電車の中のラクガキ
通学時、電車の中で珍しいものを発見した。僕が座っているひとつ前の座席の目線の少し下。偽物の革で出来た部分に落書きがあるのだ。きっと女子高生が書いたものだろう。内容と殴り書きの雰囲気がそう示していた。
「ババアはうるさい、オヤジはくさいし」
いったいどんな女の子が書いたのか少し想像してみた。
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ある晴れた日の午後。少女は初めて学校をさぼった。十七年間、保ち続けた生真面目さを捨てたのはこれが初めてだった。思いつきで、遠くの町に行こうと思った。昔見た映画ではそうしていたからだ。移動手段は電車に決めた。レールの上を走っていくのが何となく自分と似ていたからだ。少女は一番安い切符を買って、最初に目が付いた電車に乗り込んだ。
なんてことのない平日の午後でも、机に向かっていないというだけで少女には非日常だった。一番後ろの車両、窓際の一人掛けの席は日差しがよく入る。光の射す窓を見つめ、ため息をついた。少女が非日常に迷い込んだのは両親の離婚問題が発端だった。そして少女には少女なりの見解があった。
「お母さんはお父さんの話を聞いてあげないし、お父さんはお母さんのことを気遣ってあげないし。だからうまくいかないんだよ」
電車の窓に映る町は別に教室から見える風景とあまり変わらない。そこには日常があるだけだ。流れていく景色をきっかけにいろいろなことが頭に浮かぶ。両親のこと、好きな人のこと、お金のこと、食べ物のこと、将来のこと、これから行く街のこと。不意に不真面目な同級生のことを思い出す。少女の友達のなかでも少し変わった人物。同級生の中でもはみ出し者の彼女だ。
そのとき少女と彼女は児童公園にいた。子供たちはもういない。ただ澄んだオレンジ色だけが見守っていた。高校生には窮屈なコンクリートでできた小さなトンネル。その遊具の中に隠れてタバコを吸う彼女。少女は家に帰って、あらぬ疑いをかけられないか不安に思った。そんな少女の気持ちには気が付かないよう彼女は言う。
「あたしこういうボロい公園って意外と嫌いじゃないんだよね」
不意に遊具を駆け抜ける風がタバコの煙を追い出した。少女はすこしほっとした。彼女は気にせず続ける。
「家はさ、親同士の折り合いが悪いから、ケンカが始まったらここに来るんだ。それで、タバコを吸いな
がら暇つぶしするわけ」
彼女は慣れた手つきでスクールバッグからサインペンを取り出した。少女は止めようと思ったが声を出す前には書き始めていたので黙っていることにした。
「ババアはうるさい、オヤジはくさいし」
コンクリートの曲面に浮かび上がった文字はいびつだった。
そこまで思い出した時にはあの時の彼女の気持ちになっていた。少女は少し大きく息を吸った。
「本当に書いちゃうのかな?」
「作法とかあるのかな?」
「この言葉でいいのかな?」
肺が満たされる間にいろいろと考えたが、覚悟を決めると前の座席に彼女の言葉を借りた。書き終わると丁度、次の駅についた。のどかな平日の午後に彼女を見咎めるものはいなかったが、彼女はすぐ荷物をまとめ逃げだした。少女がドアを抜けたとき、風には潮の香りが混じっていた。