3.旧感覚―準備
「んーー、あー」
海里は誰に遠慮するでもなく、大きな伸びをしてみせた。
いい天気だった。
久しぶりに空を見上げると雲一つなかった。ここ最近では珍しく太陽が雲間を気にすることなく、その顔をのぞかせている。
「で、どうしてこんなことに……」
海里は公園のベンチに腰掛けて、キョロキョロと辺りを見回してみる。
鳥をおいかけて走る男の子、ひなたぼっこをするご老人など、ちらほらと視線を送ってみるも、みな、にこにこと自分の生活を送っていた。
「はい、どうぞ」
海里の思考を、綺麗な声音が割って入る。
「あ、ども」
手渡された炭酸飲料のプルタブを起こして口につける。ごくごくと缶の半分は飲んでみせた。
「飲むの、早いですね」
微笑む新奈に、海里はうまく視線を合わせられないでいた。
炭酸が空腹の胃にささるが、言葉にするのはやめておいた。
「どうかしましたか?」
対して、新奈は清涼飲料水を一口だけ飲んで、にこにことしている。
「あ、いや、なんでもないです……」
もごもごと答えているが、一目瞭然。自宅まで送るために、若い女性が眠っているところを起こしにいったのだが、そいつが海里の平常心を奪っていた。
「私バカなんで、はっきり言ってくれないと――」
「マッタク、カンケイゴザイマセン」
卑下するような言葉ではあったが、新奈は笑顔で海里の次の言葉を待ってくれている。
「ああ、いや」
口だけをは動かしているが、次の言葉を紡げない。
いや、そもそも次の言葉など必要もなかった。
来た道を戻ってアパートに戻るだけの話だ。それなのに、どうしてか公園でのんびりと缶ジュースなどをすすっている二人の姿があった。
『平和だなぁ……』
海里はしみじみと思う。
公園の様子を見ていると、事件などなかったのではないかと思うほどのどかなものだった。
「よーし、よしよし」
のんびりしていることに海里は気が引けていたが、新奈はお構いなしに公園に入ったノラ犬をなでていた。
お腹を見せて撫でられるままにしている犬を見て、『ああ、羨ましい』と感じたことは自分の胸中だけにしまっておきたい。
「よしよし、て、ええ――」
犬の腹をなでていた新奈が、驚きの言葉をあげていた。
あまりにも撫でられる姿が気持ちよさそうに見えたのだろう。
いつの間にやら、彼女の周りには人だかり、もとい、犬だかりができていた。
どこから現れたのか、様々な犬種がしっぽを振って待機している。
その犬たちがしびれを切らしたと、一斉に新奈へと襲いかかる。
「ちょとまって、ちょっと待って――」
あれよあれよという間に犬の波にのまれていく新奈さん。
海里はこれまでに、犬に好かれる人間を何人か見てきていたが、これはそれを越えている。
「あっちゃー」
他人事のような言葉がついた。
一言漏らし終わる間に、新奈は犬に完全包囲されていた。
面倒なことは嫌いだと、普段からこぼす彼であったが、これは流石に動かざるを得ない。
「――止まれ」
キィン、と音が鳴るとともに、群がっていた犬たちが、海里へと視線を向け、その動きを止める。
「ぷは……」
犬の山をかきわけて、一息。新奈の視線は、ジッポの炎へと注がれている。
「ああ、これが俺の数少ない特技でね」
ジッポをポケットへと直しながら、動きを止めた犬の中心――新奈へと手を差し伸べる。
にっこりとほほ笑んで見せる彼を、新奈はきょとんと見つめ返していた。
「え、犬が動かなくなってる、すごい!」
遅れること数秒。何とも妙な光景が広がっていた。
新奈の感嘆の言葉を聴いては、海里は鼻を高くするしかない。
「自分では嫌っているのだけども、実家の方の力でね。犬には強いんだ」
よいしょ、と手を掴んで海里は犬山から新奈を引き抜いた。
「流石は魔女の僕ですね!」
ナンデスカ?
満面の笑みだし、関心してくれているし、言うことはない筈だ。
にも関わらず『僕』という言葉がどうにも引っかかる。
「まぁ、これくらいはやってのけますよ。魔女の僕ですから……」
今更否定するのも面倒になっていたので、公園のベンチへと腰をかけ直す。同時に新奈を隣に座るように勧めていた。
「実家の力って、イヌカイさん家も魔女なんですか?」
「いや、俺の家はもう少しまともですよ?」
言いながら海里は背筋が寒くなる感覚を覚えた。
「えーっと、うちの実家はかなえ程強い力はないんですよ」
「?」
疑問符を浮かべながら新奈は彼を見つめ返す。
「なんでもうちの祖父は、お屋敷の魔女と交流があったそうですが、うちの力は魔術とかそういう類とは違って、ええとなんというか――」
むむーんと唸る海里。
彼自身、自分の『他人を従える力』については理屈がわかっていない。
「取りあえず、うちの家は犬をパートナーに選ぶことが多くて、犬に言うことを聴かせやすいんです」
「聴かせるという割に、わんちゃんたち、みんな固まっているのですけど……」
至極当然な疑問であろう。
先程、新奈に群がっていた犬たち、その山は丁度新奈一人分の隙間だけを残して、ぽっかりと空いていた。
一体どんな命令を聴かせたかったのか。
「あ、それはうちの力というか、俺が未熟なだけで……」
自分でも言葉が尻すぼみになっていくのがわかる。
「未熟って、無事に私救い出されましたけど?」
続き、疑問符を浮かべる新奈。
「ああ、見てごらん」
海里の指先、先程から変わらず固まったままの犬山があった。あれをして自然とは誰が言えようか。
「犬養家、本来の力は命令する力なんだよ。だから、それに沿っていれば、犬を衣さんから『離れるように命令』できてる筈なんだ」
「は、はぁ……」
うん?と半信半疑のまま、海里の指さす先を見つめる。
やはり、犬たちは固まったままで、いつ動き出すかが、さっぱり読めない。
「俺のは、出来損ないでね。犬の動きと真逆の命令をぶつけて、思考を止めるのが関の山なんだ」
言ってて恥ずかしくなってきた。
身体の命令系統を司る脳が出す『ゴーサイン』に沿って筋肉を動かすその前に、『ストップサイン』をぶつけるというのが、海里が今して見せたものだ。
ゴーとストップが同時に命令され、思考がパンクする。普段ならばその意識の空白に新たな命令を書き込むところだが、今回は動きを止めることが目的であったため、それ以上の命令は書き込んでいない。
命令を受けないまま、犬たちは思考も行動もその一切をフリーズしている。
これはこれでよいのだろうが、命令の度に犬の動きを止めていては、とても人外の妖とは渡り合えない。それこそが海里が未熟な理由であった。
先程の犬たちは処理能力を越えて動きを止めている。……その矛盾を処理するまでは固まったままだろう。
「なるほど、わかりません!」
新奈は自信をもって、言い放った。
「まぁ、わからなくていいすから……」
全然伝わらなかった。自慢ではないが、結構な秘術なのにな、と海里は落ち込みそうになる。
「イヌカイさんの家は、パートナーと一緒に行動するって聞きましたけど、そのパートナーはどちらに?」
「……」
純真な目を向けるこの人にどう答えたものか。海里はしばし思考を巡らせてみた。
「今、パートナーってやつはいないんですよ」
巡らせてみたが、カロリー不足の脳はまるで働かず、結局は観念した。
「少し前の事件で、パートナーを失いまして……」
海里は苦々しく告白した。
彼のパートナーは半年前まで確かにいたのだ。命令の度に動きを奪ってしまう、未熟な彼にもついてきてくれる存在が。そんなパートナーが、確かにその時までいたのだ。
「あ、ごめんなさい」
まずいことを聴いたと察したのか、新奈は黙った。
「いやいや、いいんですよ。新しいパートナーがいないのは、俺が未熟なだけですから」
今海里が言った通りである。
人間に代わって妖と直接争う獣たちは、入れ替わることが常である。パートナーとは言っているが、一方的な命令で獣を縛るこの能力を彼は決して万能とは思わない。
「ところで、どうしてこんな公園へ?」
「イヌカイさん、お食事とられていないようだったので、せめてもと思ったのですが……」
新奈の視線の先は、公園の奥へと向けられていた。
公園は神社へとつながっているため、何らかの屋台がよく出ている。なんという心遣いか。思わず海里は涙するところであった。
魔女の屋敷を出た頃に、『何かご飯を買ってきましょうか?』という申し出があったが、それが社交辞令ではなかったことを思い知る。
「いやいや、いいんですよ、仕事中ですし」
かなえにバレた時が怖いし――とは最後まで言い出せなかった。
「じゃ、行きますか」
まだ固まったままの犬たちを尻目に、海里は腰を上げた。
「はい。ああ、こんなにたくさんのわんちゃん、お姉ちゃんに見せたかったな」
続いて腰をあげて、新奈がぼそりとつぶやいていた。
お姉さん想いな人なんだな――海里は単純にそんな感想を抱いていた。