「 」
東京の夜は綺麗だ、と思っていた。
建ち並ぶビルの明かり、そのひとつひとつに宿る生命の気配。夜を徹して生きる人間が灯火となって、世界を照らしている。
実際に自分がそのひとつになってみると、労力に見合わない対価に溜息を吐くばかりの毎日で、今夜も何時になったら帰途に着けるのかわからない。
それでも、わたしは自分で選んだこの街をそれなりに気に入っているし、この街で汗や涙を流しながら必死に生きている自分を嫌いじゃない。少なくとも、高校生だったあの頃よりは。
モラトリアムの蜜なんて吸う余裕もなく、単位の取得とアルバイトに追われる日々を経て、なんとか手に入れた「社会人」という立場。選挙権を手に入れて、納税の義務を負って、わたしは予想通りの「つまらない大人」になる、はずだった。
いや、普通に会社に勤めてはいるのだ。残業代のつかない残業や、同僚との諍いや、つまらない上司のつまらない冗談に埋もれそうになる日々。
そんな中、なんとなく手に取った音楽雑誌に妙な感銘を受けてしまったせいで、わたしは今夜も意味のない書類に目を通す合間を縫って、意味不明な文章を綴っている。
「音楽ライター、ねぇ」
自嘲したくもなるし、いっそ他人にも笑われたい。けれど残念なことに、旧くからのわたしの知人は目を輝かせるばかりだ。
今夜も中途半端な広さのオフィスでパソコンに向かい合う振りをするわたしは、スマホの検索画面に表示された最新の音楽に目を通すことに忙しい。イヤホンを繋げて、こっそりと片耳にメロディを運ぶ。
仕事なんて夜を徹したところで終わらないし、叱責されることにはすっかり慣れてしまった。
高橋くんからは、今も時々メールが届く。あの死にゆく町に残ってどうするのかと思ったら、
「ライブハウスを造ったよ」
誰が来るの、と問うと、
「これから捜すんだよ」
といった感じで、とても楽しそうだった。
結局、あの夜を契機にわたし達はそれぞれのルートを見つけてしまったらしい。痛い痛いあの夜のお陰で、悔しいけれど、今がとても楽しいよ。
あ、あとひとり、変わってしまったひとがいる。あの夜が切っ掛けなのかはわからないけれど。
東京の街にはもちろん、スマホの電波は届いている。ラジオのアプリをタップすれば、一瞬で最新の音楽を耳に運ぶことができる。
高校生だったわたしは、なんとか生き延びて大人になった。
アプリをタップして、どの局に繋げても、メリーホルダーは聴こえない。
最近流行っているのは、トーンの低い嗄れた声の変な名前の男が唄う、優しいラブソングだ。