4.バカは叫ぶ!
「つまり、どういうことだ?」
車のエンジンをかけながら、海里はシートベルトを締めようとしている人物へ問うた。あまり時間が経つとマズいが、そう慌てずともよい、とかなえは言っている。
「サキは、ミナトの兄代わりだそうだ」
「……初耳だ」
「そらそうだろうよ。ミナトが記憶を取り戻したのはつい最近、先日ようやく探していた犬を見つけたところなんだ。お前に話している暇はあるまい――て、何て顔しとるか」
何とも言えない表情を浮かべる海里に向けて、かなえは渋い表情を返していた。湊の過去を聴いていない彼にしてみれば当然のことだが、魔女としては面白くない。
「掻い摘んで言うと、あいつも獣の末裔ってことだ。姉が死にかけて、飛び出して行ったサキを追っかけてるんだってよ。後の細かいことは、本人から聴くように」
実に簡潔な説明だった。簡潔過ぎて、海里はどう理解をすればいいのかもわからない。
「掻い摘み過ぎだろう……」
取り敢えずは力なくツッコミを入れて、アクセルを踏み込んだ。まずは湊に追いつかねば、話にもならない。横目でかなえの様子を伺うと、目を瞑っている。最早湊についての興味は失われているのか、これ以上口を開くこともないだろう。
「で、どちらまで?」
「お前が衣新奈を巡って、男とやりあったところ辺り」
多分な、と答えるかなえへは視線を送らず、海里は運転に集中することにした。目指すは神社――ただしかなえが神社とハッキリ言わないことからして、神社その付近と目星がつけられる。
「ああ、それは見たことがあります」
狼から放たれた刀剣の三擲目を見送りながら、湊は呟いた。軌道は彼女の視線の先を通過している。零れたものは、呟きにしては些か大きな声だった。彼女自身、大きな声であることを自覚している。
「なんだそれは……」
狼は、呻く。
相手が駆けて来た直線上に刃を一本投じた。これは躱されることが前提だった。だが、その布石を物ともせず、膝狙いの二投目、致命傷を狙った三投目が悉く躱されている。
「一体、何でしょうね」
くふふ、と怪しげに獣の少女は嗤う。決して勝てない相手であろうと、カラクリに気づかれていないということは、幾分か愉快なものだ。
「賢しいな!」
更に懐から短刀を引き抜き、狼は吠える――だが、それすらも少女は見て取っていた。
「利きませんっ」
軽やかに――そんな言葉が似合う程少女は肉薄するそれらをいなしてみせる。実際、直線移動をする刀剣を避けることは非常に容易い。口にするまでもないことではあるが、敢えて煽るために言葉を紡ぐ。相手はまだこちらの仕掛けに気づいていない。出来うる限り、この隙に攻めさせるべきだ。
「よん、ご、ろく……」
湊は小声でカウントをしながら、身を捻った。変わらず、相手は懐から短刀を引き抜き続ける。既にやろうと思えば距離が詰められる。だが、敢えて彼女は距離を取った。この距離を保つ限りは、相手の選択肢に投擲が含まれてくる。
「何を企んでいるかと思えば、時間稼ぎ、か。湊、未だに貴女はあの男を信じようとしているのですか」
つまらないとでも言うべき、冷めた表情で男は妹分を睨んだ。煽りに対して、些か素直すぎるかとも思える返答であるが、直情的な少女に対しては、十分すぎるとも思われる。
幾ら投擲を防ごうが、時間を稼ごうが、狼には牙代わりの刃がある。人間をなます切りにするには過ぎる程の刃がある。幾ら時を稼ごうが、駆けつける人物にこの状況を覆すすべは、ない。
だが、それが全てだろうか?
「……つまらんのう」
「何を、言っている?」
この状況の中、少女は口元を釣り上げ嗤った。目の前の男はいつまで経っても、あの日の妹の姿しか見ていない。それがおかしくて笑えてくる。
「魔女の真似か?」
狼は次なる短刀を控えつつ、一歩を踏み出しては湊との距離を詰めた。投擲で動きを止めることは既に辞めた。腰にした刃を振るえば全てが終わる。惚れた女――幾ら願もうとも手には出来なかった女によく似た顔で嗤われる――そいつは癪に障る。
獣は血を滾らせながら一連の動作が淀みなく働くことを見送っていた――あまりにスムーズ過ぎて、誘いに乗せられているとは気づきもしない。
「いただきです」
パン――接近する男を前に、少女は柏手を打った。
「な――」
虚を突かれ、雹は身体の動きを止めるよう、脳に指令を送った。だが遅い。既に刀を振り下ろすという動作を受けた身体はそれを止めることは出来ない。
「ようこそ、忘却の彼方へ……」
女は嗤う。つい忘れていた、己が本分を――この身は獣としての爪も牙も持たない。であれば、獣を統率すべき桐野失格であろうか?
パートナーを信じることをこいつは嗤った。兄とはいえ、何も知らないこの男に嗤わせてはいけない。
少女は標的を強く睨む。
「う、ぁ……げっ」
緊迫した場には似つかわしくない、間の抜けた声が聞いて取れる。続き、くぐもった声が男の肺から絞り出された。第三者が見れば、見事に突き刺さった蹴り足の裁きに賛辞を送ったことであろう。
肉体的な強さがなければ、獣を統べることはならぬか――答えは、否である。
「お、前、アユミの――」
「久々のお姉ちゃんの香りはいかがでしたか? 記憶が呼び起こされましたか?」
カラカラと、湊は嗤い返す。その瞳はパートナーにも見せたことはない色に染まっていた。
「悪趣味だぞ、ミナトオォ!」
獣は吠える。古い記憶を呼び起こす香りを嗅がされ、一瞬たじろいでみせたが、雹は刀を杖にして拳を振るう。
「ぐぇ――」
既に抱き合える程に距離を詰めていた両者である。男からがむしゃらに振るわれた拳は必然、少女の腹へ深々と突き刺さった。ガードも間に合わない湊は、潰れたカエルのような声を上げつつも、兄を睨みつけた。
――瞬間、拳を振るった男は足を止めた。
「が――」
くぐもった声を挙げ、口元から飛沫を飛ばす。少女が受けたものと同程度の衝撃を受けたことに、驚愕していた。
「お前は何を、何をした!?」
口元を拭いながら、枯れた狼は吠える。強い言葉を吐いているものの、不理解に苛まれている。感覚を強制的に相手へと共有するすべがあるなど、理解できようか?
「さて、何でしょうね」
瞳を輝かせながら、湊は言葉を返していた。
香りによる記憶の再現、皮膚感覚の強制共有――これらは全て、少女が味わってきた異能の再現だ。全ては見様見真似であり、オリジナリティなど存在しない。だが、そのことの是非は問わない。
「次は、何が出ると思います?」
本人ですら忘れていたこの能力。桐野湊は、獣としての身体能力を売りとはしていない。本人の性格とは異なり、祖父同様に瞳から発せられる搦め手を得意とする。
以前にかなえの口から語られようとしていた、瞳のカラクリがここにある。
当人ですら忘れてしまった、大切な記憶。それを引き出す瞳を再現するために、少女は眼前の狼を強く睨んだ。