「クリオネイル」(1)
〝捕食しながら優しくするなんて
やめてよ やめてよ 醒めるから
無駄に綺麗な指先滑らせて
やらしく やらしく 君は笑った〟
あの時どうして泣いたのかは、今でもわからない。
田舎の町にもスマホの電波は届いていて、ラジオを聴けるアプリをタップすれば最新の音楽を耳に運ぶことが出来た。十八歳の高校生、つまり受験生だったわたしの話。
適当過ぎる部屋着をまとったわたしは、その夜もだらしなくベッドに寝そべって、千六百円の水色のイヤホンを耳に差し込んでいた。差し込んだまま抜けなくなれば好きなものだけを聴いて楽しく生きていけるのにね、とかそんなつまらないことを考えながら。
五月半ば、ちょっとだけ湿った空気。開けた窓の向こうから忍び込んでくる風が、青いカーテンを揺らしていた。
二十三時を回って、若者向け(わたし向け)の音楽番組の中のワンコーナーの時間になった。流行る兆しのある最新のアーティストを紹介する、という内容のコーナー。
いや、どうせ東京ではとっくに知られていて、ある程度売れることが決まっているアーティストのプロモーションみたいなもんなんでしょこれ、なんて思いながら、イヤホンに耳を任せる。
東京で結成された東京出身の男性バンド、率直で少しエロくてちょっと詩的な歌詞、そんな歌詞にそぐわないボーカルの綺麗な歌声も魅力的。用意された台本を自分の言葉のように口にして、いやぁボクはこういうの大好物ですよ、なんてわざとらしく笑うMC。
「いいから早く聴かせろよ」
半分閉じた口の中で誰にも聞こえない声を発して、ベッドに仰向けのわたしは右手でシーツをぎゅっとつまんだ。教育に失敗した母親が子供の耳をつねるみたいに。いつだって大人には子供を傷つける権利があるし、子供にはそれに逆らう義務がある。SNSのアカウントに鍵を掛ければ何を言っても許されるし、友達申請を無視したら生きていけないし、ネガティブな左手首には可愛いシュシュをつけてあげればいい。わたしは女子高生だから、正しいことを言わなくても誰かは優しくしてくれる。そしてわたしは、優しくしてくれるその誰かが大嫌いだ。
イントロが流れ始めてもMCは喋り続けて、イントロが終わる寸前に思い出したようにそのバンドを紹介した。
「6月にメジャーデビュー。メリーホルダーで〝クリオネイル〟」
音楽を聴いて泣いたのは初めてだった。
クリオネが食事をする時の醜さと、人間の性行為の愚かさを......などと、後に見た音楽雑誌では評されていたけれど、わたしには面倒くさい女目線のラブソングにしか思えなかった。思えなかった、はずなのに。
琴線に触れる、とか。雷に打たれたような、とか。今思えばその程度のものだったのかもしれない。当時のわたしは、わたしの中を満たして溢れそうなそれに名前をつけることを望まなかった。簡単な慣用句のような表現で、図書館の棚に収まる本のように処理したくはなかった。
初めて聴く知らない誰かの声に涙を浮かべる自分に驚いて、天井が歪んでいくのを止められないまま目を開いていた。頬を伝って、中途半端に伸ばした髪を少し濡らして、シーツに染みて。ダサいドラマのワンシーンみたいで吐き気がしたけれど、吐き出せないまま、わたしはその曲に酔っていた。
ほんの数年前の話だ。十八歳のわたしと、彼と、変な名前のあの人と、メリーホルダー。
わたしがどんな人間なのか、どれくらいの価値がある人間なのかを思い知らされた、痛くて痛くて痛いだけの、無性に剥がしたくなるかさぶたのような話。