2.誰がために。――語られるはその時
かなえは眼を見開いた。眼前の少女が語られた言葉に強烈な違和感を覚えたからだ。
「私には、姉がいます」
湊から出されたこの言葉には特に揺さぶられるものもなかった。以前海里から聴かされていた通りの言葉だ。だが、後に続いた台詞は魔女の予想を裏切るものだった。
「兄となるべき人がいたんです」
「そいつがサキ――否、雹なんだろ?」
「いいえ、違います」
思わず、魔女は眼を丸くした。これまでの彼女の動向、依頼、願いは、サキを彼女の兄と示していた筈だ。
「では、お前の兄とは……」
訝しがるかなえを前に、湊は一度瞳を閉じて思案する。その顔に浮かんでいるものは、恐ろしさでも嫌悪でもない。ただ、哀しい出来事があったことをその表情は語っている。
「兄となる予定だった人は、鎬生と言います。雹兄さん同様、狼の獣との混ざりもの。私の姉、アユミの婿になるには打ってつけの人でした……」
噛みしめるように湊は語る。若い獣たちが、最も人らしく生きられた時代を――
長閑な土地に甲高い声が響き渡る。
「ヒョーーーーウ!」
駆け寄ってきたのは、獣を束ねる桐野の次女――六歳になったばかりの湊だった。目の前の少年、雹に飛びついては一気にまくし立てる。
「あのねあのね――」
語られるは、今日一日にどんなことがあったか。取るに足らない出来事を並べる彼女は、満面の笑みを兄代わりへとぶつける。
「今日はよく遊びましたね」
少し歳の離れた少年――雹は、丁寧な言葉とともに少女の頭を撫でた。夕暮れ時、涼やかな風が吹く中、兄弟たちと過ごす時ばかりは穏やかであったと、湊は後から振り返ることになる。
桐野の家は獣の家系。本家と道を違えてからは、闘争に明け暮れることは減ったと湊は祖父から言い聞かされていた。とは言え、獣の家系に生まれたものは持って生まれた激しい気性に争いを余儀なくされる。いずれ訪れる闘争を前にしながら、幼い湊は未だ子どもらしく暮らせていた。
「こらこらミナト。私のヒョウに飛びかかるんじゃないよ」
「歩姉ちゃん!」
穏やかながら険のある声に、湊は背筋を伸ばした。今や、一族の中で蔑まれている彼女からすれば、味方である姉からの怒りが何よりも怖い。
「ほれほれ、さっさとヒョウから離れんしゃい」
歳も左程離れていない姉ながら、抗い難い。固まっている内に背中を蹴られかけたが、さらりと身を躱しては雹の前から位置をズラす。この視え過ぎる瞳こそが、一族から疎まれる理由――単純な身体の強さが獣には求められる。牙も爪も持たない湊は桐野としては落第もいいところであった。
大人が湊を蔑む中、歩は疎みもしない。同時に特別扱いもしてはいなかったが。とどのつまり、ただの姉と妹として接してくれている。
「もー、怒っちゃいやだよお姉ちゃん。ヒョウ兄ちゃんは私と遊んでくれてるだけだよ」
少年の背後へと回り、その隙間から姉を見る湊。彼女よりも少し背丈の高い少女は腕組みをして、鼻息を荒げながら睨み返していた。
「なーにがいやか! 妹と言えども、ヒョウはやらん!」
カッカッカ、と盛大に笑う少女を下から見上げる。この姉が豪快に笑う姿が、湊は好きだった。普段からよく見つめている姉だからこそ、背後から蹴られようが躱してみせる。祖父からの折檻もサラリと躱せれば何も言うことはないのだが……
「お嬢さん、その辺にしておいてください」
姉妹のやり取りを見守っていた雹は、困った様に頬を掻く。味方がいることに、気をよくした湊は上機嫌になっていた。が、そこへ再び姉の足が迫る。
「うっせぇ! 姉を越えることなどできないと、今からその身にしらしめておくのだ」
妹の背中に足をおいて、姉は相変わらずガハハと笑っている。桐野の家は古来より続く獣の家系。中でもこの嫡子――歩は一族を背負って進むものと期待がされている。
「お、お姉ちゃん痛いよ」
口にしているものとは裏腹に、幼い湊は笑顔でいた。彼女にしてみれば、この腹違いの姉が誇らしくてたまらない。歩の優秀さを疑うべくはどこにもない。だが、当主として男児を望む祖父は、新たな獣を望んだ。結果、生まれた湊は女児である上に、獣としての素養はなかった。
跡目争いという禍根だけを生んだ湊の誕生に、それまでも少なからずあった当主への遺恨は目に見えて膨らんだ。その軋轢から祖父の苛立ちが湊へと向かうことになる。――幼い頃は泣いてばかりだった。かなえへ語る途中、湊はこれまで繰り返す中で一層永くその瞳を閉じていた。
ここからしばらくの時が経つが、それでも姉は自分の味方であったと思う。
「あーもう、腹立つ!」
扉を開くなり、声を大にして歩は不機嫌さを顕わにする。怒りを掻き消そうとしているのであろうが、頭をブンブンと振ると却って血が上るのではないだろうか。切りそろえられた短い黒髪が揺れるのを湊は見送った。
「お姉ちゃん、苛立ってますね」
むむ、と眉根を寄せて妹は呟く。久々に顔を見たかと思えば、すぐさま毒づく姉の様に、何とはなしにため息をついてしまった。
「わかるー、ミナト? もう、本当に腹が立ってさー」
「はいはい、わからないけど、わかりますよ」
切れ長の瞳を更に尖らせながら、歩は不服そうに口をもごもごと動かしている。そんな姿を見て、湊はふっと口元に笑みを浮かべていた。二十歳を越えて、落ち着いたかと思っていたが、姉はまったく変わっていない。
「ミナトー、聴いてよー」
凛々しい表情とはかけ離れた、間延びした語尾。姉が怒っているにも関わらず、その場の空気は弛緩したようにやんわりとしている。
「はいはい、聴いていますよ」
浮かべた笑みは苦笑には違いないが、変わらない歩を見て、湊は久々に自分が笑っていたことに気づいた。
「ああ、お姉ちゃん、それは何と言いましょうか……」
粗方の説明を聴いて、今度は湊が口をもごもごと動かしていた。言葉にするのも憚られるが、これはハッキリと伝えねばなるまいか、とも思う。
「何よ、ミナトの癖に生意気な」
久々の姉貴風を肌に受けながらも、湊はこれまでの話を整理する。
姉が不機嫌な原因は、ある獣にあるらしい。本家と袂を分かってからは、獣同士での小競り合いが続いている。いずれも本家からは離れた家柄であるが、家同士の縄張り争いのようなもので、小さなものが頻発している状態だ。成人した歩は、桐野の旗頭として争いを納めに日々奔走している。
「やっぱり、八つ当たりなんじゃないかと思います」
「……何か言った?」
姉の睨みに、瞳を閉じて逃げる湊。一言口にしたものの、再度はとても言えたものではない。破竹の快進撃――かと思われた姉を止めた獣が原因で苛立っている、とは再度は言えない。
「あーーー、やっぱり腹が立つ!」
姉は鼻息を荒げて暴れている。それ以上追及されなかったことに、湊は安堵の笑みとともに、苦笑いを浮かべていた。
獣の血を引く湊から見ても、この姉は化け物の類にカテゴリーされる。実際に、歩が先陣に立ってからは桐野の支配領域は広がっていた。これまで消極的だった分家すらも奮い立たせるものがこの人物にはある。大人であろうが、男であろうが、この姉が地に伏せる姿を湊は想像できない。
そんな中、順調に領域を広げる中、一部停滞が続く地域があることが余計に目立つことになっていた。
「あーもう、士旺のやつらって何なの! 大した力もない癖にちょこちょこと噛みついて来やがってからに!」
鋭い犬歯を剥き出しにして、歩は唸った。周辺の獣の家系――仁木や碌瀬は早々に白旗を上げる中、彼女が口にした士旺は若い当主を立てて桐野に抗っていた。むしろ、姉以外の桐野の獣を返り討ちにしていると言っても過言ではない。
「お姉ちゃん、あんまり苛立つと精神衛生によくないです――ひょ!?」
台詞の途中であったが、頬を両サイドから掴まれて湊は発音もままならなくなってしまう。掴まれた口の端が痛く、抗議の声を上げようとするものの、荒ぶる姉は止まらない。
「丁寧語で生意気な言葉を吐くのは、この口かー!」
「ひはい、ひはいよ、おねえひゃん」
口から言葉よりも息を漏らして湊は抗議した。ようやく声を出しても、やはり姉は止まりそうにもない。小競り合いが激化していったことで、しばらく姉は雹に会えていないのだ。雹の丁寧な言葉遣いの移った湊を責めるのは、完全に八つ当たりだと思う。
「そうだ、アユミ姉ちゃん」
ふー、ふー、と息を吐く歩を前に、妹は役目を思い出していた。懐を探って、封筒を取り出す。十八になった頃から、離れていた祖父から届いた手紙だ。
「なによ、これ。ジジイも私に直接言えばいいものを」
ぶーぶー、と相変わらず悪態をつつきながら、歩はその手紙をひったくった。不承不承といった様子で文を読んでいた姉の表情が、次第に変わっていくことを、湊は見逃さなかった。
「……お姉ちゃん?」
久しぶりに会ったにも関わらず、姉はいつも通りだった。悪態こそつけど、いつでも朗らかな姉は、親戚一同から槍玉に挙げられる湊の癒しだ。しかし、手紙を読み進める程に、その表情は別人のように険しいものへと変わっていった。
「湊――私、どうしたらいいんだろうか」
いつでも自分に道を示してくれていた姉が、珍しく困惑している。手渡された祖父からの手紙。
「お姉ちゃん、これって……」
湊は言葉が続けられない。初めて中身を見た手紙には想像だにしない言葉が綴られていた。
『士旺の嫡子、鎬生と婚姻してもらう』
それで桐野は、向こう五十年の泰平を得られる――祖父からの手紙には、そう書かれていた。
「どうしよう……私、どうしたらいい?」
惑う姉に、湊は言葉を出せなかった。
「ジイさん!」
海里は病室に飛び込むなりに叫んだ。その声に、叔父と従妹が振り返る。大声を咎めるでもなく、視線を再び集中治療室の方へと黙って戻す。
孫の声に、祖父は答えない。ガラス張りの病室の中、チューブに繋がれた祖父の姿が彼の眼に映る。あれ程恐ろしかった祖父が、今にも消えてしまいそうな程、小さく見えた。呼吸はしているだろうに、微かにも動きはしない。海里はガラスに手を添え、睨んでいた。
「海里兄……」
「何が、どうなってんだよ」
ギリっと歯噛みをしながら夕个へと問う。自分の中で暴れ狂う感情に、やもすれば呑み込まれかねない。殺しても死なないような祖父が、眠らされていることもだが、何故こんなことになっているのか――人は理解の出来ないことに怒りを覚える。彼の心中は祖父への憎しみや、後悔の念が渦巻いている。
「ユウキが、教えてくれた」
物言わぬ怪犬が吠えて知らせたと、夕个は語る。それを聴けば、尚のことその不可解さが海里を焦燥に駆り立てる。ユウキが吠えてまで知らせた、その異常性にこれまで当たり前の考えに及ばなかった。
「……サキはどうした」
病室を見回しても祖父の片腕の姿は見られない。
「ここには……居ない。それが、全てでしょ、海里兄」
目元に手を当てた夕个の口から、ぽつぽつと言葉は語られた。事態を理解すると共に、海里は頭の芯が煮えたぎる想いに駆られる。
「そう、か」
彼もまた、言葉を切りながら口にする。夕个の表情を窺おうと首を動かしたが、ゼンマイの切れかけた玩具のように、ぎこちなく回った。病院で暴れ出すような、常識外れの行動は流石に取る訳にはいかない。
自分は感情が希薄なのだと思い込んでいた海里は、ただただ驚いていた。この激情は、とても抑えられるようなものではない。