エピローグ
これまで、他人の感情が理解できない自分の人生を、苦痛だと思うことはなかった。何故なら、他人と過ごすことをしてこなかったからだ。そもそも、わからないでよい状況であれば、気づくことが遅れたとしても、何も困ることはない。
それが、彼女に出会ってからは困りごとの連続だった。まるで会話が通じない。相手もこんな自分を見て、怒ることが多かったように思う。だが、出ていけと言ってもその言葉だけは聴かなかった。いつだって、不出来な自分に合わせて、最後は彼女が折れて謝るのだ。ならば、無理に引き離す必要もない。
だがある日から、彼女は――カスミは部屋に姿を現さなくなった。人の感情がわからない自分は、そのことを少しばかり放置していた。これが、間違いだった。しばらくして彼女のアパートを訪ねた時、それは彼女ではなくなっていた。
元から気の弱い、繊細な女だ。どうして無神経な自分と一緒に居ようとしたのか、今でもさっぱりわからない。
顔を包帯で包む彼女は別人のように見えた。訳を問うても、何も答えない。人間を知っている者ならば、上手に聞き出せたかもしれない。だが、自分にそんな芸当はとても出来たものではない。だから、せめても今度は自分が彼女の傍にいようと思った。
ずっと虚ろに押し黙っていた彼女が、ある時口を開く。この日は、これまでのカスミに幾分か近い顔つきだったような気がした。
「……言葉が、きちんと出てこない」
「そうか。じゃあ、どうしたい?」
俺は黙って、彼女の願いを聴くことにした。理解の遅い自分だが、カスミのことはようやくわかってきた。夢は通訳か翻訳の仕事に就くことだと常々語っていた彼女は今、言葉を失いつつある。ずっと黙っていたのも機嫌が悪い訳ではない。言葉が出ない――これがどれ程の辛さか、残念だがそこまでは理解できずにいた。
「お願い、頭がまともな内に、ね?」
「……わかった」
俺はカスミの細い首に手をかける。首にかけられた腕に手を添え、彼女は口をパクパクと動かした。また上手く言葉が出なくなったらしい。だが、今はわかっているつもりだ。
『初めて、“わかった”って答えてくれたね』
首を絞めるような、苦しませるようなことはしたくない。俺は持てる力で、彼女の首をへし折った。これで、この女はこれ以上苦しまないでいい。
瞳を閉じさせながら気づいた。彼女に触れたのは、これが初めてだった。
頬を熱い何かが伝った。人間らしい感情に乏しい自分は、これが何であるかはわからない。ただ、納得して行ったことの筈が、頭から離れない。彼女は、どうして俺の傍にいた、どうして俺に笑いかけた。どうして、どうして、どうして――
どうして彼女は、言葉が出なくなった?
「その悲哀を悲哀とも知れぬ、硬いしこりのようなものの正体、知りたくはないか?」
目の前には妙な男が立っていた。
「……犬養、迷惑をかけた。これで、カスミの跡を追える」
「やめろ、そんなことを言うな!」
口からごぼりと血液が零れる。突き出た刃が引かれると、夥 しい量の血が溢れた。
「厭だ、死ぬな、死ぬな鉱崎。お前とは話したいことがあるんだ。俺も、俺もお前のように――くそ! かなえ、頼む、助けてくれっ!」
海里は半狂乱になりながら、傷口を押さえる。その様を見ながら、魔女はゆっくりと首を左右に振った。
「ああ、そうだ。ずっと言いたかった……」
「なんだ、なんだよ」
「お前、俺とよく似ているのに、独りではないな。不思議だ、正直――」
話し切ることはなく、鋼の男は頭から地に伏せる。右腕の利かない海里はそれが支えられずに、彼ごと倒れ込んでしまった。
「サキ……お前のやることは雑だ。思想も理念もない」
可愛らしい声が、これ以上なく軽蔑の意を込めて吐かれた。仰向けになった海里の視界には、かなえがサキを睨んでいる姿が映る。当の男は、言葉を返すでもなく、ゆったりと長い刀を鞘へと納めていた。その視界の端を、パートナーの少女が歩いていく姿が映る。
「ナナやめろ、そいつは――」
海里が叫ぶが、彼女の足は止まらない。初対面の彼女は、サキがどれほど冷酷かを知らない。枯れた狼は、憮然とした、面倒だという表情でナナと呼ばれた少女を見つめていた。
「もうしばらくはと思いましたが……この辺りが、潮時でしょうか」
サキから語られる言葉の意味を、海里もかなえも理解ができない。だが、理解したという表情の人物が一人歩み続ける。
「雹――やっと、見つけた」
「えっ――」
それは、彼が今まで見たことのない表情だった。サキを別の名前で呼ぶ彼女は、別人のように映る。
「ちっ、何も今ここでなくともよかろうが」
横ではかなえが呻いている。海里の身体を大事に抱える彼女は、左眼が開かれていた。少し先を知ってしまった魔女は、海里を連れてこの場から早々に離れようとする。
「待てよかなえ、まだナナが!」
「青臭い上に、五月蝿いやつがいます。場所を変ましょう――ミナト」
枯れた狼は少女を海里の知らない名で呼び、背を向ける。その後ろ姿を追って、ナナ――湊 は歩き出した。
「待て、待てよ……」
海里は叫ぼうとするが、震えて声らしい声にならない。彼を抱きかかえるかなえは眼帯を元の位置へと戻し、瞳を閉じていた。魔女には最早見ずともわかる――これこそが、元来の彼女の依頼内容だったのだ、と。
『それにしても、よりによって今この時とはな』
かなえは深くため息を吐いた。
「行くな、ナナ! 行くなーーーーっ!!」
絞り出された声に、湊は一度振り向いた。だが、足を止めない狼を追って、すぐにまた歩き出した。
かなえに覆いかぶさるように抱えられた海里からは、彼女の顔は見えない。ただ、今もその薬指には指輪が嵌められていることだけは確認できた。