助けて
翌日、野々村幸代は出勤した。
家を出るとき、義母に
息子の友達が遊びに来る、
必ず全員と話し、名前を聞いて欲しいと頼んだ。
出来たら、写真も撮って欲しいと。
職員会議がおわるなり、全生徒の住所データを見た。
松田夢香、西浦翼、あと、団地に住んでるのは誰かと。
(えっ? 居ないの?)
現住所が団地なのは瀬戸航太を入れて三人だけだった。
(あの子は、別の所に住んでいるのね)
続いて全生徒の顔写真をチェックする。
直近の遠足の集合写真を全部見る。
座っているのを遠目に見ただけで、特定できる筈は無い。
それでも、遠目でもわかったアンバランスな身体の雰囲気が
写真の中に有るはずだと。
(団地の近くに住んでるなら、同じ校区の筈よ。絶対に、うちの生徒なのよ)
自分の息子と同じように私立に通っているとは思えない。
黄色と黒の太いボーダーの、長袖のシャツは、ブカブカで古着のように色が落ちていた。
それに、老人が被るようなグレーの帽子を被っていた。
帽子の下は伸びっぱなしの肩までの髪。
横顔に子供らしい頬の膨らみが無い。
放置子の可能性はあっても私学に通ってる可能性はゼロだと確信している。
でも、あの子かもしれないと、感じる生徒はいない。
「先生、どうしたんですか?」
興味津々で中田が聞いてくる。
「昨日団地でね、ちょっと気になる雰囲気の子供を見たの。団地だから、うちの生徒でしょ。……でも居ないのよね。不登校の子でもないし」
「それはきっと、夏休みで、親の実家に預けられてるんですよ」
中田は、あっさり答えを出した。
幸代は、ああ、そうかと納得した。
夏休みになってから知り合った、トモダチ。
関係はまだ薄いのだ。
名前がすぐに出てこないのは、そういう事情かもしれない。
「まあ、本人に聞けばいいんですけどね」
今日家に帰ればはっきりする。
義母が、きっと、本人と話している筈だ。
急ぎ足で帰宅した。
早く、義母と話したい。
「ただいま」
と引き戸をガラガラ開ける。
すると、
……玄関に子供達の靴があった。
「えっ? まだ居るんだ」
随分遅くまで、人の家にと、若干気分が悪い。
だが、行儀悪く脱ぎ捨てられ重なった靴の中に、
一足異質な靴を見たとたん、背中に寒気を覚えた。
薄汚れた、黒い靴が……あったのだ。
よく見ると、元は茶色いスエードの靴で、汚れて黒く見えるのだ。
「おかあさん、おかあさん、」
大きな声で呼ぶ。
返事は無い。
家の中に義母は居ない。
もしやと裏の畑を見に行く。
そこにも姿は無く、
駐車場のトラックが無い。
「なんで、出かけてるのよ、」
急いで電話する。
ドライブモードらしく、
出てはくれない。
幸代は、自分で確かめるしか無いと、
息子の部屋をノックした。
ドアが細く開いて、ユウヤが
「なに?」
と不思議そうに聞く。
部屋の中からはゲームで遊んでいる歓声が聞こえる。
「なにって、もう六時よ。そろそろ終わりにしなさい」
ドアを全開に、中の子供達に聞こえるように言う。
生徒に、何の遠慮も無い。
幸代は素早く室内を見回した。
テレビの前に松田夢香と西浦翼、
キョトンとした顔で振り向いている。
そしてもう一人はベットの上にいた。
背中を向けている。
壁にもたれて、ゲーム画面を見ている。
昨日見たのと同じボーダーのシャツ。
そして帽子を被っている。
「松田さん、西浦君、もう家に帰りなさい……それから君も」
聞こえている筈なのに、反応しない。
こちらに顔を向けようともしない。
幸代は近づいた。
顔を覗き込もうとした。
瞬間相手は顔を背け、素早くベットから降り、開いたままのドアから出て行った。
すると後の三人もスイッチが入ったように急に動き出し……逃げるように我先に部屋から出て行く。
その様子に幸代は腹が立った。
「待ちなさい」
玄関に裸足で降りて、ボーダーのシャツを掴んだ。
胸の前に帽子を被った頭が有る。
「こっち、むきなさい」
思わず、今度は頭を掴んでいた。
次の瞬間、幸代は妙な感触に顔を歪めた。
……なに、これ?
帽子の下に、有るはずの無い硬い突起物。
あっちとこっちに二つ。
「ひい」
腰の力が抜けて、立っていられない。後ろに二三歩よろめき、
そのまま、倒れ込んだ。
頭に強い衝撃を感じ、目の前が……暗くなった。
「サッチャン、気がついた?」
義母の顔が前にある。
「良かったわ。慌てて起きてはだめよ。ゆっくりね」
優しく言い、髪を撫でてくれる。
「あ、私……」
麻酔から覚めるように無の時間から意識が戻る。
そして、思い出す。
恐怖に、あーあー、勝手に叫んでしまう。
「大丈夫よ。しっかりして」
「オニよ。アレは鬼よ。角があったの。本当よ。私触ったの」
悪い夢の中に居るように
こんなに恐ろしいのに
自分の言葉は現実では無い気がする。
否、これは悪夢に違いないと、辺りを見渡す。
自分が横たわってるのは玄関だった。
玄関で意識を無くしたと、はっきり思い出した。
頭の後ろが痛い。
触れば手に血が付いた。
出血するほど強く、上がりかまちで打ち付けたのだ。
今玄関にいるのは現実では無い。
本当は、どこかの病院で治療をうけている筈だ。
義母は救急車を呼ぶだろうから。
だって、玄関に……アレがあるもの。
黒い靴が、見える。
揃えて置いてある。
玄関にその靴だけが有る。
そんな筈は無いし、
もし現実の光景なら
義母が何か言う。
「サッチャン、もし動けるなら、寝室に行きましょう。肩を貸すわ。ちゃんと布団で寝るのよ」
義母が立ち上がれと促す。
優しい口調とは裏腹に、強引に強い力で。
……夢だから仕方ない。
……現実の義母じゃ無いんだから
……ユウヤの事も聞かなくていい。
……頑張って布団まで行って眠ろう。
……次に目覚めたら病院に居るに違いない。
幸代は柔らかい布団に倒れ込むと再び意識をなくした。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
胸の辺りが苦しい。
息が出来ない。
不快感に、
ゲボッと咽せて目を覚す。
でも、辺りは真っ暗。
徐々に意識がはっきりする。
暗闇に目が慣れる。
家の寝室だった。
おや?
どうして?
まだ病院じゃ無いの?
まだ夢のなか?
ふと、正面だけ闇が濃いのに気付く。
とても生臭いのを感じる。
自分の上に何か乗ってるとわかる。
それにはちゃんと目玉もあった。
ヒドイ悪夢だ。
目を閉じて眠りたい。
でも、苦しくて、眠れそうも無い。
そのうちに目を開けているのも辛くなる。
瞼が自然に降りていく。
気味の悪い目玉も見えない。
それは良かったのに、
今度は唇に嫌な感触。
無理矢理唇を押しつけられ、吸い付かれてる。
苦しい。
早く、この悪夢を終わらせて。
誰か、助けて……。