1.後始末
電子音に目を覚ました。とは言え、身体は未だに眠りを欲している。胡乱な頭のまま、音の主を探ると、態勢を崩した。
「いってぇ……」
海里は打ち付けた頭や腰を撫でながら呻く。ソファーで寝ていたことをすっかり忘れていた。条件反射的に身を捻れば、固い床に打ち付けられていた。
「朝っぱら楽しそうだな」
キッチンから、両手に皿を抱えたかなえが現れる。その姿に、海里はどこか違和感を覚えた。
「何だ、相変わらず味のある顔をしおってからに」
コトリ――サラダや目玉焼きの乗った皿がテーブルに置かれる。続いてトースターがチンという音を立てれば、少女は身体より一回りは大きいエプロンを翻してキッチンへと戻った。
「あー、そっか」
後頭部を床にぶつけたまま、海里は思わず納得していた。エプロンの下に見えるスカートがいつもと違う。スカートだけではなく、身に着けているブラウスも普段のものとは異なる――それは何といえばよいか。いつもより少女らしい出で立ちのように彼の瞳には映っていた。
更にウィンナーが盛り付けられた皿が置かれ、かなえは椅子に腰かける。未だに倒れたままの海里はぼんやりとその光景を眺めていた。他人の感情理解が遅れる彼は、誰かとゆったりと過ごすということに未だに慣れないでいた。
「……呆けておらんで、さっさと食べなさい」
エプロンを脱いだ少女は、下僕へ席を勧める。いつもより幾分か柔らかい表情をした彼女は、ブレザーにスカートといった服装をしていた。それは有体にいえば、女子高生そのものだった。
「なんだ、さっきから人の顔――じゃないな。人の姿を舐めまわすように見よって。おかわりか?」
「ああ、おかわり欲しい。けど、そうでなくてさ」
茶碗を突き出しながら、海里は口ごもる。気になることがあると、こう、胸の奥がムズムズとして我慢ならない。
「途中で止めるな、気持ちの悪い。ほれ、言ってみろ。失礼なことでも蹴るだけで済ませてやるから」
「かなえってさ……」
「んー?」
おかわりをよそって、かなえはテーブルを外回りに歩いてくる。海里の手前に茶碗を置くには、彼女の体躯は少々小さすぎた。どこか緊張したような表情の少女は、上目使いに海里を見つめている。
「そんな格好してたら、まるで女子高生みたいだよなっ――」
言葉が告げられるや否や、海里の世界は回った。比喩でもなく、天地が二回と半回程回っていた。再び後頭部から床へと落ちる最中、彼は凄まじいスピードでかなえの足が振り抜かれている様を見送っていた。
「いって、いってぇ!!」
ゴリ――床が頭蓋を迎え撃つ音を聞きながら、海里は痛みを訴えていた。
「朝っぱらから失礼なやつだ」
学校くらい通うわ、そんなかなえの声が痛む頭に響く。バカなことをいってないで、食事に戻ろうと青年は椅子ごと身体を起こした。
「お前、日に日にタフになっていくよな」
席に戻りながら、魔女は感心したような、呆れたような表情を浮かべていた。
「という訳で、今日はスクーリングの日だから。留守番頼んだぞ」
「は?」
魔女の言葉に、思わず固まってしまった。ここ最近仕事らしい仕事はないものの、顔だけは出しに来ていた海里だ。だが、顔を出せば妖についての講釈や、道場で瞳の使い方の稽古をつけられたりと何かと用があった筈だが……まさかこのような用があるとは思いもよらなかった。
「いや、私出かけるから留守番頼むな?」
ムスっとした表情でかなえは眉根を寄せる。下僕のいうことなど聞く気はない、そんな様子が彼女の瞳から伝わってくる。
「あの……」
食事を終え、シンクに食器を納めた少女はブレザーの上からコートを羽織り始めていた。だが、それに反して海里は言葉をかけている。
「なんだよ。朝食まで作っていたから、あまり時間はないんだぞ?」
益々不機嫌になっていくかなえに対して、言葉を出すことは憚られたが、海里は意を決して伝えた。
「俺、今日はジイさんの見舞いに行くんだよ」
「ああ? 私は夕方までは学校だぞ?」
眼帯には塞がれていない、右の瞳が鋭くなっていく。まるで、夕方までは出かけるなといわんばかりだ。だが、ここで引いていてはいけない。
「昼には戻るからさ、なんとかならないか?」
「うむぅ……」
マフラーを巻き終えた少女は、腕組みをして唸る。
「じゃ、こうしよう」
出かけるべき時間が迫っていたからか、考える時間も惜しい様子だ。ポケットに手を突っ込んでは、何かを海里へと投げて寄越した。
「これ、貸してくれるの?」
ふむ? と感じたデジャブに首をかしげながら、彼は問うていた。いつの間にか、手には金属片が握らされている。ぼんやりと答える様を見て、少女は微かに笑った。
「やるよ。車と違って、なくなるもんでもないからな」
それではな、と答えてかなえはカバンを引っつかんでは屋敷を後にした。残された海里は祖父の見舞いまでの間、何とはなしに手にしたお屋敷の鍵を眺めていた。
祖父の見舞いが終わると、海里は別の病室の前に立っていた。三森螺矢と書かれたプレートを見ては唸る。またしてもこの部屋にやって来てしまった。何故ここに来るのか、それは本人にも相変わらずわかっていない――が、少なくとも尋ねてみたいことが今回はあった。
ノックをすれば、やはり若々しい返事が戻ってくる。祖父も元気になってきたが、彼女に比べれば声に力が足りないと思う。そろそろ引退だな、と零していた言葉を思い出しつつ、海里は扉を開いた。
「あら、カイリさん」
「へ?」
思わず、間の抜けた声を上げてしまった。文庫本を傍らに置き、肩に掛かったカーディガンを羽織り直すのはいつものこと。だが、いつもと呼び方が違う他に、視力の極端に低い筈の瞳は何らかの感情に突き動かされて大きく見開かれていた。
「あ、いや、用があったんすけど――」
「はいはい、どうぞこちらへ」
いつもどおり、ちょいちょいと手招きを受けて海里は螺矢の傍らへと踏み込んだ。いつの間にやら、手も広げられている。
「あの、螺矢さん。かなえがお屋敷の鍵くれたんですけ、ど――」
有無を言う前に、腕に抱き抱えられて海里は言葉を遮られた。
「馬鹿だと思ってくれて構いません。かなえを、娘をよろしくお願いします」
「は、へ?」
かなえがこの場に居たとしたら何と言っただろうか? 何て顔をしてる、か。或いはお母さん、何を言ってるの? だろうか。
「私、三十代の内に娘が嫁ぐところが見られるとは思いませんでした」
混乱する海里を他所に、螺矢はきゃっきゃとはしゃいでいる。特別な瞳は、何か視えないものでも捉えているのだろうか。その台詞に違和感やら、とんでもないものやらを海里は聴いたような気がした。が、今はそれどころではない。
「ちょ、ちょっと、螺矢さん?」
がばっと、その腕を引き剥がして海里は丸椅子に腰掛けて距離を取った。
「どうしましたか。お義母さん、と呼んでくれていいんですよ?」
にこにこと嬉しそうな表情を浮かべるこの女性に、何と返せばよかったのか。先日、かなえには言い表せない程の恩を受けたところではあるが、伝えるべきは伝えねばなるまい。
「あの、俺、将来を誓おうとしてる女性が別におりまして……」
口にして、何とも居心地の悪さを覚えてしまう。海里にしてみれば、既にパートナーはナナで決まっている。それどころか、かなえ本人を抜きにこんな話題が出てしまっては、蹴られるだけでは済まない気がしてしまう。
そして思い出す。今朝、携帯にナナから連絡が入ったが、返事ができていない、と。尚のこと罪悪感に苛まれてしまった。
「まぁ、そうでしたか……」
あらあらと頬に手を当て、螺矢は眼を細くする。何故こんなことになった、とは最早問わないが、海里は相手が落ち着いたことに安堵しかけていた。
「カイリさん、女性二人を養うのは、結構大変ですよ?」
ガン――盛大な音を立てて、海里はベッドの淵に頭をぶつけていた。何故、こんなことになったのだろうか。
“娘をよろしくお願いします”という再度の言葉を耳にしながら、お屋敷の鍵を握り締めていた。