3.割れ響く鐘の様に、
魔女のお屋敷に、沈痛な空気が蔓延る。少なくとも、過去を語った湊にはそう感じられていた。
「結局、私が兄を――雹を焚き付けたのがいけなかったのだと思います」
強い獣との婚姻を姉が結ぼうという最中に起こった悲劇。語ることも憚られたが、これで、湊が持つものは全て語られた。姉は未だ眠り続けているし、匿ってもらった医師にも、いつ獣の追手がかかるかわからない。
だが、お屋敷の魔女の表情はあっけらかんとしていた。
「姉のことは残念だが、イマイチわからんな」
「はい。未だにわからな――ええっ!?」
湊は声を大にして、驚きを表現していた。目の前の人物は、一体何を聴いていたのか。自分が兄を唆 したから今の事態に陥っているというのに……
「あのなぁ、ミナト――」
魔女はこめかみを押さえながら唸る。湊からの観測事項は、決定的な情報が幾らか足りない。姉が刺されたという顛末、それはともかくとして、そこに至るまでの経緯がごっそりと抜けているのだ。それを己が悪かったと記憶を補完しているのが目の前の少女である。
「お前、はぁ……まぁ、いいや」
口をもごもごと動かしながらも、かなえは言葉にはしない。これは自分が言うべき言葉ではないと判断をしている。彼女が顔を右手で覆っている様を見て、湊は段々と不機嫌になっていく。魔女の右手に光る石が彼女には気に入らないらしい。
「あー……色々言いたいことはあるのだがな、取り敢えずは、だ」
かなえは右手の薬指を掴んだ後、左手で何かを放り投げる。
「え、何です? て、ええ!?」
投げられた物を手にして、湊は驚きの声を上げていた。その手には、先日かなえに持っていかれた螺旋状の指輪が納まっていた。
「なんだ、いらんのか?」
「いや、要ります。絶対に、要ります!」
首を素早くブンブンと振りながら、犬使いのパートナーは答えた。かなえが不服そうな顔をしているが、これは元から自分の物だ。湊は大事そうにその輪っかを握り締めた。
「……名乗ったら渡す約束だからな。それに、私に向けて選んでない石をもらっても、何の価値もないわ」
指輪の外れた手で、頬杖をつきながら魔女はぞんざいに言い放っていた。過去語りが終わってか、既に関心が失われたようで、眠たそうな目つきをしている。
「貰いましたからね! 絶対に返しませんからね!」
「ああ、うるさい。お前用に誂えたものに興味はないと言っておろうが! とっととその太い指にでもはめてしまえ」
魔女が嘆息交じりに語っている。湊はその様を見て、納得しようもなかったが、まずは指輪を嬉しそうに眺めていた。そして、いざその指へと輪っかを導いた。
「――え? あれ、何で? この、この!」
ふーーーん、と顔を真っ赤にして、少女は薬指に指輪をはめ込もうとしていた。だが、第一関節をかろうじて通ったそれは、ちっとも先へとは進まない。手を間違えたかと、右の薬指で再度チャレンジするが、結果は同じだった。
「は、填まらない!? 海里さんってば!」
顔を一層真っ赤にして、少女は叫ぶ。
「ふはははははっ! 笑ってしまうだろ? あのバカは指輪のサイズも計れんのかと思うよな?」
実際、私も最初はそう思っていた。かなえはそう言って言葉を続ける。
「それでサイズは合っている……後は自分で考えろ。わかった時、あの男の優しさに涙するといい」
ほらよ、と指輪のケースを放り投げる。未だ指輪がはまらない少女も、目の前に放り投げられた箱を両手で掴んで黙った。
「それよりもな、先程からお前の携帯が気になって仕方ないんだよ」
かなえの呟きに、少女はぎょっとする。いつの間にか眼帯を入れ替えた魔女は不遜に笑っていた。見やれば、湊の携帯のランプが点滅を繰り返している。
「え、あ、ああ――携帯、鳴ってました」
サイレントモードにしてカバンにしまっていたのがいけなかった。こうしている今も、着信を知らせるためにディスプレイは灯っている。
「え、これ……」
画面を見て、驚きに息を呑んだ。
「ほれ、とっとと出ろよ」
ニヤニヤと口角を上げる魔女を他所に、湊は携帯の通話ボタンを押した。画面には“お姉ちゃん”の文字が表示されている。
「私が敢えて渋い顔をしていたのも、いい加減わかったろ? と――」
続き、かなえの携帯が震え出した。元より電話がかかってくることが少ない彼女だが、見逃せ用もない人物からの電話に、一度咳払いをする。
「――何だ、イヌカイ?」
かなえは、やや慎重に第一声を放った。
苛立ち――を通り越して、やり場のない感情が煮えたぎる海里は、集中治療室を飛び出していた。祖父の傍にいたところで、自分ができることはない。むしろ、何も出来ないことに苛立ちが余計に募ってしまう。
「……くそ」
ため息とも文句とも判別できない声を上げながら、海里はある一室を見上げていた。
どうしてここに来たのかも、本人は気づいていない。三森螺矢と書かれたプレートを目にして、海里は歩を止めていた。ここで、何をしたいかなどという目的もない。だが、他に何もすべきことがない。気づけば、拳は扉をノックしていた。
「はい」
若々しい声に導かれて、海里は扉を開いた。
「あら、イヌカイさん」
文庫本を傍らに置いて、螺矢は来客者を招き入れた。肩に掛かったカーディガンを羽織り直し、目を細めている。
「あ、いや、用は特にないんです……」
問われる前から、海里は言い訳の様に言葉を並べていた。いざやってきたものの、この人物を前にしては嘘を吐きたくないと思ってしまう自分がいる。問われれば、腸が煮えくり返って、今にもすべてを壊したくなっていることを告げてしまいかねない。
「……イヌカイさん、ちょっとこちらへ」
先日のかなえがされたように、ちょいちょいと手招きをされている。まさか、自分へプレゼントなどあるまいと思いつつも、海里はそれに従ってベッドの傍へと移動をしていた。そして、既視感のあるような広げられた手――
「えいっ」
螺矢の呟きと共に、海里は頬を両サイドから押しつぶされていた。
「ふ、ふも」
声にならない音だけを溢して、海里は目を白黒とさせる。
「あーあー、男前が台無しですね」
カラカラと、螺矢は笑う。かなえとは似ても似つかぬ大人しさという印象を受けていたが、海里は今その記憶に修正を行った。人の間抜け面を見て笑うこの人は、間違いなくかなえの親だ!
「はい、イヌカイさん。馬鹿らしく思うでしょう?」
顔から手を離した螺矢は、真剣な顔つきをしていた。冗談のように行われる行為が、実はバカにしてのものではないとわかり、海里は表情を引き締め直す。
「……そんなものですよ、一時の感情なんて」
ふふっと、儚げに笑う姿を見て、海里は一瞬、これまでの事を忘れかけていた。それでも、動かぬ祖父の表情を思い出しては憤怒にかられる。
「何があったかはわかりませんが、大丈夫ですよ」
無遠慮に――否、無知なことこの上ない言葉が出された。身内が死にかけている海里としては、このような言葉を聴かされては心中穏やかでない――相手がこの人物でなければの話だが。頭を掻きながら、紡ぐべき言葉を必死に探す。
「大丈夫ったって、俺、もう何をしたらいいかわからないんですよ」
年上の女性を前に、海里は何に憚られることもなく愚痴を溢していた。その様すら、螺矢は笑って過ごしてみせる。
「状況がわからないから、何とも言えませんね」
おっとりとした表情は崩さず、螺矢はうーんと唸っている。透明な両目は、海里の姿をきちんと捉えてはいない。だが、語るべき言葉は既に見えていた。そうですね、という言葉の後、一拍をおいて続けられる。
「かなえを、信じなさい」
「――え?」
海里は間抜けな声を上げて、問い返していた。螺矢から出された言葉は、これまでになく力強いものだった。
「あの子は貴方を信頼しています。三森の女は、信頼を寄せる人に全力で応えるものですよ」
「はぁ……」
何と返してよいかわからず、海里は生返事をしていた。この人も、かなえと同じくして、自分には見えていない何かを視ているのではないかと思う。
「ほら、イヌカイさん、携帯がなってますよ」
「え?」
またしても間抜けな声を上げて、海里は懐を探った。携帯を掴めば、夕个の文字がディスプレイに浮かんでいる。
「そうですね、この後、かなえに電話すればいいと思いますよ?」
本当に先が見えているのではないかと疑いたくなるような言葉。いただいたそれに、ありがとうとだけ返して海里は病室を出た。
何故かはわからないが、救いのある知らせが届くと直感していた。夕个の電話に出る前だが、明るい状況が見えてくる錯覚に陥っている。
後は、かなえに電話をするだけか――海里は胸中で呟きながら、通話ボタンをプッシュした。