前編
一 告知
「かなり進んでますね、これは。」
検査結果をチェックしながら、医師は気の毒そうに呟いた。
「そんなに悪いんでしょうか。」
真由は恐る恐る聞き返す。
関口真由、二十四歳。京都東山で焼き物の絵付け師として今売り出し中の身であった。最近どうも目の疲れがひどいと感じて眼鏡店を訪ねたところ、一度専門の眼科医の検診を受けた方がいいと言われ、健康診断を受けるような軽い気持ちで受診したのであった。
「中度の緑内障ですね。」
医師は「視野検査」と書かれた検査表を真由に見せながら説明を始めた。視野を型取ったと思われる円形のグラフは、ところどころ黒々と色塗られていた。黒い部分が視野欠損を示しているのだということは素人目にもハッキリとわかった。
「緑内障ですか……、この年で。」
真由は思わず聞き返した。緑内障、眼圧が上昇することで視神経が徐々に侵されやがては完全失明にいたる恐ろしい病気である。原因がよく分かっていないため、今の医学では眼圧を下げて進行を遅らせるくらいしか治療法のない難病である。
「緑内障は遺伝性の病気で、年齢とはあまり関係ありません。確かに年を取るにつれ発症の確率は高くなりますが、若いからといって安心は出来ません。ご両親か親戚の方で緑内障を患った人はいませんか。」
「そう言えば祖母が目の悪い人でした。いつも虫眼鏡で新聞を読んでいましたが、晩年はほとんど見えていなかったようです。」
「やはりそうですか。」
医師はそう言いながらカルテに何事かを走り書きした。
「でも何故今まで気付かなかったのでしょう。こんなに視野が欠けているのに。」
真由は今まで異常に気が付かなかったとが不思議であった。
「人間の身体は良く出来ていましてね、一方が悪くなると必ずもう片方がそれを補うんです。あなたの場合、右目が四十パーセント、左目が二十パーセント程欠けています。でも互いの目が夫々の欠落部分をカバーし合いますので、確かに両眼で見るとほとんど異常は感じられないかもしれません。」
真由はなるほどと頷いて見せた。
「でも、片目を閉じて、一眼で見てご覧なさい。右目の半分が見え難くありませんか。」
真由は言われるがままに左目を手の平で覆うと、右目だけで医師を直視した。正面にいる医師はハッキリと見えるが、左手方向にいるはずの看護師の姿はほとんど見えない。無理やり見ようとすれば、顔をその方向に向けるか、視線をその方向に移すしかない。看護師がいるはずの場所には、曇りガラスのようなもやもやとした陰だけが見えていた。
「それで、良くなるんでしょうか。」
真由は核心の質問を医師に向けた。医師は真由の顔を正視したまましばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように告知を始めた。
「残念ながら、一度失われた視力は二度と元には戻りません。今はとにかく眼圧を下げて進行を食い止めるしかないと思います。進行のスピードにはかなりの個人差がありますが、それでも十年、二十年という年月の間には、症状は確実に進行していきます。あなたも早ければ十年後には完全に視力を失っている可能性が……。」
医師の最後の言葉を耳にする前に、真由は目の前が真っ白になっていくのを感じた。
「気持ちを強く持って下さい。決して諦めず、辛抱強く治療を続けて下さい。今は一日でも長く視力を維持することが大事ですから。」
医師の助言もほとんど耳に入らない。真由は茫然自失のままフラフラと診察室を後にした。
処方された点眼薬を待つ間もいろいろな思いが頭の中を過ぎっては消え、また過ぎっていく。これからどうなるのだろう。一体あと何年見えるのだろうか。そして見えなくなった後は……。薬局で点眼薬を受取った真由は、放心状態のまま病院のエントランスを後にした。車寄せを回り込みゲートへと向おうとした、その瞬間。
「あっ、危ない。」
という声と同時に、けたたましいブレーキ音が耳に走った。次の瞬間、真由はアスファルトの上に横たわる自分の姿を発見した。
「いやー、ごめんなさい。大丈夫ですか。」
やっとのことで上体を起こした真由が最初に目にしたものは、慌てて駆け寄ってくる人影であった。その人物はスラリとした長身の若者で、白衣を纏っているところかすると病院の関係者のようであった。
傍らでは、倒れた自転車の後輪がまだカラカラと音を立てて回り続けていた。この時、真由はようやく走ってきた自転車にぶつかったのだと分かった。
「スミマセン、前を良く見ていなかったもので。」
「いえ、こちらこそスミマセン。ぼーっと考えごとをしてたもので。」
そう言いながら、立ち上がろうとした真由は、次の瞬間向うずねに走った激痛に思わずその場にしゃがみこんでしまった。倒れたときに擦りむいたのであろうか、右足の膝から向うずねにかけて血が滲み出ていた。
「やー、これはひどい。すぐ手当てしなきゃ。」
白衣の人はそう言いながら、真由に手を差し伸べた。
「いえ、本当に大丈夫です。気になさらないで下さい。」
真由はまだ痛む足を引き摺りながらも気丈に立ち上がると、そっと一礼した。
「いえ、化膿するといけませんから消毒だけでもしましょう。」
白衣の人は無理やり真由の手を引いて歩き始めた。真由にとっては見も知らぬ人であったが、一見して誠実そうな若者である。真由は言われるがままに付き従った。二人は外来棟を横目に見ながら通り過ぎると、病院の裏手に回った。暫く行くと「研究棟」と書かれたプレートの上がった入り口が見えてきた。
鉄製の扉を開くと、表の外来棟とは打って変わって、これが同じ病院かと思えるくらい雑然とした廊下が目の前に伸びていた。長い年月を経た木の廊下はところどころ色褪せ、その両脇にはダンボール箱が通路を塞ぐように積まれていた。二人はその廊下を縫うように進むと、やがて黒字に白抜きの字で「眼科臨床研究室」と書かれたプレートの上がった部屋の前に立った。
白衣の人は先に立って、さっさと部屋の中に入ると、続いて真由を中に招き入れた。部屋の中はさらに混乱していた。机の上には、専門書らしき本がうず高く積まれ、窓から入る陽光を遮蔽していた。ところどころ薬品の瓶と思われるガラス瓶が転がっており、微かに病院特有の消毒薬の匂いが漂っていた。
「すみません。こんなむさ苦しいところで。でも、とりあえずどうぞ。」
白衣の人は、薄汚れたソファの埃をパンパンと手で払うと、どうぞと言わんばかりに真由に席を奨めた。
「確か、ここに救急箱があったはずだ。」
真由が座るのを確認もせずに、白衣の人はガサゴソと机の間を探し始めたが、しばらくして木製の古い救急箱を下げて戻ってきた。そして、救急箱の中から消毒液のビンとガーゼを取り出すと、真由の膝先にかがみ込んだ。
「少し、しみるかもしれませんよ。」
白衣の人は、そう言いながらガーゼを膝に当てると消毒液をコクリと流し込んだ。
「うっ。」
消毒液の冷やりとした感触が膝に伝わった次の瞬間、真由は焼け付くような痛みに思わず顔をのけぞらせた。
「多分、これでもう大丈夫でと思いますが…。外科が専門じゃないんで…」
真由がそっと目を開けると、傷の上には大きなガーゼがテープで貼り付けてあった。どうもいい加減な手当てではあったが、真剣な眼差しで一生懸命テープと格闘している若者を目の前にして、真由は先程の緊張も和らいで何となくほのぼのとした気分になった。
「申し遅れました、私、眼科で臨床研究医をしています林田誠と言います。」
この時、真由はようやくこの白衣の人が眼科の医師であったと知った。
「どうも有り難うございました。こちらこそ本当にすみませんでした。ちょっと心配事があったもので、ついボンヤリとしてしまって……」
「いえ、いいんですよ。そう言えば、お顔の色があまりよくありませんね。どこかお体の具合が悪くて来院されたのですか。」
そこは流石に医者である。真由の表情から何かを読み取ったようであった。真由は一瞬戸惑ったが、先ほど診察を受けた経緯、そしてその結果の一部始終をこの青年医師に話した。人に話すと不思議と楽になるものである。
林田医師は、真由の一言一言を逐一頷きながら聞いていたが、真由が話し終わるのを待って徐に口を開いた。
「そうですか、存じ上げませんでした。失礼しました。最近、若年性の緑内障が増えているのは事実です。眼科学会でも主要なテーマの一つとなっています。今じゃ、日本人の十人に一人は潜在的な緑内障患者です。これは主要な先進国の中では飛び抜けて高い発症率なんです。」
真由は自分の病気が特別なものではないと聞いて大変驚いた。先ほどの医者の口からはこのような説明は一切なかった。毎日数多くの患者を診ていると、あのような形式的な説明に留まってしまうものなのであろうか。真由は好奇心の塊となって疑問をぶつけた。
「どうして、日本人だけそんなに発症率が高いんですか。」
「日本の閉鎖性が原因だと言われています。ご存知のように緑内障は遺伝性の病気です。日本人のように、日本人だけと結婚するようなことを何世代も続けていると、こうした遺伝性の病気に罹る確率はどんどん高くなります。西欧諸国では人種を超えた結婚は当たり前になっています。こんなちょっとしたことでも何百年も経つと大きく違った結果が出てきてしまうのです。」
日本人同士の結婚が原因?。真由は自分の病気の原因がとんでもないところにあったと聞いて、驚嘆した。
「それで、直る見込みはあるのでしょうか。」
林田医師は、少し考えるような仕種をしたあと、やや声を落として説明を続けた。
「残念ながら、まだ確たる治療法はありません。眼圧を下げて進行を遅らせることが唯一の治療法ですが、これとて単なる対症療法にすぎません。病気の原因を根本的に直すことは今の医学では無理なんです。」
先ほどの眼科医の説明と同じであった。真由は、内心この青年医師の口から明るい希望の声が聞けるのではないかと期待したが、結局は難しいと知って落胆のため息をもらした。
「とにかく、言われたとおり辛抱強く治療を続けて下さい。それと、もしお困りのことがあればいつでもお声掛け下さい。私に出来ることがあれば、力になりますから。」
真由は頭を下げながら心の中で感謝の言葉を繰り返した。たった今会ったばかりの赤の他人にどうしてこのような親切な言葉がかけられるであろうか。真由は林田医師の誠実な人柄に思わずこぼれそうになった涙をじっとこらえて、研究室を後にした。
一年後。
「思ったよりも早く進行していますね。そろそろトレーニングを始めましょうか。」
医師は無造作に言い放った。一年前の告知以来、真由は懸命に治療を続けていた。点眼薬を毎日欠かさず朝夕の二回両眼に差す。月一回受ける眼圧検査の結果もずっと正常値であった。
しかし、病状は真由の予想をはるかに超えるスピードで進んでいた。視野検査の結果も確かに前よりも視野欠損の領域が大きくなっていた。そして最近では、日常生活の中でも見え難さを感じるようになってきた。自分では見えているつもりが、時折階段を踏み外したり、肩をドアにぶつけたりとかすることが多くなった。
「トレーニング、ですか。」
真由は何のことか分からず聞き返した。
「そうです。失明した場合に備えて今から訓練を始めるのです。」
失明。とうとうあの恐ろしい一言を口にしなければならない時が来た。それもこんなに早くに。真由は動揺して小刻みに肩を震わせた。一年前の診断では、あと十年や二十年は大丈夫と聞かされていた。どうしてこんなに早くに。
「前にも言いましたが、病状の進行には個人差があります。残念ながらあなたの場合、平均よりは早く進んでいるようです。」
真由が事の重大さを咀嚼しきる前に、医師は伝票のような紙に何事かを走り書きすると無造作に真由に手渡した。
「この予約票を持って、トレーニング室に行って下さい。あとは向こうの担当者から詳しく説明かあると思いますから。」
真由は渡された紙を手にすると、フラフラと診察室を後にした。トレーニングとは一体何をするのであろうか。そして目の方は一体いつまで見え続けるのであろうか。真由はそんなことを考えながら、トレーニング室の方へ歩き始めた。
トレーニング室は受付を挟んで診察室とは反対側の廊下を延々と下っていたその先にあった。ここは一般の診療棟とは違って、淡いグリーンを基調とした明るい色でコーディネートされており、受付脇の掲示板には、ジム、プール、カウンセリングルームといった表示がなされていた。
「あのー、トレーニングの予約をしたいのですが。」
一見するとどこかのフィットネスクラブを思わせる雰囲気に真由は一瞬戸惑いを感じながらも、受付のカウンターに医師から手渡された予約表を差出した。
「関口さんはこちらは初めてですね。それではこちらの登録カードに記入して下さい。」
受付の女性が笑顔で応対した。指示された通りに登録カードの記入を済ませると、真由はカウンターの前のソファに腰を下ろした。
待っている間にも、何人かの患者と思しき人々が真由の目の前を通り過ぎていった。車椅子に乗った人、松葉杖を突いた人、皆多かれ少なかれ身体の障害を抱え、リハビリに通っている風であった。その姿を目の当たりにして、真由はやはりここは病院なのだと実感した。
暫くして名前を呼ばれた真由は、カウンターで真新しい予約カードを受取った。
「では初回は来週の火曜日、午前十時になります。最初は担当のコーチからのオリエンテーションがありますので指定の時間にお越しください。二回目からは、ご自分のご都合に合わせて予約を入れることができますから。」
名刺大の予約カードの一行目には指定の日時が記されており、残りの行はブランクになっていた。これからこのカードの一行一行にトレーニングの日付が記入されていく。最後の行に着く頃まで目は見えているのだろうか。真由はまたしても重く圧し掛かってくる不安に打ちひしがれながら、トレーニング室を後にした。
翌火曜日。真由は指定された時間にトレーニング室にやって来た。
「関口さん、こちらへどうぞ。今日は初回ですので担当のコーチからいろいろ説明があると思います。」
受付の女性は、真由をカウンセリングルームへと案内した。ここでは、トレーニングの指導者をコーチと呼ぶらしかった。辛く重苦しいリハビリのムードを少しでも和やかなものにするための工夫であろうか。
カウンセリングルームは全部で四つあった。どの部屋も似たような殺風景な作りで、小さなテーブルを挟んでスチール製の椅子が四つ置かれていた。
真由が椅子に座って待っている間、突然遠くで咽び泣く声が漏れ伝わって来た。もちろんどの部屋か真由には見当もつかなかった。訓練の辛さに耐え兼ねた患者の悲痛な叫びか、それとも不治を宣告されて泣き崩れる声なのか、真由は言いようもない不安を覚えて、身を縮めた。
その時、ガチャリとドアの開く音がして白衣の男性が部屋に入ってきた。恐らくコーチであろう。真由は慌てて椅子から立ち上がって一礼しようとしたその瞬間、二人はお互いの顔を見合わせて、思わず微笑んだ。
「あっ、あなたでしたか。」
「あれっ、先生。」
真由の脳裏に一年前の記憶が鮮明に蘇えって来た。と同時に、林田医師が自分のコーチであったと知って、先ほどまでの不安もすっかり消え失せた。この人がコーチならどんなに辛いトレーニングにも耐えてゆけるかもしれない、そんな淡い希望が湧いて来た。
「まあ、どうぞ。」
林田医師は、立ち上がろうとする真由を制すると自らも向かい側の椅子に腰を下ろした。
「カルテを拝見しましたが、思ったよりも早く進んでいますね。何と申し上げていいか。とにかく今日からは私をパートナーと思って、トレーニングを始めましょう。宜しくお願いします。」
「いえ、こちらこそ宜しくお願いします。」
一礼する真由の前に、林田医師は早速一冊の冊子を差出した。トレーニング要項と表紙に書かれた冊子の一枚目を繰ると、これからトレーニングを受ける者の心構えが記されていた。
「これから訓練しなければならないことは山のようにあります。視力を失った場合に備えての歩行訓練、点字の修得、それに日常生活の中で必要なありとあらゆることを覚えてゆかなくてはなりません。それも学校の勉強のように暗記すればいいというものではなく、一つ一つをあなた自身の身体で体得してゆかなければならないのです。」
林田医師の真剣な説明に真由は逐一頷きながら聞いていたが、目が見えなくなるということがどういうことなのか、漠然とした不安意外にまだハッキリとしたイメージがわかなかった。
「それと、最も大切なことはメンタルケアです。目が見えなくなるという圧倒的な重圧の中で、辛い訓練に耐えてゆくのは並大抵のことではありません。想像を絶する苦難があると覚悟して下さい。大変申し上げ難いことですが、中には絶望に負けて自殺という道を選んでしまった患者さんもいないわけではありません。でもほとんどの人は自分の力でそれを乗り越え、そして全く違う新しい人生を勝ち取ってゆかれるのです。とにかく生まれ変わるつもりで頑張りましょう。」
真由は次第にことの重大さを咀嚼し始めた。自分のような弱い人間がこのような辛い訓練をやり遂げる事が出来るのであろうか、そしてその先には何があるというのか。真由の頭の中に「自殺」という一言が何度となくこだました。
「では今日は初回ですから、まずは目が見えないということがどういうことなのか体験するところから始めましょう。さあこちらへどうぞ。」
林田医師は先に立ってトレーニングジムの方へと真由を案内した。ジムはカウンセリングルームのさらに奥にあった。
体育館ほどあろうかと思われる部屋には、恐らく歩行訓練に使うのであろう、二本の手すりが付いたステップが何個所かしつらえてあり、そのほかにもウエイトトレーニング用のマシンが数台並んでいた。壁際のステップでは既に何人かの患者が訓練を始めていた。
「あの人は一年くらい前、脳卒中で倒れられて、ほとんど寝たきりだったのですが、今ではあそこまで回復されました。」
林田医師が視線を向けた先には六十過ぎと思われる白髪の男性が、手すりにつかまり黙々と歩行練習に励んでいた。一歩また一歩とゆっくりと前に足を踏み出す。時折ガクリと膝が折れるが、懸命に立ち上がるとまた一歩前へ進む。わずか十メートル程を進むのに多大の時間と労力を費やしている。真由は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。
「じゃあ、こちらへどうぞ。今からトレーニングを始めます。まずはこのステップを歩いてみて下さい。」
真由は指示されたとおり、手すりの間のステップをスタスタと歩いた。健常者にとってはわずか二秒ほどの距離である。
「はい、もう一度。」
真由は元の位置に戻ってまた同じことを繰り返した。そんなことを四回、五回と繰り返すうち、真由は一体何のためにこんなことをするだろうと考え始めた。その時、林田医師は新たな指示を出した。
「少し感覚が掴めましたか。では、今度は少し難しくなりますよ。左目を閉じて、右目だけでもう一度。」
真由は言われるがままに左目を閉じると同じようなつもりでスタスタと歩き始めた。真由は真っ直ぐ歩いたつもりであったが、最後のところで腰のあたりを手すりがかすった。いつの間にか閉じた左目の方に身体が傾いていたのである。
「人間は二つの目があるからこそ真っ直ぐ歩けるのです。二つの目を使うことで、人は無意識のうちに距離や方向を測っているのです。それが片方だけになると途端に外から入ってくる情報量が減ります。そうすると先ほどのように思わぬ障害物に接触したりするのです。」
真由は人の身体がとても精巧に出来ていると聞いて大変驚いた。二つある目のうち一つが欠けても真っ直ぐ歩くことすら覚束なくなる。両眼を閉じたら一体どうなるのだろう。真由の不安知ってか知らずか、林田医師はついに過酷な指示を出した。
「では、いよいよ両目を塞いでみましょう。」
林田医師はそう言うとゴムひものついたアイマスクを真由に手渡した。真由は恐る恐るそのアイマスクを頭に着けた。明るいジムの中は一瞬にして暗闇へと変わった。両目を塞ぐと途端に人の声が大きく聞こえる。先ほどまでは全く聞こえていなかった、「一、二、三、四」という隣のコーチの声がことさら大きく真由の耳に届いた。
真由は不思議な感覚にとらわれながら、慎重に慎重に第一歩を踏み出した。先ほどから何度となく歩いたステップなのに、なかなか足が前に出ない。障害物は何もないと分かっていても、足を出すのが怖い。わずか十メートルを進む間に三度も腰骨を手すりに擦り付けた。
「どうです?。難しいでしょう。これを付けると、目が見えるということがどんなに大切なことかよく分かるでしょう。」
真由は黙って頷いた。
「人の目は単に障害物を認知してそれを避けるためにあるだけではないのです。目は身体の周囲にあるありとあらゆる情報を取り入れることで、自分の位置や微妙な身体の傾き具合まで瞬時に計算しているのです。だから人は凹凸の多い道を歩くという複雑な動作も無意識のうちに器用にやってのけることが出来るのです。」
真由は林田医師の説明を驚きをもって聞いていた。目が見えなくても足さえあれば歩ける、そう思っていた自分が何と浅薄だったことか。真由は山登りの第一歩を踏み出した途端に、とてつもなく高い垂直の絶壁にぶち当たった思いであった。しかし、林田医師はそんな真由の思いを知ってか知らずか、さらに過酷な指示を出した。
「さあ、今度は手すりのない広い場所を歩いてみましょう。街中に出れば頼れるものは何もなくなります。さあ、あなたの右手には車が引っ切り無しに行き交う道路が、そして左手には下水が流れています。歩道から足を踏み外さずに真っ直ぐ歩いてみて下さい。」
真由は林田医師を恨みに思った。さっきまでの優しかった表情はすっかり消え失せ、次々と難問を吹っ掛けてくる意地悪なコーチの姿に変わっていた。何も初日からここまでしなくてもいいのに。この人は本当は性悪な人間だったのかもしれない。真由はすっかりふて腐れた表情をして見せたが、それでも言われた通りにアイマスクを着けた。
何の障害物もないとはわかっていても、やはり目が見えないと前へ出るのが怖い。思わず両手を前へ差出して一歩また一歩と揺れる身体のバランスをとりながら前へと進む。
真由は、子供の頃夏の海水浴場で遊んだスイカ割のことを思い出していた。最初は真っ直ぐ歩くつもりで一歩を踏み出すが、二〜三歩歩いただけでもうどっちを向いて歩いているのかすら分からない。周りから囃す声に惑わされてウロウロと浜辺を歩き回る惨めな自分の姿を思い浮かべていた。十歩ほど歩いたであろうか、真由は立ち止まってアイマスクを外した。
「はい、アウト。あなたは今車に跳ねられました。」
後ろから林田医師の嘲笑うような声が聞こえてきた。あの悪魔コーチは方向を失ってウロウロし回る自分をさっきからじっと見ていたのだ。あのスイカ割の囃子達のように。真由は言いようもない憤りを感じたが、それをじっとこらえて再びアイマスクを着けた。今度こそという思いで慎重に足を運ぶ。しかし結果はまた同じであった。何度も元の位置に戻っては繰り返すが、その度ごとにとんでもない方向にいる自分を発見するだけであった。やがて、足がガクガク震え出し、一歩も前へ踏み出すことが出来なくなってしまった。
「嫌よ、嫌。どうして私がこんなことしなきゃいけないの。」
真由は激昂して、アイマスクを床に叩き付けた。林田医師は黙ってそれを拾うと、再び真由に手渡そうとした。真由はそれを受取る代りに、罵の言葉を浴びせていた。
「あなたはさっきから私がウロウロするのを見て楽しんでいたのね。どうせ健常者にはこんな私の苦しみは分からない。もう止めた。二度とここへは来ないわ。」
そう言うなり、真由はその場にしゃがみこんで泣き崩れた。
「今日はこれまでにしましょうか。」
林田医師は静かに初日のトレーニングの終了を告げた。一頻り咽び泣き続けた真由は、やがて泣き腫らした目で林田医師をじっと睨み付けた。
「お昼でも一緒にいかがですか。近くにおいしいレストランがあるんです。」
ジムの外に出た林田医師は、ふてくされたまま口も聞かない真由に話しかけた。あんなに人をバカにしておいてお昼も何もあったものじゃない。真由はわざとそんな林田医師を無視していた。しかし、林田医師も負けてはいなかった。
「今日はこのままでは帰しませんよ。まだお話しておきたいことは山ほどありますからね。」
真由は全く気乗りがしなかったが、林田医師の強気な誘いに押されるままにレストランへと付き従った。病院のエントランスを出て通りを渡ったすぐ向いに、「ボンジュール」という看板の上がったレストランがあった。
「ここのランチコースは安くておいしいんですよ。時々時間のある時に来るんですよ。」
そう言うと、林田医師は使い慣れた様子で窓際のテーブルに席をとった。お昼までまだ少し時間があったせいか、真由たち以外に客はいなかった。二人が席に着くと、ウエイターがすぐにメニューを持って現れた。
「今日のランチは、新鮮な平目がお奨めでございますが。」
メニューを差出しながら、ウエイターがそっと説明する。
「じゃあ、それにして下さい。」
林田医師は迷わず魚料理を選んだ。ウエイターはゆっくりと真由の方へと向き直るが、真由はそんなウエイターを無視するかのように、プイッと窓の方を向いていた。
「彼女にも同じもので。」
林田医師は慌てて注文を付け加えた。ウエイターが一礼して下がっていくのを確認した林田医師は徐に口を開いた。
「さっきは失礼しました。目が見えないということの怖さを知ってもらいたくて、いきなりあのような体験をしてもらいました。別に悪気があった訳じゃありません。」
しかし、真由はまだソッポを向いていた。今更言い訳なんか聞きたくない。こんな思いをするくらいならもうどうなったっていい、真由は心の中で繰り返しそう叫んでいた。
「まだ怒ってるんですか。そうやってふてくされていても何も解決しませんよ。自分の力で努力しなければ、何も生れてきません。」
今度はお説教?、真由がそう叫ぼうとした瞬間、それを遮るかのようにウエイターが前菜の皿を手にして現れた。ウエイターは慣れた手つきで二人の前に次々と料理を給仕すると、グラスにミネラルウォーターを注いだ。
林田医師はゆっくりとナイフとフォークを手にする。一方の真由はというと、相変わらずむっつりと黙りこくっていた。意地でも食べるものか、への字に歪んだ真由の口は無言でそう語りかけていた。
しかし、次の瞬間、真由の目の前で予想外のことが起きた。
「あっ。」
という小さな声とともに、林田医師の右手側よりグラスが床の上に倒れ落ちた。ガッシャーンという音が静かな店内に響き渡り、中に入っていた水が当たりに飛び散った。
「す、すみません。」
慌てて席を立つ二人。そこへウエイターがモップを片手に駆けつけてきた。頭を下げる林田医師の目の前で、ウエイターは器用にモップを操ると割れたガラスと床の上に流れた水を跡形もなく拭き取った。こういうことは時折あるのであろう、手慣れた様子で片付けを終えたウエイターはにこやかに一礼した。
「いやー、失礼しました。やっぱり片目では無理ですね。気をつけなくちゃと分かっていても、ついやってしまう。」
林田医師はさりげなく呟いた。
「えっ? どういうことですか。」
真由は何のことか分からず聞き返した。
「実は、私の右目はもうほとんど見えていないんです。」
林田医師は、まだ何のことか理解できないでいる真由に対してさらに説明を続ける。
「あなたと同じですよ。若年性の緑内障。医者の不養生とはよくいったもので、気が付いた時にはもう半分以上視野を失っていました。」
林田医師はまるで他人事のように、ニコニコしながらさらりと言ってのけた。
「し、知らなかった。ごめんなさい。私ったら、あんなひどいことを言ってしまって。」
真由の口が、意思に反して独りでに動いた。真由の心は動揺していた。知らなかったとはいえ、林田先生にあんな罵声を浴びせてしまった。真由は心の底で手を合わせて謝罪の言葉を繰り返していた。
「やっと口を開いてくれましたね。私が自分の緑内障に気付いたのは三年前のことでした。これから眼科医になるのだから視野検査機の使い方ぐらい覚えておかなきゃと思って、試しに使ってみたんです。最初はセットをし間違えたかと思いました。でも何度やっても結果は同じ。それで研究所の先輩に診てもらったら中度の緑内障と分かって…。
後はあなたと同じです。眼圧を下げる治療を続けましたが、だんだん進行して右目はもう八十パーセント以上です。一年前、あなたに自転車をぶつけてしまったのも、きっと前がよく見えていなかったんでしょうね。」
林田医師はまるで他人事のように淡々と話を続けた。真由は返す言葉もなかった。自らの苦悩を表に出さず、ひたすら他人のためにある時は優しく、そしてある時は厳しく尽くそうとする。人はここまで強くなれるものなのであろうか。それに比べて自分は何と未熟であったか。あのように取り乱してしまって。真由は反省の気持ちで一杯になった。
「でも、本当は私も怖いんです。とても。だって眼科医は目が命です。それが見えなくなれば本当におしまいです。これまで努力してきたことが全て無に帰するんです。それで、今日は是非ともあなたに聞いておいてもらいたいことがあって、無理やりお引き止めしました。」
真由はまだ気が動転していた。このような立派な先生が、自分のような者に一体どんな話があるというのか。しかし、その後の約一時間、真由は林田医師の口から世にも不思議な話を耳にすることになった。
「緑内障が遺伝性の病気であるということは、随分と以前から経験的に知られていました。例えば親や親戚に目の悪い人がいると、かなり高い確率で子供や孫にその症状が受け継がれます。それで医者たちは緑内障が遺伝病だと考えていたわけです。
ところが最近そのことがヒトゲノムの解析によりはっきりと確認されたのです。ヒトゲノムは、一言で言うと人の身体の設計図です。あなたの手も足もそして目も全てはゲノムに書き込まれた遺伝情報を元にして作られています。そこに欠陥があると人の身体にはいろいろな障害が出てきます。家を建てるのと同じです。設計図にミスがあると雨漏りがしたり、家が傾いたりするでしょう。人の身体も全く同じです。
緑内障は、全部で二十三本あるヒトの染色体の中で十五番染色体にあるごく一部の塩基配列の欠陥により生じることが最近の研究で明らかになったんです。」
真由もヒトゲノムやDNAという言葉くらいは新聞やテレビのニュースで聞き知ってはいたが、こうした専門的な話を聞くのは初めてであった。好奇心の塊となって聞き入る真由の前で、林田医師はさらに驚くべき自説を話し始めた。
「私は緑内障の原因となる欠陥がいつ頃どのようにして人の遺伝子の中に組み込まれたのかを研究してきました。そして最近、それが旧石器時代に溯るという確証を得たのです。
あなたもダーウィンの進化論の話くらいは聞かれたことがあるでしょう。全ての生き物は突然生れてきたのではなくて、とてつもなく長い時間を掛けて環境の変化に適応するために自らの身体を変化させてきたのです。これが「進化」です。アダムとイブが作ったなんて言うのは神話の世界の話で、ヒトも本当はサルから進化してきたのです。
ヒトの遺伝子を調べると、こうした進化の歴史が全て刻まれています。しかし、進化は実は「退化」とも表裏一体の関係にあるのです。いえ、それは、実際は同じものなのです。」
「た、退化ですか。」
真由は思わず聞き返した。
「あっはは。少し難しすぎましたか。退化というのはその機能がもはや必要でなくなった時に起こります。例えば、真っ暗な洞窟の中に長年棲みついている洞穴ヤモリは目が退化してしまってありません。目に相当する部分にはわずかに眼窩のくぼみが残っているだけです。暗闇の中で長年光りを見ることのない生活を続けて来たために、ヤモリの遺伝子はもはや目が要らなくなったと判断してしまったのです。そして一旦遺伝子に組み込まれた変異は代々子孫まで受け継がれ、退化はさらに進んでいきます。こうして目のない洞穴ヤモリが生れたのです。」
かつてあった目が退化してなくなる、そんなことが本当にあるのだろうか。そしてこのことが緑内障と何の関係かあるというのか。真由は林田医師の不可解でかつ難解な話に少し頭の中が混乱し始めていた。丁度その時、真由に咀嚼の時間を与えるかのように、タイミングよくウエイターがメーンコースを持って現れた。
林田医師は、今度は慎重にグラスを右手に取ると少し水を口に含んで、話を続けた。
「今から一万年くらい前、人はまだ洞窟に住み狩猟生活を送っていました。昼間は、男は狩猟に出かけ、女は洞窟の中でひたすら男たちの帰りを待っていました。当時、まだ洞窟の外は危険が一杯でした。野生のオオカミや他部族の襲撃など、生存を脅かすものに満ち溢れていました。こうした危険を避けるには洞窟の中はかっこうの場所だったのです。
女たちは暗い洞窟の中で一日の大半を過ごしていたと思われます。一日中陽の光を見ない生活を続けていたため、やがてあの洞穴ヤモリと同じことが起こってしまったのです。
そして一旦退化のプラグラムが遺伝子に組み込まれてしまうと二度と元には戻りません。退化遺伝子は親から子へと何代も何代も引継がれていきます。そしてそれが緑内障という病気となって現代人の目に残ったのです。」
緑内障が遺伝子の退化で起きた?。真由は自分の病気が有史以前の遠い遠いご先祖様からのとんでもない引継ぎ物であったと聞いて驚嘆した。こんなことが本当にあるのだろうか。驚きのあまり言葉が出てこない真由に代わって、林田医師はさらに解説を続ける。
「信じられないのは無理もありません。最初は眼科学会でも私の仮説は一笑に付されました。ところが最近、私の仮説を支持する重要な二つの証拠が見つかったのです。
一つは洞穴ヤモリの退化遺伝子の塩基配列です。これが人の緑内障遺伝子の塩基配列と極めて酷似していることが洞穴生物学者の協力を得て明らかになったのです。もはや緑内障遺伝子が、ある種の目の退化現象であることは疑う余地がありません。
そして今一つは、考古学的アプローチです。最近静岡県の三ヶ日の洞窟遺跡で見付かった古代人の骨のDNA鑑定をしたところ、緑内障遺伝子が発見されました。この時代に生きていた人達も既に緑内障を患っていたのです。」
林田医師は自信満々に自説を披露してみせると、再びナイフとフォークを動かし始めた。
「それで、やはり直る見込みはないのでしょうか。」
真由はこの天才眼科医ならば、何か根本的な治療法を見つけ出せるのではないかという淡い期待を抱いた。しかし、そう甘くはなかった。
「前にも言いましたが、一旦組み込まれてしまった退化のプログラムを元に戻すのは容易ではありません。それは人の進化の過程をコントロールしようとするのと同じくらい難しいことなのです。残念ながら今の医療技術では失われたものは元には戻せないのです。」
林田医師の言葉に真由は落胆の色を隠せなかった。しかし、林田医師の恐ろしい仮説はここでは終わらなかった。その先には真由が予想だにしなかったとてつもなく恐ろしい結論が待ち受けていた。
「仮に一万年前、洞窟暮しの古代人の一人に突然変異が起きて緑内障遺伝子が発生したとしますと、それから今日に至るまでもう数百世代も経ています。緑内障遺伝子の保持者が全て緑内障に罹患する訳ではありませんが、日本のような狭い島国で近親結婚を繰り返していると、その確率はどんどん高くなります。
あくまで推測ですが、一万年という時間の経過と遺伝子内に組み込まれた退化プログラムが子孫に引継がれる確率を勘案して計算しますと、理論上日本人の十人に一人が緑内障遺伝子を保持していることになります。」
茫然自失。日本人の間にこんなに緑内障が蔓延しているとは。それも何千年という時の流れを経て累々と受け継がれてきたとなると只事ではない。真由は無言のままナイフとフォークを置いた。
「今日はどうも有り難うございました。本当にびっくりしました。何と言っていいのか。」
真由は自分の気持ちを何とか表現しようとするが、言葉が思いつかなかった。
「いえ、いいんですよ。それよりトレーニングを続けていく気になりましたか。」
「ええ、先生。是非宜しくお願いします。」
「その先生というのは止めて下さい。誠と呼んで下さい。もうコーチでもトレーニーでもありません。同じ病気を患ってしまった者同士、支え合ってゆきましょう。」
「誠さん、ですか。」
真由は思わず聞き返した。
「ええ、その代り私もあなたのことを真由さんと呼ばせてもらっていいですか。」
真由は一瞬戸惑いながらも、すぐに笑顔で頷いた。先ほどまでの沈鬱な気分も消え失せ、真由は、心の中にほのぼのとした気持ちが芽生えてくるのを覚えていた。
二人は、運ばれてきたコーヒーにどちらからともなくミルクを注ぐと、時が経つのも忘れて食後の談笑を楽しんだ。
二 暗転
三ヶ月後。
「そう、その調子。かなりうまくなりましたね。」
アイマスクを着けた真由は杖を片手にステップを上がり下がりした。このステップは障害者の歩行訓練用に特別に作られており、ところどころに段差や傾斜を自由に設定することが出来るようになっていた。最初は躓いてばかりいたステップも、杖を頼りに高低差や傾斜具合を測りながら何とかクリア出来るようになってきた。
真由は点字の習得にも精力的に取組み、人よりも一段と早い上達を見せていた。あれほど惧れ嫌がっていたトレーニングにこうも熱心に取組むことができる背景には、「誠」という存在があることを真由自身うすうす感じ始めていた。
そんな真由の上達ぶりを目を細めて見ていた誠の傍に、一人の若い研修医が息を切らせて駆け寄って来た。
「先生、これを見て下さい。」
そう言いながら研修医らしき青年は誠に何かのレポートを手渡した。
「何だ、今トレーニング中だぞ。」
「分かってます。でも、これ……。」
差出されたレポートを読んでいた誠の手はやがて小刻みに震え始め、顔もみるみる険しくなっていった。トレーニングの手を休めた真由は、一抹の不安を覚えながら誠の様子を伺っていた。
「ごめんなさい、今日のトレーニングはこれまでにしましょう。」
誠は蒼ざめた表情でトレーニングの終了を告げた。
「どうかしたんですか。」
「いえ、ちょっと。次の日取りはまた連絡しますから。」
心配そうに尋ねる真由に、誠は作り笑顔で応えると、レポートを片手に急ぎ足でジムから出ていった。
眼科部長室。
「先生、一体これはどういうことですか。」
誠は先ほどのレポートを教授の机の上に放り出すと、声を荒げて食って掛かった。高柳圭吾。洛東大学医学部の眼科部長を長らく勤めるこの教授は、眼科学会の最高権威の地位を欲しいままにしていた。今時珍しくなった黒ぶちの厚い眼鏡をかけた高柳教授は、黒光りのする大きなデスクの後ろで悠然と構えていた。
誠が投げ出したレポートの表紙には、「厳秘」という判とともに衝撃的なタイトルが記されていた。「医療審議会答申」、首相の諮問機関である医療審議会が作成したレポートである。新たな法案作成に先立っては、必ず専門家による調査研究が行われ、その結果は「答申」という形で報告される。立法者は、そうした答申に基づき法案を作成する。言わば法律の「卵」である。
「いやー、すまん、すまん。審議会の方からどうしても当方の意見をくれって言われてね。申し訳なかったんだが、君の論文を少し拝借したんだよ。」
教授は一向に悪びれる様子もなく、笑って答えた。審議会の答申に引用されていた論文の内容は、誠が書いたものに酷似していた、いや正確には一言一句丸写しであった。
「盗用なんて人聞きの悪いことは言わんでくれよな。現に君の名前は、審議会の答申の中にもはっきりと引用してもらった。これで君は押しも押されぬ眼科学会の権威の一人に名を連ねることになる。喜びたまえ。」
教授は誠の論文を勝手に引用したという罪の意識は持ち合わせていないようであった。
「あの論文はまだ公に出来るような内容じゃありません。もちろん内容には自信があります。でも社会に対するインパクトの大きさを考えると、とても……。」
「何だ、不服なのかね。」
先ほどまでにこやかであった教授の顔は急に不機嫌な表情に変わった。
「君、人生には潮目というものがあるんだよ。我々が住んでいる世界の競争はし烈だ。ほとんどの人間は認められることもなく野に下っていく。そのような中で君はこんな千載一遇のチャンスを得たんだ。これを掴まなくてどうするんだ。」
教授はクルリと椅子を回転させると誠の方に背を向けた。
「とにかく、もう矢は放たれてしまった。後戻りは出来ん。これからは君も忙しくなるぞ。決して悪いようにはしないから、頑張ってくれたまえ。」
誠の口に言葉はなかった。教授の言う通り、誠が好もうと好まざろうと、矢は既に放たれてしまったのである。
「失礼します。」
誠は憮然とした表情のまま眼科部長室をあとにした。しかし、この日の誠は、まだ自らが記した論文が、とんでもない帰結をもたらすことになるとは気付いてもいなかった。
一ヶ月後のお昼時、日本列島を衝撃的なニュースが駆け抜けた。この瞬間、真由はいつものように午前のトレーニングを終えて、誠と共に病院の食堂で軽い昼食をとっていた。
あの再会の日以来、真由と誠は毎週欠かさず二回ずつのトレーニングを共にしていた。辛いトレーニング室に通うのも二人にとっては楽しみな日課になりつつあった。食堂は丁度お昼時ということもあって、大勢の医師や看護師たちが談笑しながら昼食を取っていた。その全員の目が一斉に壁際のテレビに釘付けとなったのである。
「政府は、今日午前の閣議の後、遺伝性緑内障患者の子供作りに一定の制限を設けるべく検討を進めていくことを明らかにしました。これは先の医療審議会の答申に応えたもので、この背景には日本人に多く見られる遺伝性緑内障のこれ以上の拡大を防ぐ狙いがあるものと見られています。それでは、社会部の小島解説委員に解説をお願いします。」
テレビカメラがぐいと引かれてキャスターの傍らに解説委員の姿が現れた。
「小島さん、政府は何故この時期にこのような決定を下したのでしょうか。」
キャスターの問いかけに、襟を正すように背筋を伸ばした解説委員が話を始めた。
「今回の決定の背景には、予想以上に緑内障患者の数が増えていることがあります。潜在的な数も合わせますと、日本全体で数百万から一千万人の緑内障患者もしくはその予備軍がいると言われています。しかも、最近は二十代にして緑内障に罹る、いわゆる若年性緑内障の症例が増えてきています。
この緑内障というのは従来から遺伝性の病気と考えられて来ましたが、最近それがヒトゲノムの解析ではっきりと遺伝子欠陥によるものということが判明しました。しかもこの遺伝子欠陥は、旧石器時代に日本人がまだ洞窟で暮していた頃にセットされた退化プログラムによるものということが、最近大学関係者の研究で明らかにされています。」
それを聞いた瞬間、誠の手からポロリと箸が床に滑り落ちた。「遺伝性緑内障患者の産児制限に関する答申」、一ヶ月前に眼科部長室で見せられたあのレポートが誠の脳裏に過ぎった。あれからわずか一ヶ月、しかもこんな形でテレビ報道されるとは全く予想だにしていなかった。
「これからは忙しくなるぞ。」という教授の言葉の意味がようやく飲み込めた。放たれた矢はどこまでも一人で飛んでいく。人から人、マスコミからマスコミへと誠の論文はどんどん拡散していったのである。
傍らでは、真由も、いや真由だけではない、その場に居合わせた全ての人が呆然としてニュースに聞き入っていた。
「それで、産児制限というのは具体的にはどういう形で行われるのでしょうか。」
「具体的プランはまだ決まっていません。ただ関係者の話によりますと、現に緑内障を発症している患者に限らず、これから子供を作ろうとする全ての夫婦にDNA検査を義務付けるような内容になるとのことです。つまり子供を作ろうとする夫婦は、まずDNA検査を受けて、緑内障を発症させるような遺伝子欠陥がないという証明を医師から受けなければならなくなります。」
解説委員の口からは驚愕するような内容の言葉が次々と発せられた。放心状態の真由はまだ事の次第がはっきり呑み込めていなかった。ただ、自分のような病気持ちにはもう子供が産めなくなるんだろうということだけは、漠然と理解できた。
しかし、なぜ政府はこのような恐ろしいことを考えるのであろうか。真由にはその真の狙いがまだ理解できないでいた。その疑問に答えるかのようにテレビの解説は続けられる。
「小島さん、政府が敢えてこのような決定を下した狙いはどこにあるのでしょうか。」
「医療審議会の答申では、盛んに欠陥遺伝子の排除という言葉が使われています。つまり遺伝病というのは欠陥のある遺伝子が修復されない限り、親から子へ、子から孫へと受け継がれてゆきます。欠陥遺伝子の持ち主が正常な人と結婚した場合、その子供には欠陥のある形質が優性的に遺伝します。どこかでこのサイクルを断ち切らない限り欠陥遺伝子は限りなく日本人の間に拡散していきます。そして何世代か先には欠陥遺伝子は取り返しのつかないほど日本全体を覆い尽くす可能性があります。
世代を超えた伝染病と言えば分かりやすいでしょうか。伝染病の根本治療が出来ない以上、予防的にその保菌者を排除していかなければならない。今回の政府の決定の背景には、こうした考え方があったようです。」
「小島解説委員に聞きました。このニュースにつきましては今夜十時からの「論点」でも改めて詳しくお伝えする予定です。では次のニュースです。」
画面が切り替わり、別のニュースがアナウンスされ始めた。長いため息とともに、それまで水を打ったように静まり返っていた食堂から、一斉にざわめき声が聞こえ始めた。
「えらいことになった。政府はとうとうパンドラの箱を開けてしまった。」
「倫理の点から、こんなことが許されるはずがない。非常識極まりない。」
「我が国の緑内障の実態がここまでひどいとは……。」
ある者は声高に、そしてある者はひそひそ声で、同じテーブルに居合わせた人々の間で議論が始った。真由と誠は押し黙ったまま、そうした議論の声を聞いていた。長い長い沈黙を破ったのは、誠の方であった。
「申し訳ない。僕があんな論文を書いたために、こんなことに。実は一ケ月前のあの日、眼科部長からこの答申が出ることを聞かされていたんだ。それも知らない間に僕の論文が医療審議会の答申に引用されて、それで……。」
誠は、自らの犯した事の重大さをまだ咀嚼しきれず、その先の言葉を失った。真由はそれを聞いて大変驚いた。つい三ヶ月ほど前に誠から聞かされたあの恐ろしい話、日本人の緑内障遺伝子が一万年も前から脈々と受け継がれてきた、そして日本人の間に数え切れない程の緑内障予備軍がいる、というあの話がこうした形で世の中に出てくるとは、思ってもみなかったのである。
「いいえ、誠さんが悪いわけではないわ。誠さんは立派な研究をされたのよ。それを、それを、こんなことに利用するなんて……、ひどすぎる。」
真由の目からはみるみる涙が溢れ出し、最後のところは言葉にならなかった。
「とにかく、まだ法律で決まったわけでもないし、こんな馬鹿げた話が絶対通るはずはない。僕は断固として反対していく。」
真由はそうした誠の力強い言葉に頼もしさを感じると同時に、心の片隅に湧き起こる一抹の不安を禁じ得なかった。
同日、夜十時。NHKの討論番組「論点」が始った。真由は自宅のアパートでその模様に見入っていた。
「皆さんこんばんは。今夜は今日の午前中に発表されました「遺伝性緑内障患者の産児制限に関する答申」について、関係者のご意見を伺ってゆきます。最初に今日のパネリストをご紹介致します。まずは、厚生労働大臣海野繁治さん。」
司会者の声に促されるように、厚生労働大臣は深々と頭を下げた。
「次いで、医療審議会委員長(兼東京大学名誉教授)の小山田重人さん、遺伝学者角田和彦さん、全国身体障害者協会会長今井進さん、そして作家の林義彦さん。」
自らの名前を読み上げられたパネリストは、順々にカメラに向ってゆっくりと一礼していく。一通りパネリストの紹介を終えた司会者は、まず厚生労働大臣に矛先を向けた。
「大臣、まず最初にこの思い切った決定をされた背景についてご説明頂けますでしょうか。」
緊張した面持ちで腕組みをしていた厚生労働大臣は、徐に腕組みを解くと口を開いた。
「まず誤解がないように最初に申し上げておきますと、今回の決定は決して障害者を差別しようというものでもなければ、人権をないがしろにしようというものでもありません。純粋に遺伝学的に判断して我が国の将来を考えた場合、こうするように他に道がなかったということを改めて申し上げておきます。」
大臣は批判を恐れてか、最初から極めて慎重に言葉を選びながら説明を続ける。
「私も最初は医療審議会の報告を読んで愕然としました。緑内障遺伝子が知らず知らずの内に数多くの日本人の身体を虫食んでいたのです。それも百人や千人なんていう数字ではありません。数百万いや一千万という患者数です。これだけの人がしかもかなり若いうちに失明するとしたら日本は一体どうなると皆さん思われますか。
政府もいろいろな試算を試みてみました。まず、すべての社会的インフラ、道路も鉄道も住宅も何もかもです、これらを全て障害者仕様に切り替えてゆかなければなりません。その費用は少なく見積もっても百兆円、こんな費用は今の日本の財政では到底負担しきれません。
そればかりか、医療費も高度障害治療やメンタルケアのために今の数倍の支出が予想されます。国民医療保険はたちまち破綻します。さらに障害者の数が大幅に増えることで、我が国の労働生産性は大きく低下し、我が国の経済は壊滅的打撃を受けるでしょう。」
真由は、いや真由だけではない日本国民は、今ようやくこの恐ろしい判断の背景に潜む事の重大性を知らされた。日本人の十人に一人が失明したとしたら一体何が起きるのか。一般人には想像すら出来ない深刻な事態が待ち受けているのである。しかし、この後厚生労働大臣はさらに身の毛のよだつ話を続けた。
「しかし、私達がもっとも恐れているのは、この緑内障遺伝子がどこまで拡散するかということです。緑内障遺伝子の保持者が健常者と結婚し子供をもうけた場合、その人が緑内障を発病していようがいまいが、その遺伝子は確実に子供に受け継がれます。このまま何もしないでいると私達の孫の時代には日本国民の実に半分が緑内障遺伝子の保持者になっている可能性すらあります。
そしてその時までに緑内障の根本治療法が確立していなければ、その遺伝子はさらに日本国民を虫食み続けることになりかねません。こうなるともう日本国の存立すら危うくなります。」
真由は全身の毛穴が固く閉じていくのを感じた。今何百万人という人々が真由と同じような思いでこの番組を見ているはずであった。厚生労働大臣の話が終わった後、しばらくスタジオは重苦しい沈黙が漂った。
「だ、大臣、どうもありがとうございました。今回の政府の決定の背景にはこのような恐ろしい事実があったということですが……。今井さん、如何でしょう。」
全国身体障害者協会の今井会長はムッとした表情で話し始めた。
「障害者を愚弄するのもいい加減にしろと言いたくなるような話ですね、これは。障害者の皆さんだって立派に生きています。いえ中には健常者に負けない位、社会に貢献しておられる方々もたくさんおられます。そうしたことを無視して障害者とその子供の生きる権利を最初から剥奪しようとする発想自体がもう異常としか思えません。私達は断固としてこの法案成立には反対していくつもりです。」
会長のテンションはかなり高まっており、デスクから身を乗り出して今にも食って掛かりそうな剣幕であった。
「あっ、有り難うございました。では、続いて遺伝学者の角田さん。如何でしょう。」
立派なあごひげを置いたその人物は、日焼けした額に汗を光らせながら、話し始めた。
「私は、最初にこの話を伺いました時、とうとう人間も来るべきところまで来たと思いました。ダーウィンが初めて進化論を発表した時、環境変化に適応できない種は淘汰されていくと論じました。現にこの地球上で、毎年何百、何千という動物、植物の種が消えてなくなっています。今回の件は、人間だけは例外だと思い込んでいた人類に大きな警鐘を鳴らす出来事として、深く進化論の歴史に刻まれる事件になるでしょう。人間だけが進化論から自由であり続けることは出来ないと私は考えます。」
これに対し、先ほどの障害者協会の会長が噛み付いた。
「先生、それは弱者が淘汰されるのは仕方がない、とこういうことですな。」
「いいえ、何もそこまで言うつもりはありません。私は遺伝学者の立場から持論を申し上げているわけです。実際アフリカのサバンナで群れを作って暮す象は、怪我や病気で群れについて行けなくなった仲間を見捨てます。いえ正確には問題のある象が自ら群れを去るのです。生存競争の厳しいサバンナではちょっとした遅れが群れ全体の死活に係わります。種を守るため動物達は本能的に弱者を排除しているのです。私は人間だけは違うという考え方は、人間の奢りだと思うのです。」
これを聞いて、今井会長はムッとしてそっぽを向いてしまった。険悪になった場のムードを変えようと、司会者は小説家の林氏の意見を求めた。
「小説家の林先生。先生は人間が「生きる」ということをテーマに数多くの著書を出されておられますが、今回の政府の決定を如何受け止めておられますでしょうか。」
「私は、人間にはやはり金や道理では測れない何かがあると信じています。そうした可能性を自らの手で摘み取っていくことにはやはり賛成できません。今の世の中は全てが五体満足という前提に成り立っています。ほら、現実に今皆さんがご覧になっているテレビ。これは目が見えて、耳が聞こえるということが前提となって成り立っています。それは五体満足な人間がこの世のマジョリティーを握っているからそうなるのです。
もし目の不自由な人間が世の中のマジョリティーであれば、ラジオがもっと一般的なメディアとして発達していたでしょう。同じように、交通機関も、教育制度も、職場も家庭も全てまったく違った基準をベースとして発達して来たに違いありません。そういう社会では、むしろ五体満足な人間こそが障害者となるのです。」
五体満足な人間が障害者?。この逆転の発想に場に居合わせた人々は唖然とした。確かにこの世の中は何もかもが多数決で成り立っている。少数者は常に弱者として迫害され、取り残されてきた。しかし、その少数者が多数者になれば世の中も変わるかもしれない。全てのパネリストは次の意見が出せずに押し黙ったままとなった。そんな中で一人、今井会長だけが満足気に頷いていた。
討論はさらに続いていく風であったが、真由にはもう十分であった。障害者を差別してはならない。当たり前のことのように言われてきたことが、日本国の存立に関るという理屈の前でいとも簡単に覆されたことで、真由は人間不信に陥っていた。テレビのスイッチをオフにした真由は、床の中で眠れぬ一夜を過ごした。いつまでも溢れ出る涙で、枕だけが一晩中乾くことはなかった。
「確かこの辺りのはずだか。」
誠は地図を片手に産寧坂を行ったり来たりした。このところ半月ばかりトレーニングを休んでいる真由のことが気掛かりになって、真由の工房を訪ねようとしていた。それまで週二回欠かさずトレーニングに通っていた真由にしては異例のことであった。
真夏の太陽がジリジリと照り付ける昼下がり、さすがの観光客の姿もまばらとなり、産寧坂には陽炎がゆらゆらとしていた。
一頻り探し回った果てに、誠はようやく目的の「山村工房」を見つけた。山村工房は産寧坂から少し入った袋小路の奥にあった。
昔風の引き戸を開けて敷居をまたぐと、そこはもう仕事場であった。六畳ほどの板間には所狭しとばかり下絵の描かれた清水焼の飾り皿が並べられ、ランニングシャツ姿の職人風の男が真剣な眼差しで絵筆を走らせていた。古ぼけた扇風機が蒸し風呂のような室内の空気をかき混ぜていた。
「あのー。関口真由さんはこちらでしょうか。」
誠の声に筆を止めたその男は、眼鏡越しにじろりと誠を見ると、無愛想に応えた。
「どちらさんかいな。」
「真由さんの友人の林田誠と言いますが。」
「林田?、ひょっとして、あんさんが真由の目のお医者さんどすか。話しはいつもあの子からよう聞いとります。えらいお世話になっておりますそうで。」
気難しそうな職人の顔に笑みが漏れたのを見て、誠はとりあえずほっとした。
「それで真由さんは、いますでしょうか。」
男は誠の質問に答える代わりに、まずは座れとばかりに座布団を差出した。
「先生、あの子の目はもうあきませんのやろか。この頃、目の見え具合が悪いのかめっきり絵の質が落ちてましてなー。あの子自身も分かってますねんやろ。このところ塞ぎ込んでましてな。」
誠はようやく真由がトレーニングを休んでいる理由が分かった。病気の進行が既に真由の絵付けの仕事にまで影響を及ぼし始めていたのである。
「焼き物の絵付けはこう見えましても結構目先の細かい仕事でしてなー。私らみたいな歳になると手先が狂うて奇麗に仕上がりませんのや。あの子が初めて弟子入りしたい言うて来てくれた時は、正直うれしかったですわ。後を継いでくれる者が出来たと思いましたわ。最近の若いもんは、こういう根気のいる仕事はせーしまへん。それが、突然緑内障や言うて……。」
そこまで話すと、男は言葉を失って声を詰まらせた。しばらく重苦しい沈黙が続いた後、男は再び徐に口を開いた。
「あの子は近江の信楽焼きの里の出でしてなー。小さい時からよう親の手伝いをしとったんでっしゃろ。うちに来た時は、もう私らが教えることあらへんほど筆達者でおました。何でも両親を早うに亡くしたらしいて、目の不自由なおばあちゃんに育てられたて言うてましたわ。ほんま惜しいなー。なんであんなええ子がけったいな病気にならなあかんねんやろ。本人ももう書かれへん言うてえらい悩んどりますわ。この頃はかわいそうで見てられませんわ。」
男がそこまで話した時、奥の方でガシャーン、ガシャーンと焼き物の割れる音がし始めた。誠は、男に促されるように暖簾を分けて奥の部屋と進んだ。
京都に特有のうなぎの寝床のような造りとなった工房は、表からは想像も付かないほど奥行きがあった。素焼きの皿がうず高く積まれた小部屋を二つ三つ通り過ぎて行くと、やがて誠の足はハタと止まった。
薄汚れた蛍光燈の下で一枚一枚皿を割り続ける真由の背中が見えた。後姿を見ただけで、誠には真由が泣いていると分かった。誠は後ろからそっと近付くと、振り上げた真由の手首をしっかりと掴んだ。
「真由さん、もういい。やめるんだ。」
「放して、手を放して。ダメなの。もう描けないわ。何かもおしまいよ。おしまい……。」
真由は抑えられた手を振りほどこうとしてもがいたが、やがてそれが無理と知るやその場に突っ伏してワッと泣き崩れた。
誠は、真由の手で粉々に打ち砕かれた素焼きの皿の破片をかき集めて、ジグソーパズルのように並べ始めた。一つまた一つ手にとっては組み合わせていく。やがて淡い緑と燃えるような朱に塗られた一輪のカキツバタの絵が現れた。本来ならさらに上薬を塗られ、釜で焼かれるはずであった皿は、今誠の前で無残な姿を晒していた。
素人目にはどこが問題なの全く分からない出来栄えであった。しかし、そんな絵も真由の目からすれば失敗作なのであろう。真由はこの二週間こんなことを繰り返していたのであろう。それでトレーニングにも来なかったのだと、誠は思った。
「真由さん、君は間違っている。」
誠は、泣き腫らした真由の目を正視して、呟いた。
「どんな失敗作でも、この皿は皆生きているんだ。君がその命を吹き込んだんだ。それを自らの手で壊すなんて、僕には賛成できないな。」
「素人には分からないのよ。こんなもの、恥ずかしくて人前には出せないわ。」
真由は激しく抵抗した。一流の芸術家を目指すものは妥協を許さない。何百枚、何千枚と描いて、その内の一枚だけを取り上げる。今の真由にとっては、そうした芸術作品どころか普通の飾り皿ですら描くのが難しくなり始めていた。しかし、誠はひるまなかった。
「そうだろうか。どんな欠陥があろうとも、これも立派な作品だ。百パーセント完璧なものなんてこの世には何もないはずだよ。神様だって作り間違いをするんだから。」
「神様も?」
真由は泣き腫らした目をそっと上げた。
「そう、神様も。ほら、僕や君の目、これは神様が作り間違いをしたんだよ。」
神様も作り間違いをする?。その一言に真由は、思わず誠の顔を見詰め直した。
「そうだろう。小さな欠陥を理由にしてお皿を壊す、それって遺伝子に欠陥のある人を排除しようとすることと同じじゃないか。」
真由は、誠の顔を凝視したまま、しばらく呆然としていた。
「ご、ごめん、ごめんなさい。私ったら、本当に、ごめんなさ…」
その後は言葉にならなかった。真由の頬にはあらためて幾筋もの涙が溢れ出た。真由は目の前に山と積まれた皿のかけらを一つ一ついとおしむように拾い上げると、手の平の中に固く握り締めた。その手の甲に、頬を伝った滴が一つまた一つと落ちていった。
三ヶ月後、衆院本会議場。
「賛成二百四十、反対二百三十二、棄権八、遺伝性緑内障患者の産児制限に関する法案は賛成多数で可決されました。」
採決結果を読み上げる議長の声が本会議場に響き渡る中、パラパラという拍手に混じって怒声が飛び交うのが聞こえた。
「ご覧の通り、世界の悪法と言われた遺伝性緑内障患者の産児制限に関する法案が今僅差で可決されました。医療審議会の答申の発表以来わずか三ヶ月、この異例の早い法案成立に今の日本の置かれた深刻な状況が伺えます。
遺伝子診断による産児制限という世界でも前例を見ない法律が成立したこの瞬間を何百万、いや何千万の日本国民が目撃したでしょうか。国家の存立のためにはやむを得ないとはいえ、この苦渋の決断を迫られた国会議員達も冴えない表情で議場を後にし始めました。
この法律が私たちの日常生活にどのような影響を及ぼすのか、そして私たちは本当に正しい決断をしたのか、その答えはずっと後の私たちの子孫にしか知ることが出来ないのかもしれません。以上、衆院本会議場からのレポートでした。」
法案成立の模様を伝えるレポーターの昂奮した声がテレビを通じて流れてくる。
「ああ、やっぱりダメだったか。」
病院のレストランには重く長い嘆息の声かあちこちから上がった。この瞬間、トレーニングを終えた真由はいつものように病院のレストランで昼食を摂っていた。
誠は、今日は緊急会議のために同席はしていなかった。恐らく法案成立後のことを話し合う会議がもたれているのであろう。今回の法案作成に少なからず影響を与えることになってしまった誠は、今どのような思いでこの瞬間を迎えたのであろうか。
一方の真由はというと、自分でも不思議なほど落着いてこの瞬間に立ち会っていた。誠から事前にいろいろ聞かされて半ば諦めていたこともあるが、まだこの法律が日本国民の将来にどのような影響を及ぼすのか測りかねていた。レストランの中はお昼時というのにシーンと静まり返ったまま重苦しい空気に包まれ、時折すすり泣く声が聞こえてきた。
とその時。
「理香、どうしたの。」
真由の耳に、どこかで聞き覚えのある声が伝わってきた。見ればトレーニングルームで知り合った緑内障患者の女性が、五つ位の女の子と一緒に壁際のテーブルに座っていた。この女性も十年ほど前、若年性緑内障を患い、今ではすっかり白杖の必要なところまで進行していた。
「どうかされましたか。」
真由は、そっと隣の椅子に座りながら、声を掛けた。
「その声は真由さん?。」
目が不自由になると聴覚が鋭敏になる。この女性も真由の声を聞いただけで本人と聞き分けたようであった。
「ええ、真由です。こちらの女の子は?。」
「長女です。理香っていいます。」
「お子さんがいらっしゃるなんて存じませんでした。へえー、理香ちゃんって言うんだ。理香ちゃんはいくつかなー。」
真由は、顔一杯の笑顔を作って、その女の子の顔を覗き込んだ。女の子は少しはにかむように母親の後ろに姿を隠した。
「ほら、理香。ごあいさつは。」
母親に背中を押されたその幼子は、黙ったままコクリと頷いた。
「仕様がない子ね。いつもは幼稚園に送って行ってからトレーニングに来ていましたので。でもこのところ、どういう訳か幼稚園に行くのを嫌がって。それで今日は仕方なく一緒に連れて来たんです。」
母親は心配そうに子供の頭を撫でながら話した。
「理香ちゃん、どうして幼稚園に行かないのかなー。楽しいお遊戯もあるんでしょう。」
真由は、何とか子供の心を開こうと試みるが、理香はますます小さく固く身を縮めるばかりであった。
「子供には子供なりの理由があるんでしょうけど。何分この身体じゃ、見に行ってやるわけにもゆかないし。幼稚園の先生に聞いても思い当たるふしはないって……。」
母親は不安の色を隠せずに呟いた。
「もしよろしければ、私が一度お連れしましょうか。何か分かるかもしれないし。」
真由は、咄嗟に理香の送迎を申し出た。
「そっ、そんな。とんでもない。」
「いいえ、いいんです。遠慮されないで。家もそう遠くじゃありませんし。ほーら、理香ちゃん、今度はお姉ちゃんと一緒に幼稚園行こうか。」
真由は椅子から立ってしゃがみ込むと、理香の手をとった。
「やだ。」
そんな真由の手を振り払うように、理香はテーブルの下に隠れてしまった。
「すみません。我が侭な子で。ほら、理香ったら。」
「いいんです。じゃあ明日九時にお迎えに上がりますから。」
真由は、理香の同意もないまま強引に約束した。母親は杖を頼りに立ち上がると何度もお礼をしていた。
翌朝。
「確かこの辺りのはずだけど。」
真由は、住所録を片手に住宅街の中をウロウロした。新興住宅街は似たような家が数多く建ち並んでおり、その中の一軒を探し出すのは意外と難しかった。ようやく表札を見つけた真由は、その中に「理香」の名があるのを確認すると、呼び鈴を押した。しばらくしてガチャリとドアの開く音がして、中から背中を押されるように理香が出て来た。
「すみません、わざわざ来て頂きまして。」
理香はピンク色の幼稚園の制服を身につけ、黄色い帽子をかぶっていた。今にも泣き出しそうな神経質な表情をした理香は、母親の後ろにそっと身を隠した。
「さあ理香ちゃん行きましょうか。お姉ちゃんが手つないだげる。」
理香は真由の手を払い除けるようにさらに身を縮めた。
「理香、我が侭言わないの。折角真由お姉さん来て下さってるんだから。」
母親の声に促されるようにしぶしぶ小さな手を差出した理香は、覚悟を決めるように真由に付き従った。
「カワイイ制服ね。理香ちゃんは何組かしら。」
真由は、理香の手を引きながらゆっくりと歩いた。しかし、理香は真由の質問にも心を開くことなく、黙って歩いていた。何かに脅えるように真由の手を握り締めた理香の指が子供とは思えないくらいの強い力で真由の手の平に食い込んだ。かわいそうに、一体何がこの子をこんなに脅えさせているのだろう、幼稚園が近付くにつれ真由自身の身体も強ばり始めた。
あと百メートル程で幼稚園という所まで来た時、反対側の道からグリーンの制服を着た三人の男の子がこちらに向って来るのが見えた。その時、理香はすっと真由の後ろに身を隠した。真由がおやっと思う間もなく、男の子達が近付いてきた。
「あれー。誰や、このおばちゃんは?。」
「今日は、盲の母ちゃんはどないしたんや。」
真由の後ろに隠れた理香を探すかのように、その子達は二人を取り囲んだ。真由がどうしていいのか解らないまま立ちすくんでいると、やがて三人の合唱が始った。
「お前の母ちゃん盲、お前もいつかは盲。お前の母ちゃん盲、お前もいつかは盲。」
まるで囃子歌のように抑揚を付けて、三人は何度も何度も執拗に理香の耳元で歌い続けた。すっかり脅えついた理香は、真由の足に必死にしがみついていた。呆然として立ちすくんでいた真由は、やがて割れんばかりの声で叫んだ。
「何てこと言うの、この子達は。一体あなたたち……。」
真由が拳を上げようとしたその瞬間、ワーという声とともに三人組みは幼稚園の方に走り去った。真由はこの瞬間、理香の登園拒否の理由が分かった。かわいそうに、この幼子は毎日このようないじめにじっと耐えていたのである。幼心にも目の不自由な母親を気遣って、自分一人の胸のうちに仕舞い込んでいたのである。
あの三人の男の子は、毎日白杖を片手に理香を送り迎えする母親の姿を見ていたのであろう。そしてテレビであるいは親が話すのを聞いて、緑内障という怖い病気が親から子へと遺伝することを知らず知らずのうちに脳裏に焼き付けていったのであろう。世の中の鬱屈したムードが子供の心までも虫食み始めていた。しかし、子供はまだ正直である。思ったことをすぐに口に出してしまう。一方の大人達はどうか。表向きは同情するような気の毒顔をして見せても、心の内にはあの子供達と同じように鬼を棲まわせているのかもしれない。障害者に対する迫害は既に始っていたのである。
放心状態になってそんなことをつらつら考えていた真由の隙を付いて、理香は家の方に向って一目散に駆け出した。
「理香ちゃん、あっ、ちょっと待って。」
真由は理香の後を追って駆け出した。家の手前でようやく理香の肩を捉えた真由に、理香はしがみつくようにして泣き始めた。かわいそうに、小さな身体は小刻みに震え、顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。真由の口にもう言葉はなかった。真由はそっと理香の手を握って家の方へと向った。しかし、真由にはまだ大変つらい役回りが残っていた。
「そうですか、そんなことが。あの子ったら私に心配をかけまいとして、それで、それで……。」
理香の母親は肩を打ち震わせて、ポロポロと大粒の涙を落とした。障害者に対してその障害のことを告げなくてはならないことほど非情なものはない。真由は何といって慰めていいのか言葉を忘れて、ただひたすら悲しみを共にした。
三 挑戦
本能寺境内。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなーりー。一度生を得て滅せぬもののあるべきかー。」
物悲しい鼓と笛の音に合わせて、シテ方の見事な舞いが続いてた。本能寺にある能舞台では、毎年夏になるとこの場所で明智光秀との戦いに敗れて自害した織田信長がこよなく愛したと言われる能楽「敦盛」が演じられた。
能舞台の前で焚かれるかがり火のわずかな光に照らされて、一層優雅な雰囲気が醸し出されていた。舞台前は咳払いをするのも憚られるほどピーンと張り詰めた空気が満ち、シューという絹の衣装の擦れる音までが耳に届いた。やがて舞いを終えたシテ方が静々と橋懸かりを下がっていく。静かだった場内に拍手が沸き起こり、終演を迎えた。観客は舞台の余韻を楽しむかのようにパラパラと席を立ち始めた。
「能の精神は般若心経に通じるものがあるそうです。」
誠は、舞台正面を見据えたままようやく口を開いた。
「般若心経?、ですか。」
真由は思わず聞き返した。
「そう、般若心経。仏教の基本の基本の教えです。この世は一切が「空」すなわち本来は何も存在していない、従って物事に一々拘ってはいけないという釈迦の教えです。」
「何か難しそうな、お話ですね。」
真由も般若心経という言葉くらいは耳にしたことはあったが、それがどういう教えなのかは全く知らなかった。
「能が生れたのは今から六百年くらい前、室町時代のことです。世の中は乱れに乱れ、人々は明日をも知れぬ中で暮していました。そうした人々の心の支えになったのが諸行無常を説く仏教だったのでしょうね。世阿弥はきっとこの世の地獄を見たのでしょう。そしてこのような素晴らしい芸術が生み出されたのかもしれない。」
真由は誠の説明に逐一頷きながら聞いていたが、まだ大きな疑問があった。誠は一体なぜ能なんかに興味を持つようになったのだろう。今の世にはありとあらゆる芸術や文化が満ち溢れている。どちらかというと退屈そうな古典芸能のどこにそんなに惹かれたのだろうか。
真由がそんなことを考えている間にも、観客の列が引いて二人もそれに付き従って本能寺の門前へと出た。外は既に真っ暗になり、上りはじめた月が寺の本堂の大屋根に掛かっていた。
「大分涼しくなりましたね、少し歩きましょうか。」
誠はそう言うと、そっと右手を差出した。真由は遠慮がちに左手を差し伸べ、誠の手を取った。トレーニングを通じてかなり親しくなってはいたものの、こうして誠の手を握るのは初めてであった。誠は真由の手を取ると、河原町を過ぎ鴨川縁へと歩みを進めた。
「私が能楽に興味を持ちはじめたのは三年前のことでした。担当した患者さんに能楽師の方がいらっしゃいまして。確か翔応流の宗家の方とか。やはり緑内障を患っておられて、トレーニングに通って来られたんです。あの素晴らしい身のこなしは今でもはっきりと覚えています。その方は、能の極意は「無」の境地に至ることだとおっしゃっていました。全身全霊を無にすれば、身も心も空気のように軽くなり、あの狭い能舞台が無限の空間に変わるとね。」
人間は本当にそこまで変われるものなのであろうか、真由は不思議な気持ちで誠の話を聞いていた。
「それで、その方は今はどうされているのですか。」
「まだ現役で活躍されていますよ。もうほとんど見えていないはずなんですが。舞台に立つと全くそんな素振りは見られないし、今じゃ人間国宝の候補にも名が上がっているそうです。障害があるがゆえに健常者には到達できない奥深い芸術性を体得されたのでしょう。」
真由はますます驚いた。健常者には到達できない極致、そういう世界があること自体がまだ信じられなかった。
「私も不思議な気持ちで一杯でした。緑内障に苦しむ患者さんの姿を毎日毎日見ていた私は、医学の限界を感じ始めていました。あんなに苦労して勉強して医者になったのに、自分の病気すら治せない。情けなかった。苦しかった。そんな時、能との出会いがあったんです。あの方の力強い一言に、人間の無限の可能性を見たような気がしました。それから能の不思議な世界に魅せられていったのです。」
真由は今ようやく誠がなぜ能に興味を持つようになったのかを知った。頼もしく思えた誠も、実はもがき苦しみ、答えを求めて悶々としていたのだ。真由は温かく大きなものに包まれたような穏やかな気持ちになった。それが何なのかわからない。ひょっとすると、これが能の持つ魅力というものかもしれない、真由はそんなことを考えながら誠の手を握り締めていた。
道はいつしか三条大橋の近くになっていた。夜十時を過ぎると、この辺りはすっかり人通りも少なくなり、川面を渡ってくる夜風が暑い京都の夏に涼を与えていた。その時、突然誠が歩みを止めた。そして振り向きざまにはっきりと真由に告げた。
「真由さん、このままずっと僕の支えになってくれませんか。僕はこう見えても弱い人間です。本当は、見えなくなることがとても怖いんです。いつも張り詰めているようで、少しでも触るとこわれてしまうんじゃないかって気がして。あなたのような人に、しっかりと支えてもらいたいんです。」
真由は咄嗟のことで言葉を失った。予想だにしていなかった誠のプロポーズの言葉であった。二年前のあの最初の出会いの時のこと、そして一年前の再会の日のこと、そして辛かったトレーニングの日々、全てが走馬灯の如く真由の頭の中をぐるぐると駆け巡った。
あの絶望的な告知の瞬間以来、二度ありえないと思っていた至福の時が今真由の周囲に満ち溢れていた。真由は無言のまま誠の胸に飛び込んだ。真由の目には止め処もなく涙が溢れ、誠の襟元をしっとりと濡らした。時折遠くを行き交う車のヘッドライトだけが、しっかりと抱き合った二人の姿をいつまでも繰り返し映し出していた。
翌日、眼科部長室。
「林田君、困るなあこんなことをしてくれちゃ。」
眼科の高柳教授は不機嫌極まりない表情を浮かべていた。
「一体どういうつもりなんだ君は。これがどういうことかわかってんのか。」
教授の机の上には、産児制限法反対同盟の機関誌「心の眼」が置かれていた。医療審議会の答申の発表以来、全国緑内障患者友の会の下部組織として反対同盟が結成され、法案成立後も撤廃を求めて全国的な運動を展開していた。
誠はこの機関誌に寄せた原稿の中で、産児制限法がいかに愚策であるかについて意見を述べていた。遺伝子の欠陥を原因とする病気は緑内障だけではない。がん、痴呆、心臓病等、ありとあらゆる病気が大なり小なり遺伝子の欠陥により生じることは既にいろいろな研究で明らかにされていた。それを逐一産制法で排除していたのでは日本の人口はどこまで減り続けるか解らない。産制法はむしろ亡国の法律となりかねないのである。
誠はさらに原稿の最後で、重要なのは欠陥遺伝子の保持者を排除することではなく、病気の根本治療を目指して不断の努力を続けていくことにあると説いていた。誠のこの論文は、産制法成立の旗振り役を勤めてきた高柳教授と洛東大学医学部に対する挑戦状でもあった。
「とにかく、私は大恥を掻いた。いや私だけではない、本学の威信も著しく傷がついた。この責任は必ず取ってもらうからな。」
教授は威圧するような眼差しを誠に対して向けた。言われるまでもないことであった。誠の心は既に大学の外にあった。誠は平然と頭を下げると、無言のまま部長室を後にした。
福知山、誠の実家。
「ど、どういうことですか。」
六十過ぎの初老の女性は狼狽した様子で言葉を返した。林田節子、誠の母親である。早くに夫と死別した節子は、女手一つで誠と誠の妹の二人を育ててきた。林田家は福知山でも名の通った旧家で、男手がなくても特段食うには困るものでもなかったが、かねてより林田家に気兼ねしてきた節子は林田家の財産には一切手を付けず、自ら働きに出て生計を支えてきた。
十畳はあろうかと思われる大きな座敷には、節子を囲むように三人の男と二人の女が座っていた。節子は仏壇を背に先程から一時間以上も正座を崩さずに親戚一同の話にじっと聞き入っていた。節子を囲んでいたのは、亡き夫義一の兄弟とその嫁たちであった。
「節子さん、あんたには本当申し訳ないと思うんやが、わしらの立場も考えて欲しいんや。三郎んちの智子は来月見合いしよるし、泰彦んとこの義行君やったかいな、ええ縁談話が来とるそうや。それが、あんた、親戚に緑内障の人がおるなんて世間に聞こえてみいな、縁談も何もあったもんやないで。」
節子の義弟に当たる林田健二は一族を代表して深々と頭を下げていた。産児制限法が施行されて後、緑内障遺伝子の保持者を排除しようとする動きは日増しに強くなり始めていた。
日本人はなぜこうも因習深いのであろうか。田舎では、未だに縁談話を進める前には必ずといっていいほど聞き合せが行われる。誠と節子の存在は、林田家の親類縁者にとってまさに死活問題であった。
「林田家の血筋には緑内障の人はいてへん。わしらも遺伝子診断したけど、皆シロやった。ということは節子さん、あんたの筋や。あんたが林田家から籍抜いてくれたら皆大助かりなんや。もう一辺よう考えてくれへんか。お金のことやったら何も心配せんでええで。義一の遺産も全部あんたのもんやし……。」
健二は執拗に節子に対して林田家からの離籍を迫った。
「財産なんて、そんな……。私は、ここでこうやって義一さんの慰霊をお守りしているのが一番の幸せなんです。迷惑は掛けませんから……。」
節子はそう言うと、救いを求めるように仏壇の方を見やった。そこにはみずみずしい菊の花に並んで亡き夫の位牌が奉られていた。その時、健二の激昂の声がとんだ。
「かなん人やなあ。あんたが林田家におることが迷惑なんやて言うてんのに。ことの分からん人やな。ほんま義一もえらい人を嫁にしたもんや。」
健二は湯呑み茶碗を座敷机の上に叩き付けると席を立った。机の端からこぼれたお茶がポタポタと畳の上に落ちた。
「行くで。これ以上この人と話しても無駄や。」
健二は座布団を蹴飛ばしながら玄関へと向った。
「ほんま、節子さん、もう一回よう考えてなあ。」
残された親戚連中も代わる代わる席を立って、済まなさそうに声を掛けると部屋を後にした。全員がいなくなった後、閑散とした十畳の間から節子の号泣する声がいつまでも漏れ聞こえた。
「ねえ、誠さん。お母さまって、どんな方なの。」
真由は、また同じ質問を繰り返した。暑い夏の日もようやく西に傾き、街の家並みがセピア色に染まり始めた夕暮れ時、誠と真由は福知山の実家に着いた。
誠は真由のことはまだ節子にも話していなかった。もうすぐ目が見えなくなる、そんな人間のところにそれと知って嫁いでくる人など居ようはずもない。節子は恐らく誠が結婚するなどと針の先ほども思っていないに違いない。誠はいたずらっ子が隠し事を母親に打ち明けるかのように胸をときめかせていた。
「大丈夫。きっと君のことを気に入ると思うよ。」
「だといいけど。」
二人は手を取り合って林田家の門をくぐった。
「ただいまー、母さんいる?。」
誠は玄関先で大声で叫んだ。出て来た母親が真由の姿を見てどのような反応を示すか、それが楽しみで誠の胸の鼓動はさらに高まった。しかし、母親はなかなか迎えに出て来ない。いつもはいそいそと玄関先に出て来る人が、今日に限ってどうしたのであろうか。珍しく留守にしているのであろうか。それにしては玄関に鍵も掛けず、不用心である。誠は今一度声を上げて母親を呼んでみるが、返事がない。
仕方なく、誠は靴を脱ぎ捨てると玄関に上がった。真由も後に続いて上がると、跪いて靴を丁寧に並べた。誠と真由は家の奥へと廊下を進む。いつも母親がいるはずの十畳の間には人の気配はなく、呑みかけの湯呑み茶碗が六個、無造作に座敷机の上に並べられていた。しっかりと閉じられた障子には、真っ赤な夕日に照らされて庭の松の枝がシルエットとなって浮かび上がっていた。
「母さん、どこ?。」
誠は大きな屋敷の中をグルグル回って母親を探すがどこにもその姿がない。そうしている間にもどんどんと夕闇が迫ってくる。一体どこへ出かけているのであろうか。誠は勝手口の扉を開くと裏庭に出た。林田家は大きな旧家で、家の裏手には土蔵と納屋があった。その土蔵の陰で誠はようやく節子の後ろ姿を発見した。
「母さん、そんなところで何を……。」
誠が声を掛けるが、節子は誠の来訪に気付いていないのか、一心不乱に手を動かしている。後ろからそっと近付いて今一度声を掛けた。その声にようやく振り返った節子の顔を一瞥して、誠は跳び上がらんばかりに驚いた。そこにはいつもの優しい母親の顔はなく、髪は乱れ、目はぎょろりと充血し、鬼面のような形相が漂っていた。
しかし、誠がもっと驚いたのは、節子が手にしているものを見た瞬間であった。節子の手の中には、一本のロープがしっかりと握られていた。そのロープの端は間違いなく円形に結わえられていた。
「ま、誠?。」
節子は突然の来訪者に、まるで夢遊病者のような視線を投げかけた。誠は咄嗟に節子が何をしようとしていたのか悟って、心臓が凍りつきそうになった。
「母さん、何を馬鹿なことを……。」
誠はそう言うなり、節子の手からロープをむしり取った。節子は、空ろな目で自らの両の手を代わる代わる睨みつけると、ゆっくりとその視線を誠に向けた。ようやく我に返った節子は、誠の両手に顔を押し付けて号泣した。
「ひどい、何てひどいことを……。」
話を聞く真由の目にみるみる涙が溢れた。節子は二人を前にして、昼間の出来事を話した。誠は憤りを隠せない様子で、プルプルと拳を震わせた。幼い頃より「誠ちゃん、誠ちゃん」と言って可愛がってくれた叔父や叔母の顔が、今となっては鬼畜のように思えた。
叔父や叔母が悪い訳ではない。全ては「緑内障」という遺伝病のせいであった。こんな凄惨な目に遭っているのは節子だけではあるまい。恐らく日本全国にいる何万何十万という家で、今同じようなことが起きているはずであった。
「頼りない息子ですが、どうか宜しくお願いします。」
ようやく落ち着きを取り戻した節子は、真由を前にして深々と頭を下げた。
「いいえお母様、こちらこそ不束者ですが、よろしくお願いします。」
真由も慌てて畳に両手を突いた。
「本当に早まらずに良かった。本当、本当に夢のようです。三年前、誠が重い眼の病気を患ったといって帰って来た時は、すっかり気が動転してしまって。誠を結婚も出来ないような身体に産んでしまったことを何度も悔やみました。でもよかった、真由さんのような素敵な人に巡り会えて、本当に…。」
節子は涙声を詰まらせて、その先は言葉にならなかった。誠の病気が遺伝性のものであったと知って、節子はずっと負い目を感じていたようであった。人の親として、子供を五体満足に産んでやれなかったことを悔やんで、何日も仏前で過ごしたこともあった。そして、つい先程は死の淵までをも覗き込んでしまった。その誠が結婚する。節子の胸中は、まさに地獄から天国に上る心地であった。
「でもお母様、私も同じ病気でいつ見えなくなるか分からないんです。誠さんの支えになるどころか、重荷にすらなりかねないんです。」
真由は恐れずに、きっぱりと言った。
「大丈夫よ、真由さん。二人で力を合わせてゆけば、きっと幸福な家庭が築けるわ。きっと……。」
節子は両手で真由の手を握り締めると、力強く言い切った。老親の手は痩せてはいたが奇妙なほどに温かかった。そうかもしれない。それまで半信半疑であった真由の心も、節子の言葉にようやく結婚に対する自信が沸き始めた。
誠はというと、すぐ隣で満足そうに目を細めて二人の様子を見ていた。誠の心の中は、二人の結婚に快く賛成してくれた母への感謝の気持ちと、これまで心配を掛けてきた親に対してこの上ない孝行が出来たことへの満足感で満ち溢れていた。
翌日夕刻、誠と真由は京都に戻った。
「真由、本当にありがとう。母さんも君のことを気に入ったようだし。本当に何といっていいか……。」
誠がそう言いかけたその時、真由の視線が釘付けになった。
「あれ、あの人……。」
真由の視線の先に、その人影はあった。橋の欄干に両手を突いて下をじっと覗き見ている。薄暗がりでよくは分からないが、時折両手を合わせるようにぎこちなく動く様は、明らかに尋常ではなかった。
その人は二人の存在に気が付いていないようであったが、やがてゆっくりと欄干に足を掛けはじめた。自殺?。真由は反射的に駆け出した。誠も後を追う。間一髪のところで真由はその人影をゲットすると、折り重なるように歩道に倒れ込んだ。しかし、その人はすぐさま起き上がると再び欄干に手を掛けた。必死にすがりつこうとする真由の眼前を黒い影が駆け抜けた。次の瞬間、真由は誠の腕の中にしっかりと抱きかかえられた女性の姿を発見した。
「お願い、死なせて、放して。」
女性は誠の腕の中でもがいた。女性にしては恐ろしく力が強い。死を覚悟した者は普段考えられない力を出すものである。振り切られそうになる誠の脇から真由も改めてしがみついた。二人に羽交い締めにされ、流石に観念したらしく、女性はその場に崩れ落ちて泣き伏した。
真由と誠はようやくホッと一息ついて顔を見合わせた。街灯の薄明かりに照らし出されたこの女性は、年格好は三十過ぎ、いかにも育ちの良さそうな端正な顔立ちからは「自殺」という言葉は到底想像できなかった。
「真由、手を貸してくれないか。」
誠はそう言うと、その女性を抱きかかえるように立ち上がらせた。
「一体どうするつもり。」
「こんな場所にこのまま放っても置けないし、とにかく僕のマンションまで運ぼう。」
幸い誠のマンションは鴨川べりのすぐ近くにあった。二人は女性が再び駆け出すことのないように両脇をしっかりと固めると、足早に誠のマンションに向った。女性もようやく落着いてきたのか、観念して二人に付き従った。
「すみません、すみませんでした。本当に……。」
俯いたまましばらく沈黙を続けていた女性は、やがて涙声で頭を何度も何度も下げた。三人は誠のマンションの一室で向き合ってソファに座った。
「一体、どうされたんですか。その若さで死のうなんて、余程のことがあったんでしょう。」
誠の問い掛けに、その人は一瞬ためらう様子を見せたが、やがて堰を切ったように話し始めた。
「私、もうすぐ目が見えなくなるんです。若年性の緑内障だとか。」
ああこの人もか…、誠と真由は思わず天井を仰いだ。
「ショックでした。何度もお医者さんを変えてみましたが結果は全て同じ。あと五年程で完全に失明するって。治療法もないとか。怖くて怖くて、神様にもお祈りしました。でももうどうにもならないと分かった時、自分でも知らない間にあそこに立っていました。」
そこまで話すと女性はわっと泣き伏した。真由は言葉を失って、ただ女性の肩に手を掛けるだけで精一杯であった。その時である。女性の顔がみるみる蒼ざめ、慌てて手にしたハンカチで口元を被った。
「どうかしましたか。大丈夫ですか。」
心配そうに覗き込む真由の傍らで、女性は苦しそうに顔を歪めた。どう見ても心理的な苦痛のようには見えなかった。もっと差し迫った何か、まさか薬?、再び真由の脳裏に緊張が走る。しかし、一方の誠はというと落着いた表情でポツリと尋ねた。
「あなた、ひょっとして……。」
「そうです、三ヶ月です。赤ちゃんが出来たって聞いた時は、夫と二人で本当に大喜びしました。結婚して三年なかなか子供が出来なくて。待ちに待った初めての子供でしたから。でもそれが悪夢の始まりでした。お医者様が、念のため緑内障遺伝子の検査をしておきましょうとおっしゃって……。」
そこで、女性は再び涙で声を詰まらせた。その後、真由も誠も予想だにしていなかった世にも恐ろしい言葉がこの女性の口から発せられた。
「お医者様は中絶しましょうって。このまま産めば産児制限法に引っかかって罪になります、どの道目が見えなくなれば子育てどころじゃなくなりますよって。」
茫然自失、真由と誠は一瞬にして言葉を失ってしまった。人は誰でも失明すると言われただけで大変なショックを受ける。それに追い討ちを掛けるように、子供の中絶を促すなど、温かい血の通った人間のすることではなかった。ましてや人の命を預かる医者の言葉とは到底思えなかった。
「お医者様から、何故子供を作る前に遺伝子検査を受けなかったのかって言われました。今じゃ常識だって。でも私、まさか自分がそんなややこしい病気にかかると思ってもみなかったので……。」
そこまで話すと、女性は再びハンカチを口に当てて突っ伏した。
「ひどい、ひどすぎる……。」
真由は、女性の背中を擦りながら、絶句した。誠も怒りのために全身をワナワナと震わせた。
長い、長い沈黙が続いた後、誠はそっと立ち上がると、壁際に置かれていたデスクの引出の中を弄り始めた。やがて、何かの書類を手にして戻って来ると、誠は一心不乱に書類に何事かを記入し始めた。ボールペンを握る誠の手は怒りのために硬くなり、ペン先が折れんばかりにしなっている。
「申し遅れましたが、私は眼科の臨床研究医をやっています林田といいます。心配要りません。医師の診断書さえあれば子供は産めます。」
誠は、自信に満ちた口調ではっきりと話す。一体誠は何をしようというのか。心配そうに隣から覗き込む真由は、やがてその書類の表題を見て仰天した。そして、誠の恐ろしい発想に身震いを覚え始めた。
「誠さん、そ、それって……。」
真由が制するのを無視して、誠は「診断書」と表示された三枚複写の書類にペンを走らせていた。診断結果の欄には「NP(異常なし)」の二文字が自らを喧伝するかのように踊っていた。やがて書類を書き終えた誠は、右下隅「担当医師」とある欄に自らの署名をすると、力任せに次々と三枚の紙に判を押した。
「さあ、どうぞ。一枚目は出産のときに産婦人科医に、二枚目は出生届の際に市役所に、そして三枚目があなた自身の控えです。」
誠は書き終えたばかりの診断書を女性に手渡した。最初は何のことかわからずキョトンとしていた女性も、やがて誠の意図するところを汲み取るやいなや、ワナワナと手を震わせて泣き始めた。
「あっ、有り難うございます。あ、あ、……。」
その後は声にならなかった。
「いいえ、いいんです。生まれてくる子供に罪はありません。たとえ、どんな苦難が待ち受けていようと、その子は私たちの明日を担っていく大事な運命を背負っているのです。その芽を自ら摘み採ってしまってはいけません。」
誠はきっぱりと言い切った。紅潮した誠の横顔を見ていた真由の口にもう言葉はなかった。真由は誠の深い、深い優しさの一旦を垣間見たような気がした。と同時に、何ともいえぬ冷たい予感が背筋に走るのを覚えていた。