4.バカは叫ぶ!――瞳に映るもの
声もなく、海里は倒れゆく。自身が枯れた狼に蹴上げられる様を、他人事のように眺めていた。ごく僅かな時間の出来事であったが、緩慢に時間が流れていくようであった。
『こいつには、勝てないのか……』
やはり、当然、思い上がり――これまでに何度も打ち消してきた言葉が、耳に鳴り響く言葉が、再び彼へと染み渡る。
小刀が腹に突き刺さったことを自覚し、為す術なく倒れゆく。パートナーすら率いれない三流犬使いには、本物の妖と渡り歩くなどは荷が勝ち過ぎていたのか?
その問いに、答える者はいない。
虚勢を張り、これまで生きてきたが、ここまでか――やはり、他人事のように刃が迫る様を見ていた。
『俺のような、こんな生き物が、そもそも誰かの役に立とうとしたことが――』
間違いだった? 否定はできないが、認めたくもない。
「――――っ」
何事かが眼前の狼から発せられ、刃が振り抜かれた。その衝撃に、身は固くなるばかり。今際の際、近しい人たちの顔が浮かんでは消える。
『ナナ、かなえ、ジイさん、すまない』
情けないことこの上ない。仇も仕返しもできなければ、見返すことも守ることもできない。関わりのあった、少数の人たちの笑顔が零れていく。
『……こいつ、誰だ?』
全てが零れ落ちた時、最後に残ったものは誰だったか。近すぎて見えなかったその顔を、意識が途切れる中、海里は真正面から見据えていた。
カチャリ――振るった長巻が鳴った。
鍔の音に隠れて狼は舌打ちする。前回は動きを止められ、今回は顔面を打たれた上に投げられた。不意を突かれたとは言え、これまで歯牙にもかけてこなかった相手だ。それも、犬を連れていない犬使い相手にこの様とは……
元より、精神操作を受けないために犬養影次から“妖を討て”という命令を受けた筈だ。それが何故か、青臭い小僧に停止命令を受けた。命令の上書きなど聴いたこともない――なればこそ、その憂いを断つために再戦をしたというもの。
「くそっ――」
およそいつもの丁寧な口調とはかけ離れた言葉を吐いて、狼は倒れた男を睨む。お互いの手の内は読み切っている筈。加えて身体能力は遥かに自身の方が優ると雹は認識をしている。だが、次に戦うことがあれば地面を這うのは己になるのではないか?
犬を連れもしない犬使いに敗れる。これまでに考えにも浮かばなかった脅威に、焦燥が募る。それを打ち消すように雹は頭を振った。
「癪だが、今の内に殺しておかねば」
再度刀を鳴らし、切っ先をそれへと向けた。殺しても死なない生き物であることは、これまでの異能たちとの戦いを見て知っている。念入りに、殺す。
「――おい、やめろバカ」
「!?」
音のした方へと雹は首を向けた。懐かしさに、身が引き裂かれるような想いを受ける。
「そこの男は、私の弟になるのかもしれないんだぞ?」
毅然とした、自信に溢れた声と立ち姿。夢の続きを見せられているのかと、妹へ視線を投げたが、当の本人は気を失ったままでいる。とどのつまり、目の前にいるのは本物の――
「アユミお嬢さん……」
目を丸くする獣の姿に、彼の真の主は面倒そうに頭を掻いた。粗雑な素振りであるというのに、彼女がするそれは不恰好には見えない。
「お嬢さんじゃない。久々に会ったというのに……雹、あんた何も変わってないじゃないか」
むしろ悪化している。言葉を付け足した歩は、犬歯を剥き出しにして雹を睨んだ。
「……」
相手が何を言っているかが理解できずに、男は押し黙った。自らが刃を突き立てた相手に、今更何を言えようか?
「黙り込んでしまうか」
雹の視線を追った歩は、妹の惨状にも気づいている。だが、言葉に怒りの色はない。むしろ、イタズラがバレて黙る子どもを見るそれに似ていた。
「俺は……」
何と歩に伝えたらよいか、やはり言葉は浮かばない。その状況を打破するためにではないが、獣の当主は口を開いた。
「ミナトのことは、この際いい。あれでも桐野の娘だ」
それよりも、と歩は続ける。
「あんたは一度、完膚無きまでにぶっ倒された方がいいかもしれない」
少し、落胆したように言葉が告げられた。それに反応するように、雹は一度は身構えたが、歩は拳を固める素振りも見せはしない。
「……私にじゃない。雹が弱いと思っている人間に、言い訳も出来ない程、負けてしまえばいい」
その口振りも、理解できなかった。だが、思考のために視線を這わせた雹は戦慄した。倒れた筈の男が、ゆっくりと、その身を起こそうとしているではないか。
「何故――」
気が動転していたのだろう。実に初歩的なことに気づかなかった。今起き上がろうとしている男は、短刀を受けた腹こそ朱に染めているが、刃を通した箇所からは血の一滴も零れてはいなかった。
「さて、何故でしょうか」
歩は瞳を閉じて、獣へ問い返す。
一、犬養海里は斬られても死なない――あり得ない。脆弱な人間は、斬られれば、死ぬ。
二、知らずの内に手加減をしていた――あり得ない訳ではないが、整合性が取れない。
三、刃を振り抜いたつもりになっていた――――
「お前は、誰だ?」
海里は胡乱な頭のまま、問う。答えが返って来るとはとても思えない。何故なら、彼が今見ているのは、幼き日の自分自身だからだ。
忘れていた――否、ようやく忘れられた記憶に直面している。この日は、父が遊園地に連れて行ってくれる約束だった。だが、一本の電話を受け、父は約束を次に延ばすと言った。
幼い千里は、このことを覚えてもいない。元より妖、異能、不可解な事件を耳にしては飛び回っていたのが父だ。家にはほとんど戻らず、千里の記憶にも残っていない。だから海里は、父が妹を構ってやれないことを怒っていた。
「どうして、お父さん!」
目には涙を溜めて、少年は叫んだ。家族よりも、小さな妹よりも、困っている人が大事なのか――と。
それに対して、父は何と言ったか。別れ際、海里は父を強く瞳で睨みつけたということだけは忘れずにいた。次に見た父は、物言わぬ躯になっていた。瞳で父を縛り付けた――この認識がこびりついて消えない。
『お前が、父親を殺した』
何度否定しても、耳鳴りのようにこのフレーズが頭から離れない。消せる訳がない。この声を発しているのは他でもない、海里自身だからだ。
その後、実力不足とはわかっているが、父の代わりを果たすために必死になった。だが、結局はこの様だ。ただ奔走しただけで、何も為してはいない。人殺しが、人の役に立つことなど――
「眼を、逸らすな」
己を否定する声とは別の声がした。幼くも思えるが、厳しい口調だ。この声の主のことは、よく知っている。
「お前自身が作り上げた認識に呑まれてどうする? そんな認識に苛まれてくれるな」
再度、その厳しい人物は海里少年に告げる。
「バカには違いないが、もう少し可愛げのあるバカだろ、お前は。罪悪感に呑まれ、己を矮小化させるようなバカに、お屋敷の魔女は力を貸したつもりはない」
「だって、お前……」
「だってじゃない。失望させてくれるな、カイリ。お前は私にはないものがある。不条理の中、開き直るしかなかった私にはないものだ」
これ以上なく、かなえの言葉が胸にささる。
「お前は曲がりなりにも、犬養としての役割を果たそうとしてきた。ジイさんとの関係すら、自分から変えようとしたんだ。お前は、自分の認識を変えられる」
「……どうして、お前はそんなに俺に言葉をくれる?」
いつも気怠そうにしている魔女が、ここまで熱く言葉を贈る。胸に込み上げるものがあるが、やはり己を否定すべき言葉が耳から離れてはくれない。
「私はさ、人間が好きなんだよ。人を憂うことができる、人間がな」
「人を、憂う?」
――言葉遊びだがな。そんな言葉が、ふと思い出された。この言葉をくれたのは、かなえではない。
「前にも言ったが、人の目を見ないのはお前の悪い癖だ。一度きちんと見てみろ。そして、最初に信じたままにやってみせろ」
この言葉を最後に、かなえの声は聞こえなくなる。代わりに、微睡んだ意識の中、記憶が巻き戻された。
「どうして、お父さん!」
叫んだ少年に、父は何と答えた? あの日の父はどんな顔をしていた?
「ごめんな、海里。哀しんでいる人がいるから、遊園地はまた今度だ」
心底申し訳なさそうにコウイチは呟いた。だがその態度に卑屈さは欠片もない。瞳は逸らすことなく、息子へと向けている。
「犬養でなくてもいいのかもしれない。だけど、犬養の人間が行く方が、早くその哀しみを止められる……お前も、犬養の男なら――いや、僕の息子なら、いつかわかってくれると思う。人を憂う、優しい人になってくれると信じているよ」
――言葉遊びだけどな。呟いた父は、優しい笑みを浮かべる。そして、少年の頭を撫でた。
「何故、立つ?」
海里を斬り伏せ、勝利を納めた――その筈だった。自らが斬った歩が目の前に現れ、斬り伏せた筈の男が再び立ち上がる――雹は己の理解を越える事柄に戸惑いを隠せない。
「……寝ていたら、怒るやつがいるからだよ」
呟く海里は、視線を神社の外へとやっていた。語る間も、頭はゆらゆらと揺れている。立ち上がったものの、足取りは心許なく、万全ではないことが一目でわかる。
「魔女の力、ですか」
納得がいった様子で、雹は呟いた。同時に、表情からは関心が既に失われている。
「いや? これも俺の力だ」
「……何と浅ましい」
ギリ――と、歯を打ち鳴らし、獣は刀を構え直す。海里が吐いた言葉は詭弁の他ない。他人のものを己の力と言い張るその醜悪さに、雹は怒りすら覚えた。
「その青臭い言葉を遺言に、消えろ!」
躊躇がこれまであったのかもしれない。歩とのやり取りすら否定して、力一杯に頭上から刀を振り抜いた。
だが、手応えはなく、刃は空を切った。刃はふらりと揺れる頭に触れることなく躱される。
「ちっ!」
ふらつきに救われたかと、続き横薙ぎに刀を振るう。今度は手応えがあった――だが、何かに阻まれて、振り抜くことは能わず。
ガインという金属音だけがその場に響いた。
「何をした? 否――お前は、何を、視ている?」
刀が止まり、動きが止まり、ゆらゆらと揺れる男と目があった。いつもの丸眼鏡は落ちて、その眼を覆うものは何もない。
狼は見た。お屋敷の魔女が如く、燃えるその瞳を――――
『答えは至極シンプルなものだ』
これまでにない程クリアになった頭に、かなえの声が響いた。随分遅れたが、今ならば海里にも理解ができる。
目の前の獣は確かに恐ろしい存在だ。だが、必要以上に恐れることはない。唐竹に放たれる刃の軌道は既に視えている。
『そう、非常にシンプル。犬養海里の瞳が有する能力は、絶対命令ではなかったのさ』
刃が通過するラインが視えれば、どこをどう通るかがわかっている。故に、速さは必要としない。身体に力が入らずとも対処できる。彼が瞳に収めた映像は、限りなく予知に近いものと言っていい。
続いて横薙ぎに払われる刃は、相手の焦りから十分な力が込められていないことが視えている。避ける必要もない――先程斬り伏せられなかった手甲で止められる。
予見した通り、右手に嵌まった金属片が音を立てるが、刃を通すことはしない。
「何をした? 否――お前は、何を、視ている?」
刀が止まり、動きが止まり、男は海里の瞳を直視した。
『勿体ないが教えてやるか?』
響くのは声だけだというのに、底意地悪そうに嗤うかなえの姿すら視えるようだった。だが、それには特に答えずに海里は眼前の獣を視界に収める。睨むでもなく、漠然と全体を見据えている。
「俺が視ているものは、お前にも見えているものだ」
「たわけたことを!」
強引に刀を振るい、獣は距離を取る。瞬間、その存在を希薄化させる――擬態とでも言うべき、雹の能力だ。風景に溶け込んだ獣は、殺気すら隠して相手の死角を突く。
『そう、単に眼前の情報を読み取っているだけだ。だが、犬養家の血がそれだけでは終わらせない』
かなえは頭の中で饒舌に語る。他人の意識に現れておきながら、ふんぞり返り、足を組んでいる様すら浮かぶ。
「幾ら景色に溶け込もうと、お前の存在がなくなる訳じゃないんだ」
呟き、半身を捻れば、そこを刃が通過する。
『その通り、奴はそこに居る。そして、犬養には獣に関する知識がその血に連綿と受け継がれている。正しく情報を読み取ることができれば、サキ程度の獣の一挙手一投足、その全ては事前にわかろうものだ』
「……バカな、こんな、青臭いだけの小僧に」
勿論、かなえの声はサキへは届いていない。不可視の斬撃、その悉くが放たれる前から躱される――この不可思議な現象を、獣は認められず呻いた。
『絶対命令なんか、お前にとっては副産物に過ぎなかったな。ほれ、常識外の力なぞ、望まなくとも既に持っているじゃないか。見識とでも言うべき、対獣に特化した能力。喜べカイリ、お前は紛れもなく優秀な犬養の嫡男だよ』
サキへ聞こえていないことをこれ幸いとばかりに、海里はかなえの言葉を無視していた。ここまで褒められると、照れくさいを通り越して居心地の悪さすら覚える。
「まぁ、青臭いってのは認めるけどさ――俺は、それでいい。このままでいい」
ふらつきが返って良かったのか、海里は力まずに天敵を見据えた。今ならハッキリと言える。自分が何を目指していたか。
「誰か哀しむ人がいたら、そいつを憂う。それが、俺が目指してきた人の姿なんだよ」
早くに逝ってしまった父親の代わりになることばかりを目指してきた。だが、父は獣を狩ることに執心したのではない。
「それこそ偽善だ! そんなことをして、貴方に何が残る!」
「何が残る、か……」
ありとあらゆる攻撃が躱される中でも、サキは怯まない。この少年が掲げる理想は、自分が切り捨ててきたものだ。ここで引いては、己の生き方、存在の全てから意味が消失する。
彼は獣を屠る刃としての生き方しか知らない。誰を裏切ったとしても、己の生き方を裏切ることは、出来ない。
更に手数を、速さを増して、獣は駆ける――その瞳には、これまでになく感情らしい感情が顕れていた。
「少なくとも、哀しい想いをする人は減るじゃないか。俺はな、泣いてる人間を見るのが不快なんだよ!」
「な――」
一瞬、獣は言葉を失った。最大限まで速度を上げた足すら止めて、バカな言葉を吐き続ける男を正面に見据える。
「ようやく、正面に出たか」
相変わらずふらふらと揺れる海里は、それでも笑みを浮かべていた。
「こいつは……」
サキは再び正面に海里を捉えた。青臭いと思っていたが、そうではない。こいつは、ガキそのものだ。子どものまま、大人になりやがった――益々、狼は引くことができない。ガキの戯言こそ、彼が最初に斬り伏せたものだから。
「なんて、なんてガキなんですか! 私は、俺は、貴様を認めない!」
『がはははは、見ろカイリ。あのサキがこれ程ムキになるとはな』
かなえの言う通り、目の前の獣が憎悪ではなく、真正面から犬養海里という人間にぶつかろうしていることが理解できる。これは、どちらが間違っているかではなく、単なる意地の張り合いだ。
「言ってくれるじゃねぇか、サキ。自己満足かもしれないが、これがイヌカイの生き方だ。そしてそれは、誰にも嗤わせない!」
力が籠らない海里であったが、ここに来てサキへと歩みを進め始めた。
「俺の生き方は、褒められたもんじゃないかもしれない。身の回りの人間に心配をかけるしな。でも、俺を信じる人間には、堂々と顔向けの出来る生き方だ!」
「何を、開き直って……」
サキにすれば、この青年の言葉はとうに論破してきたものだ。そもそも、その生き方は破綻している。だというのに、どうして足はこの男から下がろうとしてしまうのか。
「ヒョウ――」
それまで黙っていた闖入者が、口を開いた。毅然とした、だが優しい声音でそれは告げられる。
「私が背負って帰るから、安心して負けておいで」
「……お嬢さんには、敵いませんね」
裏切りの限りを尽くした自分を、この女は許すという。最早、これ以上この人を裏切る訳にはいかない。引く訳には、いかない。
これはもう意地の張り合いなのだ。引いた瞬間に、負けが決まる。また、言葉を否定するだけで、この男を斬り伏せて終わらせたところで、勝ったことにはならないと確信をした。
カシャンと、刀が地面を打つ音が響く。それを置き去りにして、獣の青年は駆けた。
『さて、あのお嬢さんの言う通りだ。勝ってこい、カイリ』
そして、声は海里の中から消失する。リンクが切れ、鈍っていた腹の痛みがぶり返し、視界は弾けるように歪んだ。これまで当然に出来ていた予見は、頭にモヤがかかってとても出来たものではない。
サキも拳を振り上げて、海里へと立ち向かって来ている。色々気に喰わないことはあるし、鉱崎の件は許すつもりはない――だが、こうして同じ舞台に上がった相手を、海里は許すことに決めていた。
後は、この男に勝ちたい。ただその想いに引き摺られて身体は動いていた。
「ま、最後はこれだな」
カチャリ――ポケットの中で、父の形見であるジッポに触れる。結局は、これが犬養海里の戦い方なのだろう。刀を捨て、拳を振りかぶった狼を、海里は睨む。
「サキ――俺の、勝ちだっ!!!」
思えば、繰り返し行った命令の中でも、何かに勝つために行使したのは、初めてかもしれない。それは、祈りに似ている。
自身を奮い立たせてくれた全てへ告げるよう、その人たちの期待へ応えるよう、海里はあらん限りの声で叫んだ。