幕間
歩は止めない――
永らく、悪い夢を見ていたように思う。が、目覚めてしまえば何てことはない。
「まだ寝ていた方がいいと思うがな?」
髭の老人が心配顔を浮かべているが、私は首を横に振って答える。眼前の相手を思えば、もうしばしは横になっていた方がいいのかもしれないが、そういう訳にもいかない。
「先生、ありがとう」
「なんじゃ、礼とは珍しい」
「……お礼くらい言えるってば」
老人が怪訝な表情をしていることに、私のこめかみがピクリと動く。だが、今日のところは堪えることにした。思えば、この人には姉妹共々お世話になったものだ。
「もういくのか?」
先生はくどいくらいに確認をしてくる。寝てていいならいくらでも寝ていたい。それでも、目が覚めたからには動くべきだと私の細胞が喚いている。
「まぁ、放っておけないバカがいるから」
胸元を擦りながら、私は応える。ほんとに、バカは放っておくと何をしでかすかわからないので心配だ。
「妹か?」
「あれはあれで気になるバカだけど、他の誰かが何とかするでしょうよ――て、先生。さっきから質問攻めですね?」
「ああ、いや……」
老人は手で顔を庇いながら、幾分か後退した。知らずの内に犬歯を剥き出しにして、相手を睨んでいたらしい。一年程眠りこけたというのに、短気な性格は直らないようだ。
「それだけ元気があればよいか。永らく眠っておったのに、昨日の今日で動きだすとは……全く獣という奴は底が知れんな」
呆れたように呟く先生。黙ってやり過ごしていてもよかったが、短気な私はついつい訂正に走ってしまう。
「獣じゃなくて、私が凄いんだよ」
えっへん、と胸を張ってみせた。先生がアホの子を見る目をしているのは、何故だろうか。
「妹は、あの子は……先生に匿ってもらえただけで十分ですよ。環境が変われば大丈夫ですから」
気を取り直すために、私は瞳を閉じて断言する。妹は、私に比べると線が細いが、何とかやっていける。
「何故そこまで断言できるんじゃ?」
変わらず続く質問に少々辟易としながらも、恩に報いるために答えることにした。
「名前、ですよ。あの子には人が集まる願いが掛けてありますから」
一応、私と揃いの名前なんですよ? と告げても、先生はきょとんとした表情を崩さない。何だか、話して損した気分だ。
「じゃ、行きますよ。これ以上の質問は今度にしてくださいね」
私はジャケットを引っ掴んで、ベッドから降りた。少々不安だったが、身体は“動く”ということを忘れずにいてくれている。この分なら十分だろう――
「どこに行くかだけ、教えてくれ」
意識して犬歯を剥こうとしたが、『お前さんは孫みたいなもんだからな』と言われてしまっては、怒るに怒れない。
「……だから、バカな野郎のところですよ」
ボリボリと頭を掻きながら私は答える。様子を察してか、ジジイは愉快そうな笑みを浮かべていた。こうなるだろうから、答えたくなかったという。
あいつは卑下ばかりする、放っておいたら己を軽んじるバカだ。私に会わす顔がないと、自棄になっているかもしれない。全く、その程度で私が見放すと思っているなら、ニ、三発は蹴とばしてやらねばならないかと思う。
考えすぎて動けないだとか、半端すぎるだろうに。それこそ、中途半端なままでいるようなら、妹とまとめて蹴っ飛ばしてやらねばなるまい。
不在着信の募った携帯を手に、私は一歩を踏み出した。