エピローグ
十二月二十四日――
「……痛い」
昼下がり、魔女のお屋敷で顔をしかめて一人ぼやく丸眼鏡。
口にしてどうなるものでもないが、ともかく左手が痛い。手指を閉じたり開いたりしても、やはり変わらない。唸る下僕を、かなえは半ば呆れかえった表情で見つめていた。
「痛いのは当然だろうが……むしろ、骨が折れなかったことを感謝するところだぞ?」
魔女が眉を顰めるのも無理はない。
獣との最後は真っ向勝負だった。刀も何もかもかなぐり捨てて、全速力で突進をするサキに対して、海里は全く反応ができなかった。
「でも、勝ったぞ!」
「でも、じゃない。たまたまだ、偶然だ、悪運だ! あの状況下でどうしてあんな選択肢を取るんだよ、お前は?」
はぁ、と大仰に溜息を魔女は吐いた。知人友人としてではなく、瞳の使い方を指導してきた魔女としてかなえは落ち込んでいる。
最後の最後で、“ともかくぶん殴る”こんな命令を自身に入力する短絡的な下僕には、ほとほと愛想が尽きそうになった。腕を突き出したタイミングが良く、速度の乗った相手へ突き立ったから一撃で相手が沈んだというもの。
「自業自得だ、バカ。よりによって、グローブを嵌めていない左手を突き出すなど、正気の沙汰では――」
悪態を吐く台詞の途中で、かなえは止まった。もしも――などはあり得ない話であるが、右手を突き出していた場合、サキはどうなっていたのか?
そもそも、なぜグローブを片方だけ身に付けていたのか。否、それ以前に倒れる前に受けた斬撃もグローブを納めたカバンがあったために防げていた。腹に突き立った小刀は内臓を外れており、致命傷足り得ない――
「待て待て、お前、全ては計算尽くだったとか言うのか?」
「……え、計算?」
「よし、黙れ。お前が何も考えていないということはわかった!」
半ば自棄になったように、魔女は会話を打ち切った。多少はまともな顔つきになったかと思えば、いつものなんとも言えない表情を従僕は浮かべていた。
かなえは頭痛を堪えるためにこめかみを押す。手で顔を覆いながら、状況を整理し始めた。
『計算ではない――ならばやはり無意識の内に瞳を使っているということか。結局、瞳術を使いこなせてないってことに変わりはないじゃないか』
「俺、何か悪いことした?」
左手をさすりながら、海里はかなえの顔を覗き込む。背丈は大きい癖に、妙なところで気が小さい。
「……いや、お前は悪くないさ。単に私の力量不足、だよ。取りあえず腹が減ったから、何か作れ」
「おう、適当に作るわ」
かなえとは対称的に、何も考えていないような様子で海里は厨房へと向かった。
頭痛の止まない魔女は、一先ず海里の瞳については先送りをすることに決める。物を破壊するのは得意だが、人を育てることがこれ程難しいとは……亡き師が優れた指導者であったことを、今更ながら再認識していた。
特に大したことを話すでもなく、食事は終わった。砂糖が底に溜まる程入れられた紅茶を口に、かなえはぼんやりと目の前の青年を見ていた。
「時に、ミナトは平気なのか?」
「ああ、治療はもう終わったってよ。さっきメール入ってたわ。お姉ちゃんも診てもらった先生だって言うから、誰かと思えば……うちのジイさんの友達だった」
一度持ち上げた紅茶のカップをソーサーへと戻し、海里が答える。どうやら、その医師にも面識があるような口ぶりである。
「ほぉ、だからミナトは最初にオオジジ殿のところに電話していたのか」
合点が行った――というか、大凡の見立てどおりであったと確認ができた。不可思議な事件の連続に見えて、衣新奈に端を発した桐野湊の物語であったと理解をする。一連のつながりが見えれば、不思議でも何でもないものだ。
「それにしても、一年以上眠り続けたのに駆けつけたお姉さんも凄いけど、ナナも随分タフだよな」
「ま、それがやつらの特徴というか、能力みたいなもんだからな」
従僕に同意しながら、少女は決戦のその後を思い返していた。
負けた側は勿論、勝った側もボロボロになっていた。気絶している獣が二人に、動けない魔女と腹に小刀がささったままの海里。五体満足なのは、病み上がりの湊の姉一人。どうやって運ぶか、争いそのものよりも後始末の方が随分と手間がかかったとかなえは記憶している。
「しかしなんだ、お前、お嬢様だったんだな」
「兄の代わりを頼んだ時に、うちの家系については説明したろ……何を聴いてたのやら」
間の抜けた顔で海里は、彼女にとって当たり前の言葉を繰り返していた。やれやれ、と魔女は首を振る。
海里が驚いたのも無理はない。結局、軽スポーツカーでは運び切れないとわかった時点で、かなえは携帯を取り出していた。待つこと三分。立派な黒塗りの車が現れ、制服に身を包んだ男が颯爽と姿を見せた。一人は怪我人を詰め込んで黒塗りの車を運転し、もう一人は魔女の車の運転代行をしていた。
「いや、聴いてない訳じゃないけど、実際みると違うというか」
ぽりぽりと頬を掻きながら、海里は苦笑いを浮かべていた。実際に、かなえの部下? に助けられていてはそれ以上言葉もないようだった。
「ま、うちの話なんかどうでもいいんだよ。それよりもお前、ミナトにプレゼントは用意しているのか?」
「プレゼントって……この間、指輪をあげたところじゃないか?」
心底わからないといった表情で、朴念仁は問い返していた。これには、少女も消えた筈の頭痛を思い出すというもの。
「あのな、お前今日が何の日だと――まぁいい、ほれ」
こめかみを押さえる動作を一度はしてみたものの、かなえは言葉を切る。そして、海里に向かって何かを放り投げた。
「え、何、くれるの?」
海里の手元には車の鍵が納まっていた。
「それは貸してやるだけ。本命はこっちだ」
「紙? って、お前これ……」
渡された紙は、コピー用紙。その紙面には、隣町の高級ホテル二名分の予約が印字されている。海里は今日がクリスマスイブだということは重々承知している。その上で、この時期にディナー込みの宿泊券が贈られることに、目を丸くした。
「ミナトもそれなりに頑張ったからな。ま、塩を送ってやるよ。今から車飛ばしたら、アレを迎えにいっても何とかディナーには間に合うだろ?」
トランクに服は積んである、とかなえはそっぽを向いて告げる。心なしか、徐々に不機嫌になっているように海里には見えた。
「いや、でも……」
「嫌だ? なら返せ。私が行くから」
「え、お前クリスマス一緒に過ごす相手いたの?」
「いるか、バカ! 独りで二人分楽しむんだよ、このたわけ!!」
酷く大きな声でかなえは怒鳴る。苛立っていることは、海里の見間違いではない。ここに来て煮え切らない態度の従僕に、不機嫌さの拍車が増していく。
「いやいや、貰う、貰います、ください!」
よくはわからないが、かなえの怒声が見るに耐えず、いつの間にか海里は首を縦に振っていた。時計を見ると、時間にさして余裕がないことが理解される。高速を飛ばして二時間足らずでナナを迎えに行き、往復――本当に余裕はない。
そうと決まれば、海里は先の争いでボロボロになったコートを引っ掴んですぐさま立ち上がる。
「カイリ――」
その姿は視界に収めることをせず、かなえは呟いた。
「何だよ」
「これ、貸しだからな。高いぞ、利息を払いに今後も顔を見せること。いいな?」
明後日の方向見たまま告げる彼女に何と返したものか――海里は一度逡巡したものの、相手の眼を見てハッキリ言葉を紡いだ。
「当たり前だろ? 俺はお屋敷の魔女の僕なんだから」
その台詞を聴いて、少女は一瞬はっとしたような表情を浮かべる。だが、すぐさまそれを振り払うように、いつもの魔女らしい表情を浮かべた。
「痛っ――」
景気づけなのか、激励なのか、目に見えない蹴りが海里の尻を叩く。これまでの様子から一変して、かなえは豪快に笑っていた。
「がははは、聴くまでもなかったな……とっとと行って来い」
「んだよ、言われなくてもいくよ。じゃ、また明日な?」
首をゴキリと一つ鳴らして、海里はお屋敷を後にする。
いろいろと理解が追いつかないことだらけであった。
指輪をプレゼントしたばかりなのにまだ必要なのか、とか。いやでも、世間一般ではクリスマスには贈り物するらしいしな、とか。きちんとプレゼント手渡せてないな、などと考えればきりがない。
「ん、メールか?」
軽スポーツカーのエンジンをかけようかというところで、携帯電話が震えていた。
『因みに、ホテルを押さえるところまでがプレゼントなので、代金はお前持ちだ。メリークリスマス』
「……いや、別に代金は構わんが」
この時期の相場を知らない海里は、気楽にメールのスクロールバーに触れる。
『追伸、ハイヤー代とかも、頼むな。あの人達にただ働きさせたくないから』
「いや、別に、代金は……」
更にメールを進めて、海里は言葉を失った。現れた金額は彼の想像以上で、一、十、百、千、万、十――と数えたところで表情も失っていた。
「ふざけんな、あの魔女!!」
先日手にした謝礼すらもふっ飛ぶ金額には、流石に彼の理性も消し飛んでいた。時計を見やれば、抗議に戻る時間すら惜しまれる。舌打ちを一つしては、アクセルをやや強めに踏み込んでいた。
犬養海里の苦悩は、今しばらくは続く。