3.不始末
「三森、大学には進学しないのか? お前なら国公立の大学も圏内だと思うんだがなぁ」
何とも勿体ないという表情で、眼鏡を掛けた中年男性がかなえへ最期の説得を行う。
「すまんですが、学校ってのは高校までで十分なんですよ」
人のいい担任には、本当に申し訳なく思う。年数回程度しか会わない人物であるが、いつ出会っても将来を考えろと彼は言う。ここに来て己を憂う人が増えていることに、魔女は何とも言えない表情を浮かべていた。
――かなえちゃんは、卒業したらどうするの?
未希にも心配をされていたが、魔女稼業を続けますとは大っぴらに言えたものではない。かなえは再度丁寧に大学進学はしないことを告げて立ち上がった。
「高校教師が言う台詞ではないかもしれないが、大学と高校はまったくの別物なんだ。三森には、多くの人と出会ってもらいたいと思うんだよ」
少女は扉に掛けた手を止め、振り返る。見れば、担任は白髪混じりのこめかみを押さえながら俯いていた。流石に三年も付き合いがあると、かなえが言っても聴くような人物ではないということは、彼にもいい加減わかっている。
「んあー、とは言ってもなぁ、私は――」
それでも、娘と年の変わらぬ彼女の未来をこの教員は案じざるを得ない。かなえにしても、そのことはよくわかっているからこそ、一度は否定のために吐いた言葉を途中で呑み込んだ。
「……先生、ありがとう」
たまにはよかろう、と少女らしい表情を作ってかなえは笑って答えた。その後は、呆気に取られている先生を振り返ることはせずに今度こそ扉を開いた。
食堂へと向かえば、未希が待っている。高校生の内に彼女と出会うのも、あと数回かと思えば少々胸にくるものがあるな、とぼんやりと考えていた。時間がかかると踏んでいた面談も、思ったよりも早く終わっていた。
昼食前の頃合であったので、一度くらいは彼女を屋敷に招いて食事をしてもよいか、とも思っていた。昼までには海里も戻っているので、実際に会えば未希も彼が恋人ではないと理解してくれることだろう――我ながらなかなかな名案だ、とかなえは口元を釣り上げて笑う。
「しかし、どうしたものかね」
長い廊下を歩きながら、魔女はしばし黙考する。今更己の生き方を変えようもないが、少々揺らぐものがある。人間らしく生きようとしたところで、と思い込んでいた彼女が出会ったのはそのほとんどが優しい人たちだった。
『あの人たちに、何とか応えてやりたいのだがな』
歩きながらも、瞳を閉じては吐息が溢れてしまう。かなえは焦っている――子どもの頃に見たことは、概ね現実となっていた。永くはない寿命を如何に遣うか。日に日に鈍る身体であっても、ここまで来れたことで精一杯だと感じている。有り体に言えば、彼女は他の人間の言うことを聴いてやれる余裕がなかった。
聴いてやれないと、聴いてやりたいは相反するものかと思い、少女の心には蔭が差し込んでもいた。
「――あいたっ」
前方から受けた衝撃に尻餅をついていた。見れば彼女の目の前には大柄な男が立っていた。瞳を閉じたまま歩いたものだからぶつかったのかと、すぐに謝罪の言葉が頭に浮かぶ――が、その言葉は喉元で止まってしまっていた。
「……」
如何に小柄なかなえといえど、ぶつかればそれなりに痛みもある筈だ。だが、当の男子生徒は物も言わずに立ち尽くしている。
その目からは生気が窺えず、ただ目標の一点のみが見つめられていた。
「おいお前、大丈――」
訝しがりながらも何とか言葉にしたものの、それは途中で遮られてしまう。言葉を出したかったのであるが、漏れたものは、かはっという息であった。
「あ、あぁ……」
うわ言のように呟く声とともに、男子生徒の手がかなえにかかる。細い首は、指を喰い込ませ、じわりじわりと絞め上げられていく。非日常を生きる彼女であるが、学校という空間の中で起こった異常性には反応が遅れてしまう。
何故、己が首を絞められているのか。それは彼女でなくとも理解の出来ないことではあったが、このままでは死ぬということだけは理解できる。細い首からは、ミシミシという音が聞こえてすらいた。
『まだ、死ねない』
そんな想いが去来すれば、魔女はノーモーションで蹴りを放っていた。どう見てもただの少年であったが、躊躇はしていられない。不可視の蹴りが男のみぞおちを打った。
「――離、せ!」
男の手が緩めば、かなえは再度蹴りを放って相手を引き剥がす。撥ね付けらた生徒は、廊下の柵に背中をしたたかに打ち付けては、そのまま身体を床へとスライドさせて動かなくなった。
「か――は、あぁ」
締めつけから解放された喉が空気を喘ぐ。未だ喉に違和感を覚えるが、這いつくばって蹴り倒した男の喉元に手を当てる。
「生きて……るな」
言葉を出すのも億劫であったが、己に言い聞かせるためにも口にしてみせた。つい先程までは、何の変哲もないスクールライフを送っていた筈だ。だが、突如訪れた異常に、かなえは魔女としてのスイッチを入れる。
それまでは理解の追いつかないままに、どことはなく視線を這わせていた。だが、魔女らしく振る舞いはじめれば何ということはない。
舌打ちを一つして、かなえは立ち上がる。名も知らぬ男子生徒が蹲った様を視界の端で捉えると、そのまま視線をあちこちへと這わせた。確実にこの場は普段の彼女がよく知る常識の埒外に侵食されている。
だが、右眼から入る情報は上手くまとめられない。
「ああ、くそ、面倒だ! だから外は嫌いと言うんだ……」
呟き眼帯を入れ替えると、綺麗な黒髪が乱れることも構わずにかなえは頭を掻いた。その表情は言葉通り、心底面倒くさそうに歪められている。
魔女は呆けていたつもりもないが、突然暴漢に襲われるという事態に陥っていたことを反省した。言い訳になるが、学校という空間がよくなかった。
騒がれては面倒だ、ということも多分にある。あるのだが、魔法は秘しておかねばならぬもの――という師匠の言いつけも思い出していた。そいつを守ろうとするかなえは、普段から努めて魔女の痕跡を消してから学校に入っている。
舌打ちの一つもしたくなるというものだ……高校で左眼を開く、初めての経験に魔女の心は乱されていた。
禁を破るという程ではないが、自分の中で決めたルールに逆らうことは、何とも落ち着かない。職業病とでも表現しようか。大きな力を扱う分、どこかに制約を設けておかねば自分を見失いかねない。
お屋敷の魔女は、魔法の制御を一番に考える。彼女にとっての制御を例えるとすれば、ルールを守っている自分を、高いところから別の自分が観察できている状態だ。魔法の才能がないかなえは、魔女として在り続けるために、先代から学んだお作法を守ることを大前提としていた。
「これで、ここでも私はお屋敷の魔女か……」
単なる“三森かなえ”という人物で過ごすことは案外難しいものだ、と胸中で毒づく。やはり人並みに生きることは難しい――呟きとは裏腹に、左の視野で捉えれば易々と異常とやらが察知できた。
今しがた歩いて来た廊下では、扉から半分身体を出した担任が倒れている。こちらは気を失っているだけで命に別条はない。かなえを襲った男子生徒も同様――彼は魔女に気絶させられたのだが、今はそのことを問うまい。
校舎の外では虚ろな目をした者が、多数うろついている。性別に関係なく、更には教員や生徒も関係なく――その他の場所から得られる情報も同様で、皆一様に緩慢ながら歩き続けていた。つまりは正気を保っている人間は見つけれなかった。むしろ、その正気な人間を見ては襲うのではないかとも思えてくる。
「まるでパニック映画、否――ゾンビ映画か」
それも三文映画だ。かなえは渋面を切って唸った。今起こっていることは人為的なものと見当をつけるが、凡そ目的がわからない。魔女がいると知ってか知らずか……どちらであるかによって犯人の性格も窺い知れるのであるが、理解を放棄すらしたくなる。
「ああ、もぅ……」
かなえはこめかみを抑えて唸った。いずれであったにせよ、この状況を作りだした人物、その手腕は美しくないと評せざるを得ない。
かなえの存在を知らない場合、実験場としてこの高校を舞台に選ぶことは不適当――駅近く、住宅地でもあるため、異変はすぐに察知される。ゾンビ映画にあるような、感染拡大が狙いだとすれば、ベットタウンであるここを昼間に狙うことは愚策としかいいようがない。
かなえの存在を知っている場合、やはり舞台としては不適当――魔女が魔法を秘するよう刷り込まれていることを知っている可能性があるものの、不確実な方法としか思えない。全ての人間の意識を奪ってしまえば、魔法を行使したところで人目につくことはない。
やはり、どのパターンであっても美しくないと、かなえは瞳を閉じた。状況整理のためであったが、こんな時でも不可思議な現象の収集を行おうとする己に溜め息を吐きそうになる。
異常を喜々として整理するこの様を、従僕がいい顔をしていないこともわかっているつもりだった。どうにも魔女の思考は効率やらを優先するため、非人間的に映るらしい。もっと他に考えることがあるだろ? とはお優しい生き物の言いそうな台詞か……
「待て、私は何を悠長に――」
口にしては、魔女は食堂へ向けて駈け出した。彼女の位置からでは、職員室が邪魔をして食堂が視界には入らない。そのことに気づくとともに、全身の細胞が喚き出した。同時に、かなえを狙うには、この場所が絶好であると思い当たった。
美しくない、を通り越して最早醜い方法だ。魔法、異能、妖――そのいずれにも抵抗しえない友人が、ここには居る。
こんな時に限って、未希が待っている食堂とは真反対の進路指導室へ呼び出されていた。否、この犯人とやらはどこまで狙っているのか。狙いがわからず、かなえの焦りは益々加速していた。脳細胞に火が付いたかなえは、冷静に考えることも出来ない。
「ふざけんな、バカ!」
叫び、勢いのまま廊下の柵を飛び越える。そうすれば、必然身体は重力に引きずられて落下する――三階から飛び下りれば当然だ。
だが、当然や常識を覆すのが魔女である。スカートが捲れることも厭わず、かなえは校舎の壁へ向かって足を延ばす。決して届きはしないが、それでも延長された不可視の蹴りは壁を打ち、魔女の身体を水平方向へと打ち出した。
己と似て異なる少女の身を案じ、魔女は文字通り空を駆けた。