいる状態から瞬時に脱力状態に持っていける事。つまりこの床を踏みつける動作の中で、『どれだけ少ない動作で大きな音が出せるか』が重要なのである。
それを含めた動作のあれこれを確認した洋斗は、早めに練習を切り上げて休憩に入る。その間、未だに直らない───むしろひどくなってきているユリアの事についてふと考える。
(時間が解決してくれるかとも思ったけど、どうやらそうもいかないらしいな……………深入りはしないでおこうと思ってたけど、このままだとただのお隣さんレベルの関係性まで落ち込んでしまう恐れが…………?)
ユリアに対して特別な感情を抱く洋斗としては、それは何としても避けたいこと。それどころか一緒の教室にいるだけで気まずくなってしまいかねない。無論そんな事は御免被るわけで。
「そろそろ行動しないと、かな…………?」
小さくつぶやきながら、洋斗は扉のドアノブをつかみ、ひねった。
洋斗が練習していたのは中央ホールを挟んで自室の反対側のサイドにある、たくさんある空き部屋の一つ。わざわざここを使っているのは音がうるさく響くことを見越してのことなのだが、自室まで着替えを取りに行くためには中心部である玄関ホールを通らなければならない。
半袖シャツの袖口で額ににじむ汗を拭いながら「やっぱりタオルくらい持ってきとけば良かった」と一人ごちる。身体遣いは大分取り戻せたもののスタミナまでは完治できていなかったようで、身体中から滝のような汗が滲んで服がべっちょりと張り付いてしまっている。今となってはあれがウォームアップだった頃が懐かしい。
そんな感じでやや感傷的な気持ちを引きずりながら玄関ホールにさしかかる。
そこで気づいた───自分が向かおうとしていた反対側の廊下からユリアが歩いてきていることに。
「ユリア!」
決心したそばからのこの機会、逃すわけにはいかない。ものの数秒で決意を固めた洋斗は相手に確実に聞こえる大きさで声をかけた。
「あ…………ご、午後の練習は終わったんですか?」
「え…………お、おう!今日は軽くして少し早めに終わった」
「そうだったんですね」
対してユリアの反応は相変わらず一歩距離を取った反応。このまま流れで会話していてはこれまでの二の舞だ。すかさず会話の間に切り込んでいく。
「なぁユリア」
「は、はい。なんでしょう?」
「その……………ここ最近元気ないよな、何かあったか?」
「っ!いえ、その……………」
普段なら『そんなことないですよ!この通りピンピンです!』と笑って返すところだが、今は明らかに返事を躊躇っていた。
「……………やっぱり理由があるんだな」
「そんな、大丈夫、だいじょうぶですよ!わ、私少し外に出てきます!」
「おい、ユリア!!」
ユリアは理由を付けてこの場から逃げようとしている。それが明確に現れていたから、洋斗は早足で玄関に向かおうとするユリアの腕を、半ば反射的につかんでしまった。
たったそれだけだ。
「ひっ…………………!!」
パ───ン、と。
肌を打つ乾いた音が響いた。
「…………………………」
洋斗の手を払った腕に込められた明確な拒絶の意志。
『これ以上私に近付かないで』
という言外の副音声が響いてくるようだった。
あまりに突然で予想外な行動に、洋斗は腕を外に払われた体勢から動けず、ただ驚きを隠せない表情でユリアを見つめることしか出来ずにいる。
「…………ぁ………………ぅああ……………!」
振り払った直後は恐怖に怯えていたようなユリアの表情が、徐々に驚愕し青ざめたものへと変わっていった。
ユリアは振り払った腕を反対の手でつかみ、縮こませて震えている身体は同様に震えている足で小さく後ずさる。
時間にして約5秒、距離にして約2m。
それだけオロオロと後退していたが、急に身体を反転させ、逃げるように玄関から外へ飛び出していった。
「………………………………………」
身体は硬直し、頭は真っ白で、心は彼女の反応に対するショックで満杯。
自分が何かしたのか?とか、この過剰な反応は一体なんだ?とか、そんな事は一切合財頭から吹き飛んでいた。
ただ、ユリアが出ていった扉を茫然と見つめることしかできなかった。
───それから、何分ほど立ち尽くしていたのかは分からない。
「洋斗様?」
声の方へなんとか首を回すと、そこには不可解な面持ちで佇むセリカさんの姿があった。
「もうすぐ夕食の用意が出来上がるので声をかけに来たのですが……………お嬢様は?」
「……………………出て行った、たった今」
「そ、そうですか…………困りました、お嬢様は夕食をどうするおつもりなのでしょう?」
「すいません、俺も詳しくは知らないんです…………」
「そうでしたか……………その、洋斗様。お嬢様と何かありましたか?」
「え…………」
俯きがちだった顔を上げると、セリカさんの顔は真剣なものへと変わっており、先の言葉が質問ではなく確認である事を言外に語っていた。
「洋斗様が退院なされてからのお嬢様のご様子については私達も違和感を感じております。私達には何気なく接していただいているにも関わらず、洋斗様に対しては妙にぎこちない。そんなお嬢様を常々心配しておりました」
この台詞はセリカさんを含めた従者たちの本心なのだろう、眼を伏せ気味の表情で話すセリカさんからは気落ちした雰囲気がにじんでいた。
「お嬢様に救われ、従者としてお世話を任された身としては腹立たしい限りなのですが、今のお嬢様の元気を取り戻せるのは洋斗様以外にいないと思います。ですから従者一同を代表して、恥を忍んでお願いします。どうか、お嬢様の心にある傷を癒してあげてください……………」
なめらかな挙動で腰を折り、頭を下げるセリカさん。
セリカさんもユリアの事が心配でいろいろと手を尽くし、知恵を絞ってきた。しかしどうしてもユリアの純粋無垢な笑顔を取り戻すことは叶わなかった。そんな、自分の力ではどうすることも出来ないという底知れぬ無力感を胸の内に抱いていたのである。
そして。
「私からも、どうかお願いしたい」
陰に隠れて話を聞いていたのかも知れない。廊下の脇から歩み出てきた執事ゴードンさんの口から出てきたのも、ユリアの事に対する依頼だった。
「洋斗様ならきっとどうにかしてくれる、私どもはそう信じております」
洋斗はわずかの間黙ったままだったが、
「…………分かりました。がんばってみます」
ぽつりと了解の言葉を口に出した。
「……………感謝します。ですが、お嬢様を探しに行かれる前に腹ごしらえとしましょう。準備はもうできております」
惜しげもなく安堵の雰囲気をかもしながら、ゴードンさんはダイニングルームへとその身を翻す。
洋斗とセリカさんがその後を追従して夕食をとりに向かう。
───しかし、了解の言葉の裏に据わる洋斗の心境は複雑だった。
もちろん、ユリアについては何が何でも解決したい。ユリアの笑った顔はいわば太陽だ。それが陰ってしまうのは嫌だし、太陽にはずっと青空高くで燦々(さんさん)と輝いていてほしいと思っている。だが同時に、今その太陽を覆ってしまっている雲は洋斗自身だ。太陽の霞みを払拭しようと近づけば、それだけで明るい大地に黒い影を落としてしまうのである。
何とかしたい一方、その原因である自分に一体何が出来るのだろう?自分がここから出て行けば全て解決するような気さえしてくるが、それが果たしてユリアの本当の笑顔を引き出すことにつながるのだろうか?
洋斗の心を占めているのは、そんな八方塞がりの葛藤だった。
「私も行くのです!」
ダイニングルームに着いた時にはすでに席に座っていたナギ。夕食後、お腹をさすりながら幸せそうにしているナギに外出の旨を伝えた瞬間に返ってきた返事である。
「いやでも「私も!行く!の!ですっ!!」
「そんなこと言わ「すうぅ~~(吸気音)~~」……………おいナ「行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くのです行くので「だああああアアアアアもーうるさい!わかってるから!ちゃんと連れてくから!!」
返答を渋っていたが、見た目相応に駄々をこねまくったナギを前にしてあっさり白旗を揚げた。とは言うが、洋斗には固く拒絶するつもりもなかった。なぜなら退院したその日からナギのユリアに対する思いを知っていたからである。その上でナギにお留守番させる、というのは野暮と言う他無いと考えていた。さすがにここまで喚き散らされるのは予想外だったけれども…………。
というわけで同行が決まった洋斗とナギはそれぞれで身支度を整え、ユリア捜索に向け一層気を引き締める。
「……………それじゃ、行きますか」
「ガッテンです!!」
後ろから走ってくるナギを確認し、洋斗は玄関の扉を開け放った。
~~~~~~~~~~~~~~~
「はァ……………!はァ……………ッ!」
走る。
───走る。
自分の家から逃げ出したユリアは、まるで何かを振り払うように、ただひたすら走る。
たとえ心臓が締め付けられるような苦しみに襲われても。
たとえ呼吸が絞り出すように荒くなっていたとしても。
それでもユリアがその足を止めることはなく、がむしゃらに走り続けた。
目的地など考えていない。とにかく人がいないと思われる方へ脇目も振らず進む。そうして進んで進んで進み続けたその果てに、ユリアに溜まる疲労はとうとう限界を迎えた。
たどり着いたのは鬱蒼とした森の中だった。
(…………いつの間にこんなところまで………どこだろ、ここ?)
膝に手を突き、肩で大きく息をしながら、ふらふらと周囲を見渡す。そして所在の確認は無意味と悟ったユリアは手近の木の根にどっと腰を落とした。
(わたし、何やってるんでしょう…………)
両膝を抱え込み、ぼんやりと考え込む。
もう、ここまで来て今更言い訳なんてしない。
私は洋斗君に怯え、挙げ句の果てに洋斗君の手を振り払って逃げ出した。けれど、それは決して彼に何かされたりだとかそんなことではない。むしろ彼には何一つ落ち度は無く、自分のことをとても大切にしてくれていることを痛いくらいに感じている。
けれど、それなのに。
洋斗君の顔を見る度に思い出してしまう。
───血のように真っ赤に染まった瞳を。
───眉間を突き刺すような無感情な視線を。
3ヶ月が経った今でも、あの時を夢に見ることがある。
あの時の全面純白の四角い空間、その床一面に散らばったあの研究者の残骸、身体のいくつかのパーツが破損した研究者とそれを片手で掴んで持ち上げる洋斗君。彼が手から黒の雷撃を放って研究者を消し飛ばす、そんな夢。
夢はそこでは終わらない。
破壊対象を失った彼の瞳がこちらを向く。
私の体が動かない。
一歩、一歩。
残骸を踏みつけながら近づいてきて、彼の手がこちらを向く。
そして目が覚める直前に必ず、あの赤黒い稲妻で私の身体を───。
汗だくでタオルケットをはね飛ばす私の横で、何かがその耳に小さくささやくのだ。
『あの時は何もなかったけれど、もしあのままだったら私は本当に殺されていたのではないか』と。
『いつか赤い目の洋斗君が私を殺しに来るのではないか』と。
それだけの恐怖をユリアはあの時感じていたのである。そしてその傷は確かに、ユリアの心に癒えること無く刻まれていた。
だから、後ろから洋斗君の声が聞こえたときには身体が過剰に反応してしまう。
洋斗君の方へ振り返ることを躊躇ってしまう。
洋斗君の傍に歩み寄ることを拒んでしまう。
洋斗君の顔を見るのが怖くなってしまう。
目の色が普段通りで、いつもの優しい洋斗君だと安堵しても、あの時の姿と重なってどう接していいか解らなくなってしまう。
後ろから腕を掴まれた時、本心からあそこまでの事をしようなんて考えてなかった。そんな心とは裏腹に身体が彼の手を拒絶し、本能が彼の腕を振り払っていた。
払ってすぐはあの赤い瞳に対する恐怖の感情しかなかった。だが、自分の頭がやったことを理解したその途端、大好きな洋斗君を傷つけてしまったことに対する恐怖と自責が一気に沸き上がった。我を忘れて相手を刺し殺した人が、眼前に転がる死体を見て腰を抜かすのと同じ感情かも知れない。
その恐怖に背中を蹴り飛ばされ、いつの間にか私は玄関を扉を開け放って外へ飛び出していた。
「これから、どうしよ……………」
つぶやく。
今さら何食わぬ顔でぬけぬけと帰ったところで、これまでと全く変わらない。それどころか先の出来事のせいで更に気まずくなってしまうのが目に見えている。きっとこれまでの事を謝ることなんて出来ない。かといって替えの服どころかお財布すら家に置いてきてしまっている現状では家出や一人旅など出来るわけがない。というかそんなことをしてしまえば永遠に謝る機会を失ってしまう。叔父様やメイドさんたち、洋斗君やナギちゃんにも多大な心配をかけてしまっているだろう。
ここまできて、何度目かも知れない後悔に苛まれた。
ほんのわずかだけ、両膝から顔を離す。
その視界に映ったのは、行儀良くそろえられた自分の両膝、それと木の葉や木の根に覆われた大地だった。いつの間にやら大分日も傾いていたらしく、暗闇とはいかないまでも、木々の隙間からは濃い紫色に染まった空も見える。
じきに夜になる。
そういえば晩ご飯を食べてませんね…………なんてことを今更思い出したせいで、急にお腹が空腹を主張し始める。
森、空腹、暗闇、独り…………。
───『あの時』と、似ている。
ぞくり、と背中が寒くなるのを感じた。
初夏であるにも関わらず、身体を冷たい風が流れていく。
思い出されるのはあの時の、森の中をさまよい続けたあの記憶。
どうしよう。
寒い。
暗い。
怖い。
───さびしい。
不意に耐えられなくなって、再び両膝に顔をうずめる。それでも耐え切れなくて、両脚を腕で抱き寄せる。
大好きな人の前から逃げ出して、たどり着いた先で人恋しくなってしまうなんて、なんて皮肉で我儘なんだろう。そんな身勝手な自分が嫌いになってしまいそうだ。
けれど、それでも自分の虚弱な心は『あの時』のような奇跡を望まずにはいられない。
自分を導いてくれる存在。
自分を照らしてくれる光。
自分を包んでくれる温もり。
───そんなもの、ついさっき自分から切り離してきたものなのに…………。
ユリアは意識を心の奥へと沈め、忌まわしき記憶から心を守るために殻に閉じこもる。このまま時が過ぎるまでしばしこうしていよう。そうすれば、記憶の事も洋斗君の事もある程度の踏ん切りがつけられるかも知れない。
そう、考えていた。
───ふと
意識が完全に沈みきる直前、ユリアの頭部と後ろ首のあたりに妙な暖かさを感じた。
今は初夏、日が沈むとはいえ気温は夏の到来を感じさせるほどの高さであり、ノースリーブでいても温度による寒気はない。なので基本的に暖かいのは当然。
しかし、この暖かさは後ろ首を中心とした局部の暖かさ。サウナのような気温湿度による温度上昇ではなく、暖炉に手をかざした時のような光の直射による温度上昇だった。
膝から少し顔を浮かせる。
───一変していた。
日没寸前にも関わらず、暗がりだった膝の向こうの景色が『黄金に照らされて』いた。
「…………………………はぇ?」
顎に力を入れないまま声がでたので、何とも間の抜けた声しかでなかった。訳も分からず周囲を見回そうと首にほんの少しの力を入れる。
その瞬間。
『お主はなぜこんな僻地にいる?』
若い男性の流れるような軟らかい声が聞こえた。
『………まぁいい、今は宿主のことなどどうでもいい事だ』
その声はユリアの頭上から聞こえていた。当然、そのことに違和感を感じながらもそちらに目を向けるべく顔を上げる。
そこに、
まばゆい光をその背に受けて、六枚の羽を大きく広げる一人の天使が浮かんでいた。
「…………………………」
声がでなかった。
決して、何かの力で口を閉じられたわけではない。
ただ、圧倒されていた。
この世の全てを照らすかのように暖かく煌めく光に、偉大さと堂々たる雄志を体現する三対六枚羽。頭には幾何学模様で象られた金の輪が浮いている。目をそらすことすら許さないその存在感に、ユリアは心を奪われてしまっていた。
『神通力の無断行使による処罰のついでに、我の道楽につきあってもらうぞ、『ラファエルの庇護』を受けし者よ』
「………………え?」
瞳を奪われて放心していた精神は、氷のような冷徹な瞳によって一瞬で凍り付いた。
その一瞬後、ぼんやりと見上げていたユリアの視界が、ばつん!と闇に変わった。
『瞬間移動してきた天使が自分の目の前に手をかざしている』。
それに気づいた瞬間。
ユリアが受けたのは内臓が爆発したかのように、内側から一気に膨れ上がる灼熱と衝撃だった。
そして、その一瞬後には意識も吹き飛んでいた。
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芦屋は畳と正座する脚の間に座布団を挟み、脚の長さが膝下程度の長机と向き合っていた。
頬杖もつかず退屈な姿一つ見せることなくシャープペンシルを走らせているのは、芦屋一門の各分家の帳簿。それぞれに目を付けて現状把握にいそしんでいる最中だった。大抵の家系の場合、こういった事務作業はそれを役割とした門下に一任するのが一般的なのだが、自分自身でしっかり見定めたいのと、そもそもそれだけ細かく役割分担出来るほど人がいないという理由で総長である道行がこうして直々に手を動かしているのだ。
紙と黒鉛が擦れあう音に区切りがつくと、後ろに倒した芦屋の背中が畳にぶつかる音と、「ふぅ………」というため息から漏れた声が部屋に響く。こうして畳の上に寝転がり、仰向けで熟考に耽るのが帳簿確認後の習慣となっていた。
小さく開いている障子の方を一瞥する。身体を横にして辛うじて入れるくらいのその隙間から空が見える。空が薄い紫色をしていたことから、いつの間にかかなり時間が経っていたことを知った。じきに空は黒へと変わっていくだろう。
一通りみた限り、お世辞にも好転しているとは言えない状況だった。がくん!と大きく下がっている訳ではないもののジリジリと総資本が低下しており、貯蓄を切り崩して辛うじて存在を維持している様子が伺える。頭を悩ませている分家当主の様子が目に浮かぶようで、申し訳無さで胸が苦しくなった。
家の名を有名で盤石なものにするためには、それに一任される大きな『アイデンティティ』が必要不可欠だ。摂関政治により天皇の補佐官として政治を掌握し続けた藤原氏然り、ルネサンス期のイタリアで銀行家として国の財政を支配していたメディチ家然り、歴史に刻まれた名家にはそのポジションを裏付ける何かがある。芦屋家にもかつては祖である芦屋 道満を筆頭に『陰陽五行思想に基づいた呪術な祭祀を司る官職』という地位を手にしていたが、『陰陽五行思想』とは似て非なる『能力』という概念にすり替わってしまった現在では、その役割が自然消滅してしまっていた。
なので、呪詛や祭祀以外で一門の主柱となりうる何かを見出だす必要があるのだが、それがどうしても見つけられなかった。それを基盤として名をあげていくので、なるべく早い段階で見つけないと冗談抜きで一門そのものが霧散してしまう。
そうした悩みに頭を悩ませていると、机の上に置いてあったマナーモードの携帯電話が振動する。断続的な振動パターンが、メールではなく電話の着信であることを示していた。
「もしもし?」
『あ、芦屋!大変よ!』
通話時の決まり文句で電話を取った芦屋だが、その相手である鈴麗はそれをすっぱりはねのけて叫び散らした。
「ちょ、耳が痛いよ!」
『え、あごめん!けどその様子だと知らないみたいね……………………ねぇ、今外見られる?』
「え?それはまぁ今家だか…………ら…………………………………………」
電話越しに鈴麗の声を聞きながら───芦屋は絶句した。
先ほど仰向けで見たときと同じように障子は中途半端に開いており、そのおかげで開ける手間もなく外の様子を確認することが出来る。
その隙間から部屋の畳に『光が差していた』。
外が、明るいのだ。
ついさっきまで日没しかけの濃い紫の空だったのが、まるで大都会の光源群に照らされたような、白くぼけたような夜空となっていた。それどころか、照明がついた部屋に光が入り込んできているのが見えるのだ。すなわち照明よりも強い光であることの証明だった。
慌てて駆け寄って、開きかけの障子を一気に開け放つ。
寝起きにカーテンを開けたときのように、あまりの光量に目が眩む。
───最も大きく目に飛び込んできたのは、天空へと立ち上る光の渦だった。
緩やかにうなりながら空へと流れる黄金の奔流は、束になって天を目指す竜の群れにも見えた。
「……………なに……………あれ………?」
その光景に唖然としていた芦屋は耳元で反応を待っているであろう彼女に向けて小さく声を絞り出す。
『わかんない。けど、能力であんなことできると思う?』
「…………それらしいものを見せることは出来る、かも知れない。けど夜空一面の色を曇らせるほどの光源を作り出すことなんて出来ないと思う。それこそ似非太陽を造るくらいの生命力量が無い限りは…………」
『ねぇ、これからどうしよう』
「今の状態じゃ何とも言えない。とにかく情報が欲しい」
『うーん………………あ、テレビつけて!ニュースで速報やってる!8チャンネル!』
声に従って、部屋に置いてある小さめのテレビに電源を入れる。映ったのは右上に小さく『速報』と書かれたテロップ、自分たちが通学路として使っている商店街のメイン通り、そしてのた打つ金光を背に坦々と実況を解説するキャスターの映像だった。
『
……………………………………っ光物体が出現しました。光は立ち上るように空へと伸び、現在も光は衰えることなくうごめいています。…………………はい!えー、たった今情報が入りました。つい先ほど、京都府庁より大江山付近一帯の住民に避難勧告が発令されたとのことです。避難命令が出された区域は、福知山市、宮津市、与謝野町、舞鶴市、綾部市、京丹後市、朝来市、豊岡市など大江山頂から半径約50kmに渡ります。この発光物体が人体にどのような被害をもたらすかは現在も調査中ですが、万一の事もありますので速やかに距離を取ることを心がけましょう。
また情報が入り次第お伝えします。こちらからは以上です。
』
『半径50km、って北京の市街地覆えるくらいの土地から人を全員どかせようっての!?』
「多分この光が照らす範囲全体をカバーしようとしたんだろうね。実際はもっと広いと思う」
『…………それだけイレギュラーで予測不可能な緊急事態、って事なのかしら』
一つの国を動かす家系である宣家の娘・鈴麗には、その異例の数字が事の重大さと国家機関の動揺を裏付けているようにも感じられた。
「とにかく、状況を確認するにしても避難するにしても、外にでないとね。今は家?」
『えぇ、でも避難の準備はもう進めてるわ』
「なら校門前で合流しよう!僕もすぐに準備するから先に待ってて!」
『りょーかい!それじゃね!』
おどけ気味なその一言を最後に回線がブツリと切れる音がした。それから急ピッチで貴重品をかき集めて鞄にねじ込む。
「道行殿!大変で「大体分かってる!すぐにここを出るよハルちゃん!」
「こんな時くらい『ハルちゃん』は止めてくださいよぉ!」
ふすまをこじ開けて部屋に飛び込んできたのは、善意で芦屋の下に仕えてくれている安倍 晴美、通称・ハルちゃん。彼に仕えているという理由だけでは収まりきらないほどの世話焼きである一方で若干行動パターンが幼い、という二面性を持つ。そのため、5歳年下であるはずの芦屋をはじめとした一門の人間からは『ハルちゃん』というチャチなあだ名と『憎めない天然マスコット家政婦』という何かと残念なレッテルを貼り付けられている(世間ではこういう人間を『愛されキャラ』と呼ぶ)。
「避難所に行く前に校門の前に行く。鈴麗と待ち合わせてあるんだ!」
「流石は道行殿!対応が迅速な上に、さり気なく待ち合わせというあこがれのシチュエーションまで造り上げるなんて…………!」
「ぶふッ!?そこまで考えてないからね?ほ、ホントだからね!?」
すぐに恋愛沙汰に話を持って行く、という女子高生紛いの思考回路をはねのけて(後から考え直して少し動揺したのは秘密)、芦屋は外へと駆けだした。
外は避難先へ向かおうと先を急ぐ住人がちらほらといる。だがその人々には大きく二つの共通点が見えた。
まず、その人たちからは危機感が感じられない。先へ急いでいる人達も、焦燥に刈られて慌てふためくというより合同ジョギングに近い光景で、それどころか談笑しながら歩いている人もいる。まるで統率の一切無い避難訓練を見ているようだった。あの光は現在まで直接的被害はなく、害があるかどうかすら未だ不明。そんな状況でいきなり避難しろと言われても、いまいち実感が沸かないのは当然と言える。
もう一つは、その人達の足が向かう方向。これは、危機感が感じられないけれども、一応皆が指示に従って避難所であるフォートレスに向かっていることを示していた。
───これらの共通点があったからこそ、人の流れと真逆の方向に全力疾走する少年の存在はこの空間において浮いたものとなった。
「ん?あれは…………洋斗?」
足が速すぎてはっきりと見えたわけではないが、あれは十中八九洋斗で、その後ろを追従していた小さい子どもはナギだろう───と芦屋はピタリと足を止めて思う。あんなに慌てて、一体何をしていたのだろう?その疑問は、校門で鈴麗と合流するまで頭から離れなかった。
「ねぇ、何ていうか…………それ変じゃない?」
その疑問を鈴麗に明かした途端、少し考えた彼女は言った。
ちなみに現在の居場所はフォートレス能力専門高等学校の2-D教室。避難時の集合場所としては体育館などがお決まりなはずなのだが、避難場所が学校とだけしか決まっていないのでとりあえずここに来たのである。その真ん中あたりの席に芦屋、そのすぐ隣に晴美、さらにその一つ前の席の机に腰を下ろす鈴麗といった位置関係だ。
「自分から理由もなくワケも分からない場所につっこむほど洋斗はバカでもお節介でもないはずよ?ナギちゃんを連れてたなら尚更、そんな過ぎた野次馬精神は洋斗らしくないわ」
「それもそうなんだけど……………」
「確か洋斗とナギちゃんの2人だけだったのよね?その状況だと……………たぶん洋斗はユリアちゃんを捜してたのねきっと!うん!」
顎に手を当てて、如何にも探偵気取りで声も若干弾んだご様子。そんな様子とは裏腹に、その内容はあながち的外れだと笑い飛ばせないものだった。だったのだが、控えめな挙手とともにツッコんでしまう人間がいた。
「それ、お屋敷に何か忘れ物でもしたんじゃないでしょうか?確かセントヘレナ邸宅もあの光と同じ方向ですし…………………いや、異論が出ただけでそんなキツい眼で睨まないでくれません?」
「うぐ、それはその……………」
「いや、そのセンは薄いと思う。さっきから電話をかけてるんだけど全然出ないんだ。僕が洋斗を見かけた場所からならとっくにセントヘレナ邸宅に着いてるはずだし、電話に出られないなんて事にはならないと思うよ?」
「そ、そう!私もそう考えてたところよ!ハルちゃんは黙ってお座りしてなさい!」
「私はペットのワンちゃんか何かですか!もうどこに行っても私の扱いは一緒なんですかぁーー!?」
「(鈴麗は電話のこと知らなかったよね……………)」
「ん?ナニか言った?」
「いいやなんでもないよ?なんでも」
「でもそうなると、問題は『なんでユリアちゃんを捜しに光の方に行っていたか』ってことよね?」
「ですから一旦お屋敷に戻っ───はいはい黙りまーす」
「鈴麗はそんなに睨みつけない、ハルちゃんもしゃべっていいから………………だけど、それなら今は避難勧告が出てる真っ最中なんだから、はぐれたなら間違い無くここにいるはずだよ。その方が会える確率も高いはずなんだから。それでも光の方に走っていた、って事は…………」
「ようする「なるほど!その光にユリアさんが関わってるかも知れないってことですね、って机蹴らないでくださいマナー違反ですよ!机に座るのももちろんですけど!!」
またも我慢できずしゃしゃり出てしまった晴美と、折角の見せ場を取られてしまった憤りを晴美の机にぶつける鈴麗。おかしな具合にかみ合っている2人は見ていてかなり滑稽である。
「うーん…………」
しかし、そんな対話(漫才?)を見慣れている芦屋はそんな2人を差し置いて考える。2人してキャイキャイ言っている傍で考えていた末、
「光のところにいこう!」
唐突な決断だった。
「その言葉を待ってたわ!」
それに対する反応も迅速だった。
「え?いや、はい!?」
独りだけ取り残されていた。
「でも、警備とか先生とかに見つかると言い訳が面倒ね」
「そこは見つからないように脱出するしかないよ。すこし遅くなるけど仕方ない」
「ちょ、ちょっと待ってください芦屋殿、鈴麗殿!」
「なに?今忙しいんだからハウスしてなさい!」
「いいえダメです!こればかりは引き下がれません!」
これまで通りのぞんざいな扱いには歯牙にもかけず、主を睨む晴美の瞳はあくまでも真剣だった。
「解ってるんですか?その光の正体が分からないという事は、『何も起こらない』可能性と同時に『何か起こる』可能性もあると言うことです!桐崎殿の事が心配な気持ちも分かりますけど、もし芦屋殿に何かあっては私は、わたしは……………!!」
保護者としての立場もある。主従関係の立場もある。級友としての仲もある。万一のことがあってはと、あらゆる方面で晴美は芦屋をなだめようとする。
「て言われても、何だかんだで心配なのよね、あの2人。どうやら筋金入りの巻き込まれ体質みたいだし」
「うん、深刻に理由を聞かれちゃうと迷うんだけど…………結局のところ、放っておけないんだよね」
当の2人はそれを軽くかわして見せた。清々しいほどに素朴で純粋な理由に、晴美は追い討ちをかける言葉が思いつかずポカンとしてしまう。その隙を狙ったのかまでは分からないが、2人は早足に教室から出て行ってしまった。
放心していた意識が戻ってきたのは、教室の引き戸が閉まる音が耳に届いた瞬間だった。
安倍 晴美は、気づけば独り取り残されていた。
「…………………はぁ」
彼女は微笑みをこぼしつつ、小さくため息を一つ。
自分の主人は、確かに一家の大黒柱としては少々頼り無いところもあって勉強や経験が不足している一面も垣間見える。だが、まだ危機感が薄いとはいえほんの気まぐれのような感覚で親友の元へ向かえる彼の優しさは、今後も発展していく上で至宝となる素養であり、彼を心から慕って一門に残ってくれている者がいる大きな理由の一つであると考えていた。そして、それの傍に行動力に肉を付けたような彼女がいることも、きっとプラスになると考えている。
「こういう時黙って見守るのもお側に控える者の勤め、かも知れませんね」
随分と苦労する役回りだ。と自分自身を嘲りつつ、晴美は教室の扉に手をかけた。
護衛としては赤点間違い無しのこの醜態、一体どう言い逃れしようか?




