2.始末の最中―電話
祖父の見舞だけでなく雇い主の母親と話していたこともあり、海里が駅前に着いた時には太陽が真上に上っていた。
昼までには帰るという約束をかなえとはしていた筈であるが、この状況では時間に間に合わないことは明らか。海里はバツの悪さを覚えつつも、腹の虫が鳴くのを聞いてはもう少し寄り道することに決めていた。
「早く屋敷に帰っても、独りで飯作らないといけないからなぁ」
言い訳のように独り呟く海里は、片手に紙袋を下げている。お屋敷まで遠回りになるのであるが、それには構わずにベーカリーへと立ち寄っていた。袋の中には幾つかのサンドイッチとパックのコーヒーが入っている。独りで食べるにはやや多い量だ。
再び駅前に戻ってきた海里は、真っ直ぐ屋敷には戻らずに商店街の方へとぶらついていた。その足取りはやや重く、彼の表情も冴えない。その理由は本人も何とはなしに気づいていたが、気づくことと対処出来ることはまた別の話だと考えていた。
肩掛けのカバンから短く電子音が響く――このパターンは着信ではない。海里は敢えてそれを無視し続けている。それがよくないことだとわかっている彼は、誰に憚ることなく大仰に溜め息を吐いていた。それに伴い、足取りも一層重くなる。
「そこの格好いいお兄さん、ちょっとちょっと」
そんな言葉が彼の耳に入った。思わず声を掛けたくなる程の美男子がいるのか、とぼんやりと思っていたが、生憎と格好いい男を見て喜ぶ趣味は持ち合わせていない。気が重いまま進もうとするが、二三歩程進んだところで足が強制的に止められてしまう。
「こら、あんたのことだよ丸眼鏡! 無視しないでくださいよ」
「ああ、いや、無視した訳では……」
突然の事態に口をもごもごと動かして答える海里。フードを被った女性が海里の肩を掴んでいる。呼び止められることに覚えのない彼は目を白黒させて驚いていた。
格好いいお兄さんを呼び止めていた筈なのに、どうして自分が捕まっているのだろうか。お世辞にも自分は格好よくなんかないぞ――などと明後日の方向を向いた思考を海里は回している。この思考も、彼が他人の感情理解を遅くらせてしまうパターンの一つであった。
まったくややこしい人ですね、と女性は半ば呆れたような声を上げていた。走ってきたのか、呼吸はやや荒い。黒いフードの下に覗く肌はかなり色が白いことが見てとれる。次いで紫色の瞳と視線が交われば、ようやく海里は呼ばれていたのが自分であることに気づいた。
「ああ、あんただったか、えっと……」
失礼だなと思いながらも、間の抜けた青年は指差しの姿勢で固まってしまう。相変わらず人を覚えられないことに、本人も落胆をしている。
「旧炉、ですよ。その節はお世話になりました」
先の依頼人――旧炉新はフードを外して改めて名乗った。
「え――何これ、美味しい」
新は思わず言葉を溢していた。切れ長な瞳が印象的な女性であるが、今はその眼尻がやや下がっている。あまりの驚きに、視線を海里と手元のたまごサンドを何度か行き来させている。
「ここのサンドイッチは、安くておいしいんです」
自分のおススメを喜ばれると悪い気はしない。値段が張るカツサンドもあるが、高いと伝えると相手が気が引けるかもしれないと思い、黙っていた。
「でも、私がもらってしまってよかったのかしら」
やや申し訳なさそうに占い師の女は視線を下げた。商店街の奥まった路地、その先にある中華料理屋の前に陣取った露店に二人はいる。新に呼ばれた海里は、彼女も昼食がまだだと聞けば、サンドイッチを差し出していた。
「残ったらかなえにやろうかと思ってた程度ですんで、お気になさらず。こういうのは、独りで食べるより人と食べる方がおいしいから」
「眼を取り戻してもらったお礼を言うだけのつもりだったのだけど……この際、遠慮なくいただきます」
気は引けたが、手を引くことはしない。むしろ、手が止まらないという表現の方が正しいか。あっという間に、サンドイッチを平らげ、紙パックのコーヒーへ新は手を伸ばす。
「――っ!?」
コーヒーを口に含んだ瞬間、彼女の眉間に皺が寄る。これまでの幸福そうな表情からは一変していた。
「何これ、すっごく甘い! いくら何でも甘すぎない?」
ゲッホゲホ、と咳き込みながら呟く女性を見て、海里はしまったという顔を浮かべていた。
「すみません、そいつはかなえが好きなコーヒーでした。こっちをどうぞ」
封は切ったものの、まだ口は付けていなかったので海里はコーヒーを取り替えることにした。かなえ用に買ったコーヒーは彼自身、鳥肌が立つ程の甘さであったが、極貧生活時代の名残で食べ物を粗末にすることがどうしても出来ないでいる。
一気にコーヒーを煽り、最後に取っておいたカツサンドを口の中に放り込むと、甘さも中和されるようだった。腹が膨れ人心地が付いたところで改めて新を見れば、交換されたコーヒーを飲んでは満足そうな笑みを浮かべていた。
「ご馳走様でした」
眼前の女性のお礼を聞き届けて、挨拶もそこそこに海里は席を立った。昼までには屋敷に帰る約束であったので、いい加減戻らねば魔女からどのような仕打ちを受けるかわかったものではない。
「ちょっとお兄さん、まだこちらの用が済んでないんですけど?」
「はい?」
「ですから、この間のお礼ですよ」
新は紫色の瞳を怪しく輝かせると、帰ろうとした男の手を掴んだ。
「すぐに済ませますから」
手を握られると、再び露店へと海里は引きずり込まれる。その時、本人の意思とは関係なく脈拍が上昇していったことがわかった。食事も終わり、元来の鋭さを取り戻した瞳、その表情は妖艶とも評せるものだった。
「も、もういいですか?」
「はい、いいですよ」
しばらく拘束されていたが、ついに許しが得られて海里は手を戻した。自分でも顔が赤くなっていることを自覚する。新はというと特に気にした風はなく、顎に手を当ててはうーんと唸っている。
――お礼に占いをします。そう告げられると、優に三分は手を掴まれていた。こそばゆい感覚と同時に、美人に手を握られるという滅多にないシチュエーションに海里は震える思いでいた。
かなえが毒のあるものの、愛くるしい美少女だとすれば、ナナは天真爛漫な印象が強いが、顔の作りそのものは綺麗なお姉さん系と評して良い。
新はと言えば、海里が日頃接している彼女達とはまた異なる美しさがあった。野暮ったい黒づくめの格好をしているが、そこから覗く肌は白く、髪や服とのコントラストが一層際立って見える。地味な装いであるが、それも紫の瞳を印象づけるためのものであるかのよう。引き摺りこまれるような、怪しい美しさがそこには在った。
『兄さん、視力がいいことはわかったから……美人な女性ばかり視線で追いかけるのはやめて』
不意に、以前妹と出かけた時に出された言葉を海里は思い出していた。その際には“見てない”と答えていたが、ここまで来ると海里は認めざるを得ない。どうやら自分は女性――それも美人に弱いのだ、ということを。
実際かなえにもそれ以前に冗談のような指摘を受けていた――犬養家は妖に抗し続けるために種の保存を優先するから、お前がこの美少女かなえちゃんに見惚れてしまうのも仕方のないことだ、と。
尚のこと、青年は悩む。今朝方から携帯電話へ連絡を寄越してくる女性こそ、一番大事にしたい筈だ。そうであると言うのに生来の筆不精が祟ってか、パートナーへは返事がなかなか出来ないでいた。このところは、気が重くなる一方だ。
「――犬養さん?」
「あ、はいっ!」
声をかけられ、飛び上がらんばかりに姿勢を正す。情報の処理が遅れるのか、時として思考の袋小路に迷い込んでしまうこともあるものだ。
「手相を見て思ったのですけど、犬養さん……」
占いの結果が芳しくなかったのか、新は神妙な顔つきで何事かを考え込んでいる。思考の旅に出ていた海里を気にも留めていないことは、彼にとっては幸運だったか。
「犬養さん、女難の相が出てますね」
「女難の、相? それって、そんなに酷いんですか?」
占いがまったくわからない海里は思わず聞き返していた。それと同時に聞いたことを若干後悔もしていた。聞き返した途端に、新の表情は一層渋いものへと変わっていく。
「はい、それはもう、酷いです」
見てください、と再び海里の左が握られては手のひらを上に向けられる。
「対人運は悪くないと思うんです。コミュニケーション下手で、家庭よりも仕事先での人間関係を大事にしがちな相ですけど、人付き合いは悪くないんです」
「……はあ」
話を聞きながらも、海里は生返事をしている。元々他人の感情理解が遅れる人間であるので、今聞いた話はそう悪いものには思えない。
「問題は恋愛線ですね。二人の人から同時に好かれる相が出てます。後、結婚線が複雑ですね」
「トータルで言うと、どういうことですか? ちょっとハッキリ言ってやってください」
結局何がどうなっているのかわからずに、海里は呻いた。すると、占い師は迷ったような表情を一瞬していたが、一呼吸の後にハッキリと言ってのけた。
「モテます。モテますけど、家庭が荒れます」
「へ、へぇ……」
お礼と言う割に結構酷なことが告げられ、海里はその先が続けられないでいた。不快というわけではなく、パートナー絡みで困っているところであったので、状況を改善するための糸口を掴むためにあれこれと思考を回している。
バキューン。
携帯電話から銃声音がコールされた。流石に電話を無視するわけにはいかない。失礼、と一言述べると海里は通話ボタンを押す。
『やっほー、海里さん。やっほー』
しばらく振りの少女の声は、いつもよりも一層に元気なものだった。その勢いに押されて、海里も小さくやっほーと返していた。
「今、電話大丈夫です?」
「あ、ああ。出先で人もいるからそんなに長くは無理だが……それよりもメールに返事が出来ないですまない」
気の進まない話題であったが、ナナと会話する上で避けては通れないと、彼は言い訳もせずに謝っていた。コミュニケーション下手ではあるが、あれこれ言い訳する方が却ってよくないというくらいの知識は持ち合わせている。
『メールに返事は別に必要ないんですけど……ひょっとして海里さん、メールの内容すら見てないんじゃないです?』
後半に行くに連れて、パートナーの声が不機嫌になっていく様を海里は感じ取っていた。ここも潔いかどうかはわからないが、言い訳もせずに謝った。
『もー、海里さんたら……お姉ちゃんのお手伝いとか、大学の関係で私はまだ帰れないんですからね?』
「あ、はい、すみません」
謝りながら、海里はまた理解をし損ねていたことに気づいた。しっかりしてください、と告げる少女の声は怒っているのではなく、心配しているものだったと――それはまるで手の掛かる子どもを相手にしているようでもあった。
『海里さんは、私がいないとダメダメなのはわかってますし。かなえさんにはきちんとお世話を焼くのに、自分のことは何にもできないんですから』
ふぅ、と溜め息を吐きながら少女は一呼吸を置く。
『本当言うと、海里さんがかなえさんのところに入り浸るのって厭なんですけど、独りじゃ碌にご飯も食べませんから……きちんと三食食べてくださいね。後、歯磨き粉の替えは洗面所の戸棚です。靴下の新しいものも引きだしに入ってるから、穴空いたら捨ててください。いいですね?』
「あ、はい」
繰り返し、はいとしか答えらないでいた。それじゃ、そろそろ切りますからと言うパートナーに、何と返せば正解なのか。それは人間の理解が遅れる――まして年若い女性であれば尚更のこと――海里にはわからない。ただ、このまま黙って電話を切ってはいけないことだけはわかっていた。
「ちょっと待ってくれ」
『え、何です?』
ナナに一言告げると、海里は立ち上がり路地の隅へと走った。流石に他の人間がいるところでこんな話を聞かせるわけにはいかない。
「あー……こんなタイミングでなんだけど、やっぱりナナが居てくれることには感謝してるんだ」
『あはは、いやですね、急に改まって。海里さんは、そのままでいいんですよ』
「いや、ダメだろ。俺、きちんと言ってなかった」
『ありがとうって、いつも言ってくれてますよ?』
電話の向こうの少女はイマイチ要領をえない様子で、答えている。やはり直球でないといけないかと思い至り、海里は空いた手で頭を掻いた。
「キミのことが好きだ――ナナが居なくなったらその、何だ。困る」
『……』
「えっと、急にこんなこと言われる方が、困る、よね?」
しばしの無音に、海里はしどろもどろになりながらも言葉を紡いだ。また自分勝手に喋ってしまったかとも思う。
『ごめん、なさい』
「……」
何故謝るかもわからずに、今度は海里が無言になっていた。指輪をはじめに渡した時のような、言葉に表せない空虚な想いに胸が締め付けられる。
『ご、ごめん、なさい……い、今、泣いてしまっ、ていて』
「――は?」
最悪の状況すらも想定していた思考が、疑問符に塗り替えられた。何故泣くか、さっぱりとわからない。
『何で急に好きとか言うんですか! お姉ちゃんもいるのに、泣いちゃったじゃないですか!』
携帯電話の向こう側からは、何やらはやし立てるような声も聞こえている。
『もーーー、ほんと海里さんったら……ありがとうございます。けど、そんな言葉聴いたら泣いちゃいますよ。なるべく早く帰りますから、健康にだけは気をつけてくださいね』
プツリ――通話が終了し、海里はわかったようなわからないような曖昧な表情で占い師のところへ戻った。何はともあれ、自分が言っておくべきことは伝えたものだと彼は理解している。
戻る途中、無視をしていたメールを開けば“粉末スープは戸棚の奥に買い溜めしてます”“そろそろ牛乳の賞味期限切れますよ”“パンツ、表裏間違えてませんか?”といった心配しての内容だとわかった。筆不精だからと内容すら見なかったことを、今更ながら海里は心の中で詫びていた。
「話の途中ですみませんでした」
一言断りを入れて戻ったものの、彼を見る新は笑顔を浮かべていた。
「まったく以て構いませんよ。話の続きはですね――モテモテになるから、振り回されずに自分で決めなさいって助言するつもりだったんですよ」
「え、聞こえてました?」
こんな会話を人に、しかも自分やナナを知る人に聞かれたとわかったら、それこそナナが泣きながら殴りかかってくるのではないか。海里は気恥ずかしさよりも、肝臓が痛む幻覚に眉を潜めた。
「いえいえ、聞こえてませんよ。ただ、私は細かいところまで視えるんです。犬養さんの表情を追っていたら、きちんと想いを恋人に告げられたのではないかと思いまして」
「まぁ、大体そんなところです」
犬使いのパートナーであるナナを、世間一般でいう恋人と称してよいか迷うところであったが、説明がややこしいので海里は首肯しておいた。
食事に占いにと時間がかなりかかってしまっている。そろそろと海里が立ち上がると、新はフードを被り直しながら見送っていた。
「お屋敷の魔女とその助手には感謝しています。お互い変な眼を持っていますが、振り回されずに頑張りましょうね」
「こちらこそ、ありがとうございます」
握手を交わし、今度こそ占い師の元を後にする。商店街の主だった通りに出ると、海里の携帯電話が再度音を響かせた。
「……今度は誰だ?」
デフォルトの着信音を聴きながら、海里はカバンから携帯を取りして怪訝な表情を浮かべていた。そのディスプレイには“秋藤延太郎”の文字が表示されていた。