大きな靴
生徒達は、私が告げる前に、瀬戸君の死を知っていた。
女子の半分は泣いていた。
死んだ子の席には花が飾られていた。
(PTAクラス委員の保護者が娘に持たせたらしい)
いつも騒がしい教室の中が静かだ。
<瀬戸君の死を悲しむ>空気で統一されている。
いや、私だけ、違う。
死んだ子を哀れむ涙も滲んでこない。
乗り物酔いのような不快感が胸のあたりにあって、
深呼吸出来ないが、は悲しみのせいでない。
とても強い不安だった。
一度も味わった事のない、嫌な吐きそうな気分。
悲しむ、余裕が無い。
………怖くて。
「たかが、こんな葉書くらいで、何ビビってんの?」
声に出し、自分を叱咤する。
「死因が心臓でも頭でも。体調不良が精神に影響して、怖い夢が現れた。あの子が見たオニは幻覚。それか、創作ね。合理的現実的に解釈出来るわよ……でも、正直ちょっと怖いのね」
私は灰色の葉書を食卓に持ち込んで、
夫に、見せた。
夫は、午後から家に居て、
通夜に行く前にと、早めの夕食を一緒に食べている。
鰻に天ぷら、ポテトサラダと生ハムが並んでいる。
夫は明日から中国に出張に行く。
義母は息子のために好物を並べた。
夫は、面白がると予想した。
<生徒の死>は我が家の夕食に影を落とさない。
だから、この葉書も、ホラーチックな面白い話題になるだろう。
夫に私の臆病を笑い飛ばして欲しかった。
夫は、(どれどれ)と葉書を手に取る。
数秒、表と裏を見て、テーブルの上に置いた。
何も言わない。
黙って、グラスのビールを空ける。
眉間に皺が寄っている。
「ねえ、あなたでも、ちょっと不気味?」
夫の反応に戸惑う。
なぜ、そんな深刻な顔する?
「あのさ、大丈夫だよ、」
やっと、いつもの明るい調子だ。
「何でも無いよね」
「うん。大丈夫。一緒に供養、でOK。あちらさんに、お返しするんだ」
葉書を通夜に持っていき、親に返すべきだと言う。
意外だった。
この場で破り捨てるような反応を、期待していたから。
「コレ持ってたら、祟りがあるとか、あなた思ってるんだ。それ、面白いよ」
大げさに笑ってみる。
「はは。まあ、念のためだよ。簡単な事で、君も葉書の事、忘れられるし」
笑顔で答える。でも、目は笑っていなかった。
私の後ろを見ている。
義母が追加のサラダが載った皿を手にし、立っていた。
指が小刻みに震えている。
私の視線に気付いていない。
瞬きもせず、葉書を見ていた。
「どうでもいい、とにかく、今はコレを処分すること」
呪文のように何度も呟いて通夜会場まで行った。
篠山団地は我が家の二階から見えるほど近い。
歩いて五分かからない。
しかし、来たのは三回目だ。
生徒の家庭訪問で行った。
この街で一番辺鄙なエリア。
駅や学校と反対側であり、
団地の向こうは山が迫っている。
四階建ての古い建物が三棟。
壁はひび割れ、ベランダの手すりは錆びている。
集会場は別の建物。
生ぬるい風が吹いている。
ゴミ置き場から悪臭を運んでくる。
マスクをしてくれば良かったと後悔する。
参列者は、思ったほど多くなかった。
学校関係の保護者や生徒が来ていない。
教室ほどの広さの集会場に、全員が入れた。
瀬戸航太は母子家庭だ。
二歳の妹が居る。
母、瀬戸リカは38才。
黄色っぽい茶髪のロングヘア。
四角い輪郭でアイメイクのキツイ……データから思い出した女が
幼児を抱いて座っている。
親族達、らしい一団がいない。
私の周りには団地の住人が普段着で座っている。
連れてきた子供が自由に遊んでもいる。
何度も通夜には出ているが、随分雰囲気が違った。
やがて僧侶が去る。
葬儀屋の若い司会者が式の終了を告げる。
私は葉書を手にして母親の側に行く。
「これ最後に書かれたモノだと思うんですよ。ですからね、お母様が、持ってるのがね……お棺に入れてあげるのがいいかとね……」
母親は、涙でくしゃくしゃの顔をしていた。
なんでもいいから、この葉書を握らせてしまおう。
自分より三つ年上だが、人生経歴を推測して
レベルが低い女と見下していた。
生徒に言うように、優しい指導の言葉で喋った。
母親は葉書をしっかり見た。
「へっ?」
と、かなり驚いている。初めて見たという反応だった。
「なんなの?」
と友人らしい女が隣に来て葉書を見ている。
「では、これで失礼します」
会話する気はない。
さっさと立ち去りたい。
だが、
「あの、待って下さい。野々村幸代先生、まだ行かないでください」
背中に母親の声。
「あ、はい?」
わざわざフルネームで呼ばれたので、むかつく。
立ち止まり振り向いたが、側にはいかない。
すると母親の顔が、近くにある。
彼女の顔から、悲しみが消えている感じがする。
瞬きもせずに私を見つめている。
鋭い、強い目だ。
……怒っているのか?
……私に?
「先生、私、気がつくのが遅かったんです。見覚えがある気はしてた。でも、結びつかなかった、違うかも、手遅れと分かってたのかも」
意味不明なことを言い出す。
「お母さん、何をおっしゃってるんですか?」
しっかりして下さい、と私は彼女の肩に手を置いた。
周りが静かだ。
視線が私たちに集中している。
「あの……」
母親は、私の手を静かに払い、瞼を伏せた。
そして、とても言いにくそうに、
思いもよらない事を……。
「次は、ユウヤくんかも」
「ユウヤくん?」
息子の名前が、この女の口から出る筈が無い。
どこのユウヤくんかと私は思った。
だが、次に、もっと有り得ない事に、
私の耳は夫の名前を聞いた。
「野々村シンイチ君に伝えて下さい。私が、『大きな靴』を見たと。シンちゃんは、分かります。航太と……ユウヤくんも一緒に遊んでたと、教えてあげて」
何、それ?
アンタ、何言ってるの?
叫びそうになるのを堪えた。
この女は心を病んでいると、判断した。
瀬戸リカが夫を知っている筈は無い。
団地に住んでる教え子と、私学に通う息子が、一緒に遊ぶ筈が無い。
「私のプライベートを探ってたのかな? あなたがイケメンでエリートだから知り合いだと妄想しちゃったとか」
玄関で、出迎えた夫に一気に喋る。
「靴、脱がないで。一回外出よう。塩撒くから」
塩の為に、玄関で待っていたと言う。
「ユウヤ、ちょっと、来て。父さん、聞きたい事があるんだ」
夫は、二階に声を掛けた。
「どうしたの? ユウヤに何聞くの?」
まさか、あの女の言葉を真に受けたの?
馬鹿馬鹿しくて笑いそうになる。
「なあ、ユウヤ、団地にトモダチ、いるよな」
質問に、息子は頷いた。
「うそよ、そんな筈ないでしょ、」
だって、と言いたかったが夫の目が(黙れ)と言っている。
滅多に無い厳しい表情に不安になる。
「トモダチの名前、教えてくれる?」
「……うん」
「ゴメンな、眠いのに。団地の友達、なんていう子?」
「えーと。ツバサと、マツダとコウちゃん、かな」
息子は指を折りながら答える。
「コウちゃんって、まさか瀬戸航太?」
私は横から聞く。
息子は、ちょっと考えて
「分からない」
と答える。
「名字知らないんだよな、きっと」
(死んだのも知らないと思う)、
夫が私の耳元で囁く。
「三人、団地にトモダチ居るんだ。いつも四人で遊んでるの?」
「いつもじゃない。ツバサはいつも遊べるけど。みんなは五人だよ」
「五人? じゃあトモダチは四人だ。ツバサと、マツダと、コウちゃん、と、あと一人だ」
「うん」
「……あと、一人は、誰?」
夫の声は妙に優しい。
「あ、名前知らない」
「そっか。……何年生か分かる? 男の子なんだよな」
「……わかんない。今度聞いとく」
ユウヤは、全部質問に答えたと、父の側を離れ、寝室に戻った。
「どうして、団地になんか行ってたの? 信じられない」
私は、台所に居る義母に聞こえるように言う。
「そりゃ、近いから行くさ。俺だって団地で遊んでた」
「……そう、なの?」
私は自分の膝の力が抜けていくのを感じた。
ここは夫の生まれ育った家。
あの団地は随分古い。
夫が、団地の住人と接点があっても不思議ではないのか?
「瀬戸君の母親と知り合いだったの?」
「そうらしいな」
「どうして、それ黙ってた訳?」
親しげにシンチャン、と呼んだ。
あれが妄想で無いとしたら、随分親しかったのだ。
なぜ、知り合いだと、教えてくれなかった?
「さっき、君の話を聞いて、死んだ生徒はリカの子供だってわかったんだよ」
リカ、と言った。
不愉快で、ヒステリックになってしまう。
「そうなの。じゃあ、『大きな靴を見た』、って謎の伝言も、意味分かったんだよね。私には何のことだか全然わかんないけど」
夫への怒りと裏切られたようなショックが大きすぎて、
生徒の死も、不気味な葉書も、どこかへ飛んで行ってしまっていた。
「サッチャン。シンイチを責めないでやって」
義母が話しに入って来る。
こんな風に夫婦の間に介入するのは初めてだ。
「あのね、もう三十年もまえの事よ。出来るなら一生思い出したく無かったわ」
夫の隣に座った。
息子の替わりに自分が話すと。
平和で幸福な我が家に
今まで一度も無かった重苦しい空気はなんだろう?
義母の涙を見るのは義父が亡くなったとき以来だ。
「シンイチは三年生。丁度今のユウちゃんと同じね。……夏休みというのも同じよ。シンイチは団地のトモダチと遊んでた。三人か、四人……うちに来て遊んでることもあった」
「瀬戸君の母親も、居たんですか?」
確かめずにいられない。
「そうらしいわね。セトさん、そんな名字だったわね。リカちゃんは。……まさか亡くなった生徒さんの母親とは、気付かなかったわ。同じ名字で、まだ団地に住んでるとは思わないもの」
夫が隣で頷いている。
「一夏遊んでいただけよ。普通なら名前も忘れてるでしょうね」
「三十年前に、普通じゃない出来事が、あったんですね?」
「ええ。怖い事があったの。……始まりは『靴』よ。」
「『大きな靴』、ですか?」
「……そう、大きかったわ。出かけて、家に戻ったら……玄関にね、子供達の可愛らしいスニーカーやサンダルがあるわけよ。ああ、シンイチのトモダチが来てると、思ったわ。……ところがね、子供達の靴以外に、『大きな靴』もあったの。見覚えのない靴よ。絶対に、お父さんのじゃないわ。気味が悪いでしょう?」