1.その願いは、―少女の願い
十二月二十二日――話は昨日、鉱崎行交との闘争後に遡る。長身の男と少女が連れだって歩いていた。時刻は正午前、日はいつしか高くなっている。
「この辺りでいいだろう」
辺りを見回してから、男は歩みを止めた。チラホラと人の姿が見られる公園を抜け、人気の少ない神社を更に抜けた場所に、二人は立つ。
サキとも雹とも呼ばれる妖の後を追った少女は、男へ向けられた視線を切ることはしなかったが、パートナーと一緒に回った町を歩みながら感慨深げに息を吐いた。
『……なんだか、随分と時が経ったように思います』
先日、パートナーからもらう筈だった贈り物をも思い出して、少女は口を元をきつく結んでいる。
「それで、今更なんだ?」
少女――湊は枯れた狼を睨んだ。ぶっきらぼうに呟く男は、それすら意に介す様子はない。用があると言った筈の女が黙ったままであるので、サキは再度言葉を紡ぐ。
「用がないのであれば、もう行きますよ」
再度男は背を向ける。慇懃無礼な言葉はいつもの通り。関心が切れた――否、ここまで付き合っただけでも彼からすれば破格の対応だ。これ以上は、今更思い出したくもない事柄を直視せざるを得ない。
「……どうして出ていったの?」
ようやく湊は言葉を絞り出した。言いたいことはこんなことではない。もっともっと伝えたいメッセージがあった筈だ。
「それに答えて何になる?」
「答えては、くれないんですね?」
だが、眼前の狼は答える気はないと吐いて捨てる。これまで無言で歩き続けた中で、半ば予想通りの答えであったが、湊は落胆の色を隠せない。唯一救いがあるとすれば、それは彼が本来の話し方に戻っているところだろうか。
「話し方の癖が抜けたな」
ぼそりと答える男を見て、少女はまだ交渉の余地があることを直感した。
「“です?”って聞くのは、子どもっぽいと散々言われてきましたから」
「それがミナトらしさだと、俺は思っていたのだがな」
ふっと笑うサキ――記憶と同じ彼の姿に、湊はつい頬を綻ばせてしまう。まだ自分は幸福な頃に戻れるのではないか、そんな錯覚すら覚える。
「今からでも、戻ろうよ」
期待はすまいと決めていた彼女であったが、今ならば伝わると思った。自分の声が、裏切られ続けたこの男に届くかはわからない。拒絶の言葉も容易に想像でき、後ろに組んだ手は震えてしまう。それを悟られまいと、湊は右手の薬指を強く握った。
「ミナト、それはどの立場で言っている? 桐野の娘としてか、俺の幼馴染としてか、それとも――あいつの身内としてか?」
「私は……」
「いずれにせよ、俺が戻るなどはあり得ないことだ」
男は淡々と呟き、また一歩を踏み出す。再度振り返ることはなく、湊の位置から表情は見えない。
「それでも、戻ってもらいます!」
少女は叫び、駆け出した。今ここで逃せば、ここまで飛び出してきた意味が失われる。祖父に逆らったこと、故郷を離れたこと――そして何より、自分を必要とするパートナーすら置いてきたのだ。
駆けだした勢いのまま、因縁のある幼馴染へと湊は手を伸ばす。
「くどいところ、短絡的なところは、変わらないな」
湊の手は空を掴み、支えのない身体は前方へとつんのめる。バランスを取ろうと足掻くが、それも束の間のこと。
「――え?」
自分のパートナーは、よくこんな間の抜けた声を上げていたな、と他人事のように漏れ出た声を聴いていた。
気づけば、視界が闇に覆われている。顔に受けた感触から、顔面が掴まれていると気づくまでにはそうは時間がかからなかった。声を上げてから、間もなく浮遊感を味わう。
『空?』
突如視界に入る青空に、言葉を出すことも忘れた。顔から手が離れ、映る世界はぐるりと回り出す。自分が放物線を描いていることを、これまた他人事のように眺めることになった。
「お前は、殺さない。アユミの妹だからな……」
サキが何事かを溢していたが、湊はそれどころではない。
ザンッ――という音を立て、身体は何かにぶつけられた。だが力任せに放り投げられた湊は、衝撃に瞳を強く閉じており、返事どころではない。
「――っ!?」
背中に受ける大きな衝撃に、肺から強制的に空気が絞り出された。必然、酸素を求めて湊は喘いだ。一瞬だが酸欠に陥り、目の前に白みがかかる。
「もう俺に構うな、湊。次は保障しない」
今度こそ、枯れた狼は歩み始める。言葉の通り、次があるとすれば命のやり取りが待っていることになる。
「――――っ!」
せめても呼び止めようと叫ぶが、酸素不足の肺からは声が出てくれない。咄嗟にとった行動が、自分の首を絞めることになるとは考えもしなかった。湊は視界の端の白が広がってきていることを自覚した。
『ごめんなさい、ごめんなさい――ごめんなさい、お姉ちゃん……』
意識が落ちようとする中、湊はただただ贖罪の言葉を繰り返した。
投げられた時には漠然と死を思い描いたが、どうやらゴミ袋の山に身体は突き刺さったらしく、大した痛みはない。痛みはないが、ここまできて何もできない己の非力さに、少女は唇を噛んだ。
「あれ、携帯の充電が切れてる」
海里は首を捻りながら、携帯をコンセントへ接続する。かなえとの作戦会議が一段落したところで、携帯の存在を思い出した。否、そもそも携帯はズボンのポケットにねじ込まれているので、忘れることはないのだが。
話に集中しすぎたからだ、と海里は言い訳のように自分に言い聞かせていた。
「何だこりゃ?」
相変わらず、間の抜けた顔をして海里はディスプレイに目を凝らす。着信履歴が昨日の二十二日に埋め尽くされている。更には同じ人物の名前が表示され続けていることに、海里はげんなりとしてしまうことを止められなかった。
「どうしたものか」
逡巡している間に、携帯が震えだす。表示される名前は、履歴にあった“秋藤延太郎”その人であった。
『おい犬養、どうして電話に出ないんだよ!!』
携帯電話をなるべく離して通話ボタンを押したものの、やはり大きな声が届いたことに海里は眉をしかめる。
「お前、声がでかいんだよ」
『……犬養よぅ、俺ほんとに心配してたんだぞ?』
言葉の通り、笑ってしまう程心配そうな声が通話口へと響く。そんな声を聴いては、無礙にしてはいけないと思ってしまう。
『まぁいいや。お前が無事とわかって……よかった』
「おい、秋藤――」
それ以上に続ける言葉が出せない。声は小さく、耳元に携帯を近づければ、鼻をすするような音が聞こえてくるのだ。
『いいんだ犬養。何も、言うな。とりあえず、嫁さんも子どもも無事だった。無事だったんだよ……』
ありがとう――そう告げられた言葉に、いつもの軽薄さはない。言葉を詰まらせながら紡がれたそれに、海里は目元が熱くなる感覚を抑えられない。
「俺のこと、冷たいと思うか?」
延太郎の電話に出なかったこともそうであるが、海里は既に次のことを考え始めている。あれ程気にかけていた行交のことすら放って、今は妖を追うことをばかり考えているのだ。
『いや? 犬養はいつも通りさ。考えていないようで、無駄なことばかり考えるお前だ』
「――っ」
海里は再び言葉を詰まらせた。付き合いはそれ程永い訳でもない。だが、この男は自分のことを理解しようとしてくれている。
通話は程ほどに切られたが、“無理するなよ”そんな気安い言葉に、海里の心は幾分か軽くなる想いであった。他人の感情への理解が遅れる生き物であるが、こうした友達がいることに、海里は感謝のような念を感じていた。
「イヌカイ、次を考えるとするならだな」
「ああ、わかっている――これからジイさんのところへ行ってくるさ」
寝起きの頃が嘘のように、犬使いは魔女へと晴れやかに言葉を返していた。