3.旧感覚
「おかえり、従僕」
「……」
戸惑って言葉が出なかった。
ドアを開けると、魔女が笑顔でお出迎えをしている。
しかし先程のメールを引きずっている海里は、何と言葉を発してよいか分からずに、しばし口を開けたまま立ち尽くしていた。
「何て顔してるんだ。さっさとあがって、昼食作れよ」
不機嫌な顔に戻ったかなえに言われるがまま、海里は厨房へと進んでいく。
美少女がお出迎えをしてくれる――世間では両手離しで羨まれるシチュエーションも、状況によっては嬉しくもないこともあると、初めて知った海里であった。
一歩ごとに揺れるスーパーの袋を、いつも以上に重く感じる。
「ふむふむ、なるほどなるほど」
ズズっとそばをすすりながら、かなえは神妙な(同時に愉快そうな)顔をしてみせた。
お屋敷に戻ってから海里は、調理をしつつ、これまでに得た情報を魔女へと報告をしていた。
「それで、このあとはどうする?イヌカイ」
かなえは一口そばをすすった後で、一味唐辛子のふたをあけ、豪快に振りぬく。
三分の一は入ったであろうか。そばは一面を真っ赤に染められていた。
「まずは、依頼通りに衣さんと家まで行く。同居人はいないようだし、本当に殺しているなら、現場からは離れたがるものだろ?」
「……この依頼は任せた。思った通りにやりなっせ」
げっふげふ、と咳き込みながらそばをすすりつづけるかなえ。
「で、衣さんはどこ行った?」
給仕に徹していた海里は、テーブルについてから、ようやく依頼人の姿を探し始めた。ついでに、むせるかなえにお茶を差し出す。
「彼女は寝ているよ」
視線も合わせずに湯のみを受け取ると、かなえはお茶をのどへと流し込んだ。
「そっか。ゆっくりできているならいいか」
行動が先送りされて、少し安堵した。彼女が家に戻るかどうかは彼女が決めるべきだが、どうにも気が進まないのも確かだった。
「うーん……どうしたものか。まだ不安があるなら、しばらくは家に帰さない方がいいとも思うし。なぁ、かなえならどうする?」
扉の向こうに視線を注ぎながら唸る。ここに来て、依頼を達成することに躊躇を覚えてしまった。
「後はお前に任せると言ったぞ?」
無機質な声音でかなえは答える。心なしか、不機嫌さのギアが一段上がっている様子だ。
「いや、俺なんかよりかなえの方が先まで見えてるじゃないか」
先程のスーパーでのやりとりを思い出して、海里はぼそりと答えた。
「お前さ……人からよく『優しいね』って言われるだろ?」
かなえがお茶をすすっては、片目で睨んでいる。
「え、なんで、急に?」
そろそろ自分のそばも茹でようかと、腰を上げたかったが、動きを牽制されてしまった。
確かに優しいと言われることは多い。よく言われるが、それが今の話に何の関係があるのか?
疑問に思わざるを得ない。
「自分で言っていて、わかっているだろう?あの子は家に戻るしかないってことを」
「む、むぅ……」
かなえの言う通りだ。
よりにもよって、お屋敷の魔女を尋ねた依頼人には、他に行くべき場所などない筈だ。恋人を捕まることや、復讐をすることを彼女は望んでいない。
今引き留めたところで、結局は戻ることになるのだ。
彼女の望みは『家に戻ること』。それを引き留めてまで、自分は何を望んでいるのか。
「それでも、それでも厭がってるのを無理やりってのは――」
「そーれが、お優しいと言っている。お前、あの子の保護者にでもなったつもりか?」
「……何?」
かなえの言う通りだとは、とっくにわかっているつもりだった。だが、何かが邪魔をして納得ができない。
辛い目にあっている人間を想うことが、悪いことなのか?
つい、目つきが険しくなることを自覚しながらも、反感の気持ちが抑えられずにいる。
「何?じゃない。感情に振り回れていて、何ができる。そこが、『この依頼はお前に向かない』と言った理由だ」
じろり、と海里以上に険しい目つきでかなえはまくし立てた。
「強すぎる感情はさ、ただでさえファジーな脳の機能を、一層ファジーにしてしまうんだ。行動に焦点を合わせろ。自分の望みと役割を理解できていない人間に、他人を救うことはできんぞ?」
自分が何をしたいか、よく考えろとたしなめられた。語調こそ厳しかったものの、かなえは怒っているようには見えない。
「……俺のしたいことか」
「感情ってやつは厄介だな。エラーを起こして、認識に齟齬が生まれる。感情を無視しろとは言わない。ただ、自分で作った認識に呑まれてくれるなよ」
自分で作った認識に呑まれる?
認識なんて、気づけばあるもので、自分からは切り離せないものじゃないか、と海里は思う。かなえの言葉の意味するところがよくわからず、閉口した。
「さっきのメールな。あれはお前が、何を買うかを読んでいた訳ではないぞ?」
「へ?だって、『当たりだな』って」
「当たりだな、と言っただけでお前が勝手に誤認識しただけの話、さ」
淡々と魔女は語る。
「――以前、残金ゼロだって言って、財布を持たずに来たときに、報酬の一部を胸ポケットにしまっていただろ。お前の性格上、うっかり忘れているなと思っただけだ」
「そんなことが、あったっけか」
すっかりと忘れていた。
「お前、考えるのは向かんから、よく視ろ。推察するのは、確からしい情報の裏を取ってからだ」
「あー……相手の真意を聴かない内に、勝手に思い込んでいたってことか」
少しばかり納得がいった。全くもってかなえの手の平の上で転がされていたことは癪だったが、海里はこれも授業料だと思うことにした。
「もう一度言っておく。後はお前に任せるから、最初に思った通りにやってみろ」
「了解し――」
た、と最後まで言い終えるまでにかなえが言葉を続けた。
「それじゃ、依頼人を起こしてとっと行って来い。主に逆らった罰として、この依頼終わるまでは飯抜きな」
「了解したくないが了解した……このクソ雇い主が」
のろのろ立ち上がり、首を鳴らして抗議の意だけを示しては、海里は部屋を出た。