3.不始末―望みを口に
9月6日、後半部分を訂正しました。
『おー犬養、元気か?』
「……普通」
軽薄そうな声が携帯電話から響いた。それを海里は顔をしかめながら、ぞんざいに答える。
『わー、酷ぇ。ホント酷いやつだなお前は』
とっとと屋敷に戻らねばというところでの電話――対応もぞんざいになりそうなものである。であるが、“お前の依頼をこなしてきたってのによぅ”という言葉を聴けば、海里も態度を改めた。
「鉱崎のことがわかったのか!?」
つい声が大きくなることを、海里は自覚していた。
『ああ、それもわかった。時間が掛かったが、大体わかったよ。だが、鉱崎のネタにノータイムで喰いつくなんて、妬けるなぁ』
「バカ言ってないで、とっとと教えろ」
電話越しに届く声は、確かにどこか残念そうでもあった。だが、当の海里は気が気ではない――心許せる友となるかもしれなかった人物、それを救えなかったことは今も胸に幾分か陰を落とし込んでいる。
『俺が全部話すのも無粋だ。あいつの家から見つかった、神住舞葦の日記を読めよ』
「……それ、いいのか?」
当然のように告げられているが、それをすることは憚られた。行交からは一度、親はいないということを聴いている。だが天涯孤独の彼とは異なる、舞葦の持ち物となると気が引けてしまう。
『読めよ犬養。どうせ妖がらみの事件は表沙汰には出来ないんだ。鉱崎行交という人物が何を想ったか――それを考える手立てにはなるさ』
電話先で、お優しい男が何ともいえない表情をしていることは想像に易くない。軽薄な行動が目につくが、秋藤延太郎という人間は、案外に空回りをしているだけだと海里はよく知っている。
「そうか、では――」
『と、それどころじゃねぇんだよ! 犬養、大丈夫か?』
実はこちらが本命だと言う言葉に、海里は意味もわからずに身構えた。とっとと用件を話せ、と心が逸る。
「大丈夫って、なんだってんだよ?」
台詞を途中で遮られ、海里は顔をしかめた。これでも屋敷へ帰る途中であったので、人目は気にしている。が、続く言葉に彼はなりふり構わず走り出した。
『泉矜持――お前がナナちゃんの依頼で出会った男が、刑務所を抜け出したらしい』
言葉を聴くや否や、悪いと一言を残して海里は通話を切った。
続けざまにかなえへと電話をかける。今のところ、海里の周辺では異常がない――そうとなれば、そうとなれば……
コール音数回が経って、電話が取られた。その間に覚えた焦燥感を何と表現したものか。かなえにはまた、“何て顔してる?”と怒られるところであろうが、海里は一先ず安堵をしていた。
空を駆けるとは同時に、いつか地に落ちること。
かなえは地面に伏せながら、魔女とて万能ではないということを再度認識していた。
「くそ、不覚だ……」
手の甲で額の汗を拭いながら、かなえは忌々しげに呟いた。頭に血が上って、周囲の警戒が足りなかった。最短距離を移動していたつもりが、“漂う香り”に意識を一瞬であるが奪われ、落下してこの有り様だ。
「……」
音のない声を聴き、魔女は眉間に皺を寄せる。食堂まではもう目と鼻と先であるというのに、異形どもの息遣いから容易には近寄れないことを知る――ゾンビのように練り歩いていた生徒や教員が、一斉にかなえへと虚ろな瞳を向けていた。
『数が多すぎる』
かなえは胸中で舌打ちをしていた。先程のように男子生徒一人であれば、手加減ならぬ足加減をした一撃で払えるものの、校舎と中庭の間には彼女を阻むようにゾンビの如く徘徊する一般人で埋め尽くされている。
何者かに統率されているように迫るそれらを前に、彼女は決断を迫られる。友という一つの命、又は操られているであろう大勢の命――いずれにせよ、齢二十にも満たない少女は苦しい決断を与儀なくされる。
「……致し方ない、というヤツか」
緩慢ながらもにじり寄るそれらを前に、魔女は一つの決断を下した。
「下がれ、下郎が!」
叫ぶ彼女を前に、ゾンビらは動きを止める。全てではない。彼女と視線を合わせたそれらのみが動きを止めている。
眼帯を掴んだ左手が震えた――借り物の腕へ回す魔力が低下している証拠だ。誰も傷つけずこの場を打開する――そのためにかなえは身を切ることを迷わず選択していた。
何ということはない。両眼を開いた魔女に敵はない。ただそれだけのことであった。
「こうなったら、とことんやってやるぞ」
視線を合わせず近づくものを蹴り払いながら、魔女は一路友の待つ食堂を目指した。鏖殺であれば、いかに楽であったかと独り言ちながら、じりじりと己が食い潰される感覚を味わう。
敵がないことと、無敵ではなないことは共存できる概念だ。視線の合うものも向かって来るものもすぐさま地を這うこととなるが、はっきり言って分が悪い。絶対無敵の魔女であろうとも、人間を殺さないという戒律を前にはただひたすら神経を消耗させられた。
開かれた両眼は虹色に染められている。魔導の極みとも言えるその回路も、人を殺さないという制約を前にしてはその真価は発揮しようもない。
唇を噛みしめながら、魔女は目的の地を目指した。
「ようこそ、いらっしゃいまし」
「その手を離せ……その女は、ダニ如きが触れて良い生き物ではない」
スンという鼻から抜ける音を聞いて、かなえは嫌悪の表情を隠すことはしなかった。フード姿の男が未希の頬に手を添わす様を見れば、虫唾が走るのを止めることは出来ない。
「ダニとは言ってくれるな。お前、自分が素晴らしい人間だと思い込んでいる性質だろ?」
眼前の男はくつくつと嗤ってみせる。身体を引き摺るかなえが、面白くて仕方がないといった風だ。ついで、離せと言われた女の頬をゆったりと手でなぞっては悦へ浸る――こうすることが魔女の神経を逆なでには良いと、男は知っている様であった。
「……この蛆虫が」
両眼を開いたまま、かなえは侮蔑の言葉を吐いた。虹色に輝く瞳に、暗い色が差し込む。
食堂へ辿り着いたものの、感動のエンディングなどありはしない。中庭程ではないにしろ、この場は生気のない者どもで溢れていた。
「お前、私に勝てるとでも思っているのか?」
頬をなぞられた際、未希が僅かに身じろいだことをかなえの眼は逃しはしなかった。状況を打開するため、魔女は言葉を紡ぎながら観察を続ける。眼前には、以前に従僕が倒し損ねた男が独り、友を抱き寄せながら歪な笑みを浮かべていた。もっと言えば、かなえが仕留めそこなったと言ってもいい。
ともかく、一連の事件の不始末をここで打つべきだ。無関係の未希を巻き込んではいけないということに、かなえの思考は割かれていた。
「いやぁ、勝つ必要はないんだよ」
怒る魔女を前に、男――泉矜持は嗤ってみせた。その言葉に偽りはない。既に目的の大半は達成されている。この身に受けた苦痛の幾分かでも返したい。獄中ではこのような考えが頭をずっと支配していた。
『魔女が来たら周囲の人間を巻き込め』
矜持はチャンネルを開かれた際に聞かされた言葉を、今更ながら思い出していた。
視えざる瞳に魅せられた。望んでいた筈の色が、未知の経験に心は支配されていた。知らなかった苦痛――眠っていた視覚神経から受けた痛みは、筆舌に尽くしがたい。
一矢報いるため、じっくりと時を待った。相手が規格外の化物であったとしても、人間社会に生きている以上はルールに従わざるを得ない。とうに社会のルールから逸脱した己の方が一歩リードしていると自負をしてた。
「勝つ気がないなら降りろ。貴様が眼前に立つは、現世に生きる魔女だ。我を通すのであれば、代価に言外の苦痛をいただこうぞ」
「それなら既にいただいた。お前に見せられた景色は言葉に言い表せない」
ギリ、と奥歯が噛み合わされて音がなる。フードを外しては張り付いていた笑みを払拭し、男は忌々しげに眉間に皺を寄せていた。
「私への対策は万全、というわけか」
顕になった男の瞳は、瞼の上から潰されている。二度と凶行を重ねないよう、視覚神経を高ぶらせ嗅覚を弱らせた筈であったが、再び男は光のない世界を取り戻していた。
「お前、誰かに入れ知恵された?」
「さてなぁ、魔女はよく恨まれているらしいじゃないか。俺が言わずとも見当はついているだろ?」
かなえは警戒をしていた。常識外に生きる魔女を空から引き摺り下ろしたその手腕、これ程多くの人間を意のままに操るその異能、果てには魔女のことがよく調べられている。
『一番恐ろしいのは、恨みを越えた呪いだ』
今や最優先は友の命、魔女はこめかみに伝う汗もそのままに男を睨む。以前に対峙した男は、他人の嗅覚――原初の感覚に訴えかけるそれは実に厄介だと彼女は理解している――を基に、意のままに操る。例えば、ここで即座に無力化したとろこで、それが引き金に未希が自害するように入力されていれば、魔女の目的は果たされない。
友が男の腕にあることに嫌悪感はあったが、まだ動く訳にはいかない。
「お前、女を言うがままにしていたのだろう。私をそうしてはみないのか?」
人質の交換。その一瞬に勝機を見出すべく、魔女は言葉を紡ぐ。だが、それに対する返答は案外素っ気なく吐かれた。
「お前は、要らない。ニイナには、ほど遠いよ。むしろこれの方が余程ニイナらしい」
くつくつと相変わらず男は嗤い、後を続ける。その様を見て、かなえは多少イラついていた。決して自分が選ばれなかったからではない。
湊の件や、他の犠牲になった女たち、そして未希。それらを勘案すれば、実にお優しい生き物がニイナ候補だということがわかる――決して、自分が選ばれなかったからではない。
『鉱崎某とは別種の狂人だな』
やりとりの間に、操られた人たちがかなえへとにじり寄っていた。ついには、魔女は腕や足、腰や頭を無数の腕に掴まれる。
髪を触られることにこの上ない不快感が沸き立つが、彼らへ感情をぶつけることは間違っていると理解している。かなえが眼を合わせたそれらは、皆一様に思考が奪われていた。
『不快さを堪えるのも、あと少しだな』
無駄に問答してみるものだと、かなえは軽く息を吐く。そろそろ頃合いであったので、問答に締めくくりを求めた。
「……お前の望みは何だ?」
包囲されたまま、最期にかなえはお決まりの文句を吐いた。答え如何によっては――魔女でありながら甘い考えをしている己を、下僕が見たら何と言うか。魔女はこの状況でも思考を脱線させる余裕は失っていない。
「望み? 俺の望みは、逆らう者すべてに言うことを聴かせることだよ」
瞳を閉じたまま、男は素直に答えた。男は異能使いであるが、魔法使いではない。つい、何も考えずに問いに答えてしまった。
「つまらん。実に、つまらん」
髪を掴まれたまま、魔女は首を振って嘆いた。己の望みがわからないまま他人を支配する――これ程つまらないものはない。
「では、これで終いにしよう」
迎え、とかなえは短く呟いた。
「な、何だ!?」
視力のない男は、辺りを嗅ぎながら驚愕する。かなえの周囲にいた人間は手を離し、自分へと近づいているではないか。
「くそ、どうなって――」
言葉は途中で遮られる。複数の手が矜持を掴む――腕、足、腰、頭、かなえが掴まれた様をそっくりそのまま返されていた。
「身を守るために置いていた人間が、却ってあだになったな」
ニヤリとかなえは嗤う。自由になればすぐに未希を不可視の力で近くへ手繰りよせた。男へは尚も、かなえに迫っていた人たちが続く。
「誰かが出来ることは、また別の誰かの出来ること――勉強になったろ?」
冷酷に嗤いながら、魔女は男との距離を詰める。その目的は、身動きの取れなくなった男から零れた女を拾うためだ。
その間に、他の人間が矜持の腕を肩を足を掴みかかる。かなえの視線と視線を交わしたそれらは、より上位の異能を前に支配すべき主を上書きされていた。
「おい、やめろ、やめさせろ!!」
半狂乱になりながら、男は叫ぶ。だが、それを聴く者はいない。その身は操っていた筈の人物に掴まれている。思考を奪われ、リミッターの外れた暴力が男を襲う。
「私のことを調べたなら知っているだろ? 人間には寛容だが、異能にかかわるものに容赦はしない。それに、“やられたらやり返す”は師匠の教えなんだ」
その教えを破ったことはないと、かなえは断言する。
「やめ、やめて! た、助けて、たすけ、いやだいやだいyだ――」
鈍い音に紛れ、他人を操る男の声は途切れていく。ニイナ、カアサン――男の断末魔へ、かなえは歯噛みをして答えた。
「望みがわからんのは哀れだ……お前、母親に優しくされたかっただけだろ」
己が操っていた筈の無数の手に引き裂かれる男。かなえは既に背を向けて食堂を歩き出していた。左眼に眼帯を付け直しては毒づく。
「今のは、望みを口に出来ない私自身への皮肉でもある、か」
その腕の中で息をする少女――彼女が生きていたこともたまたまであったと理解をして、魔女は安堵とともに落胆の息を吐いた。
と、同時に腹の虫が鳴く。昼時に気張りすぎたかと、魔女は独り嗤った。割に合わない仕事をしてしまったことに悔いはないが、苛立ちは幾分にもあった。
腕で安らかな息をしている少女は、早々に家へと帰してやりたいが、一応病院に連れていくべきだろう。こうなっては未希との食事もお預けか――であれば、せめても美味しいものでも食べねば損だ。
さっさと屋敷へ帰るため、かなえは空腹感に浸りつつも各方面への連絡を始めた。