「クリオネイル」(2)
〝愛を込めて咀嚼してね
骨まで全部 噛み砕いてね〟
メリーホルダー。メリーホルダー。メリーホルダー。
「メリーホルダー」
声にすると、耳に響く歌声が実体を伴った生命体であるように思えた。いや、歌っている人間は確実に存在しているのだけれど。おそらくは東京都内に。
東京都内。意味の無い四字熟語のようなそれを頭の中の黒板に記したら、小さな溜息が漏れた。慌てて消して、靄のような白い汚れだけが残った。関東と名乗るのが申し訳なくなるような町に住むわたしにとって、東京は遠い。特急電車で、なんて言えない無力な女子高生。アルバイトをする気力もなく、スカートを脱いで金銭を得ようとも思えず、いつか灰になる保護者の脛を少しずつ前歯で削り取っている。来春には地元の大学に進学して、まだまだ噛み付かせてもらうつもりだ。最低。
「さいてー」
天井に向かって手を伸ばしたけれど、声も手のひらも誰にも届かなかった。
視界の端で揺れるカーテンがスカートのようだと思うついでに、一時期の週刊誌を賑わせたミュージシャンの事件を思い出す。二十代半ばの男性ボーカリストが女子高生に手を出して無事逮捕。ありきたり過ぎてつまらない話だけれど、そのボーカリストの歌声がデビュー当時から神だの天使だのと持て囃されるレベルのものだったせいで、ファンの間ではその事件さえも「きっと純愛だったんだ」なんて言われている。くだらない、くだらないけれど、その時ひとつだけ思ったことがあった。
歌う人間と歌声が別の生命体だったらいいのに。声だけの生命体だったら女子高生をホテルに連れ込んだりなんてしないのに。神と呼ばれたミュージシャンがその後どうなったのかは知らないし、神という呼称を気に入っていたのかどうかもわからない。女子高生は無事に保護されたそうだ。
「保護」なんて絶滅危惧種のように扱われたくはない。自分自身さえ愛せないヤツだっているのに。
メリーホルダーにも、人間としての形があるんだよね。嫌だなぁ。顔を見るのも嫌だし、雑誌のインタビューなんかで何かを語っているのを読みたくもない。歌声と楽器の音だけが存在していればいい、それを生み出した過程なんて知りたくない。
思考がネガティブになってきたけれど、社会は個性を尊重する仕組みらしいから問題ないだろう。自分に価値があると思うことも、他人の意見を全否定することも、音楽を聴いて泣くことも、宿題を忘れることも、全て個性なのだから仕方ない。仕方ないはずなのに、尊重されるべきなのに、きっと明日もわたしは同じ教室の同じ机に座るのだ。みんなと同じ服を着て、同じ教科書を広げて、無個性な雑草のように丈だけが伸びていく。
アーリーは明日学校に来るだろうか。数日見ないだけで存在したことさえ忘れられるようなクラスメイト。わたしを友達のように扱ってくれたクラスメイト。あの子は少しわたしに似ている気がした。似ているから、同じにならないように、わたしは明日も決められた時間に目を覚ますのだ。
※
あの頃のわたしは酷く捻れていて、それでも自分は価値のある人間だとどこかで確信していた。自分にどんな才能があるのかを探している途中だなどと気取っては、流行の音楽や書籍を食い潰して過ごしていた猶予期間。脳内の黒板に残った靄が広がってわたしを包んでしまうまで、そう時間はかからなかった。
耳の中ではMCのトークと流行の音楽が交互に流れ続けていて、左右から挟み撃ちにされたわたしには、ぼやけたままの天井に手を伸ばすことしか出来ないままだった。そしてその時に、残念ながら音楽の才能はないことに気付いたのだ。生まれて初めて泣かされた曲のメロディーが、既に思い出せなくなっていた。