2.仕事始めとトラブルと―了
「やってしまった……」
海里は自分の行動を悔いていた。
『いらっしゃいませー、いらっしゃいませー』
店外にまで威勢のよい声がリピートしている。
『ぐぎゅるるるる――』
連動するように海里の腹の虫が盛大に暴れ出す。
「だ、だめだ、今は仕事中だ!」
中間報告のため、一路屋敷へと向かっていた海里の足が、ここにきて歩みを遅らせてきていた。
『衣新奈の姿は昨日から見ていない。同居人もどこに行ったかはわからない。』
アパート住人からは、貴重な情報が得られた。
ここは魅惑の土地、スーパーマーケット。
『同居人は昨日の午前中から外出したきり、帰ってきていない』
情報を得た後、アパートのドアノブに手をかけたが、鍵がかかっていた。今は、アパートには誰もいないことを示している。
スーパーマーケット――それは、残金十円の海里にもただ一度の機会が与えられる渇望の地。
「あ、ああ……」
空腹から食べてはいけないとわかっている。わかってはいるが、海里はお惣菜売り場のコロッケに目を奪われていた。
「どうして、コロッケは試食がないのん?」
試食コーナーを回ると、ウィンナーやかまぼこの試食は見受けられるものの、コロッケの試食は見当たらない。
「そうか、これは油ものは控えなさいという、神の啓示か!」
テーンテテーン。
いやに愉快な電子音がスーパーに響く。
「な、なんだよ、きちんと働いているぞ!」
携帯電話を取り出して、海里は精一杯平静を保とうとあがいた。
正直ドキリとさせられたことは、電話の相手には勘づかれてはいけない。
「ウィンナー、今日は特売だってな」
「――!?」
携帯から、これでもかという程愛らしい声からは、想像もつかない程邪悪な声音。
「あの、かなえさん……今どちらに?」
「今どちらに?それはこちらの台詞じゃないか?従僕よ」
海里は背筋が凍りつくような錯覚を思い出す。
初めてお屋敷の魔女に出会ったあの日、何の気なしに年齢を尋ねてしまった時に受けた、あの恐怖を――
「見てましたか?」
空恐ろしさを感じ、キョロキョロと辺りを見回すも、周囲にはそれらしい人の姿は見えない。
開店したばかりのスーパーは、まだまばらにしか人が見られない。
魚のパックを真剣に見比べる主婦、お菓子売り場を行ったり来たりする子ども、お酒売り場に立ち尽くす青年。
「語るに落ちたな。さっさと帰ってこい」
「げ――」
かなえ、見てなかったのか……
「鎌をかける、ではないが、図星のようだな」
「……それなりに情報は手に入れた。一度戻ろうと思っていたところだ」
気丈に振る舞うも、海里の腹からは虫の合唱が続く。
「で、なんでまた電話してきた?」
依頼途中での電話は珍しい。そのことに海里は帰宅の催促以外の何かを想像せずにはいれなかった。
半年前の事件といい、かなえは『異常が近づいた時』に電話をしてくることが常である。
「昼は、たぬきそばな」
「……」
「お揚げは、うんと甘いやつがいいぞ。出汁にもこだわってくれ」
ブツリ、と回線が切れる音がした。
「……」
異常へ備えるため、暗号化してかなえは話している。思わずそう考えてしまう。いや、そう考えないと意味がわからない。
「十円玉しかもってないんだぞ?」
『ツー、ツー……』
抗議の声も空しく、電話が切られたことだけが認識できた。
(この現実も、受け止めねばならないのか……)
泣く泣くカゴに、そばやらお揚げやらを詰めていく海里。時刻は午前十時を回ったばかり。若い男が泣きながら食材を買い出す姿はどのように映るか。
そして緊張の一瞬。カゴ一杯にお酒を詰めた青年がレジを通れば、次は海里の番だ。
「時よ――止まれ!」
十円玉を強く握りしめ、誰にも聞こえない音量で海里は叫んだ。
『ありがとうございましたー』
ダメでした。
ピリリリリ――
途方に暮れながらレジの値段を眺めていたところで、電子音が再度響く。
『コートの胸ポケット』
かなえからのメールには、今度こそ謎の暗号が示されている。
「いや、まさか、そんな……」
戸惑うも、もう最後の商品がレジを通ってしまう。
ままよ、と心の中で唱えながらポケットに手を入れると、千円札が二枚と小銭が少々入っていた。
「お会計、二千二百六十八円です――お兄ちゃん、準備いいねぇ」
ぴったりだった。
『ありがとうございましたー』
「恐るべし、お屋敷の魔女……」
どこまでが本気かもわからないが、買い物袋を手に下げスーパーを後にする。
偶然ってあるんだな、と自分を納得させようと躍起にもなる。
ピリリリリ――
三度の電子音に身震いしたが、後が怖いので早速メールを確認しておいた。
『当たりだな』
「ひぃぃぃぃ!!」
朝から思いっきり叫んでしまった。
その衝撃たるや、買い物袋こそ落とさなかったものの、海里の一つ前に買い物を済ませた青年がこちらを訝しそうに眺めていた。
「――失礼」
今更感は最早拭えないが、これでもかという程取り繕ってみせる。
「……」
スン、と鼻を鳴らす音だけがスーパーの駐車場に響く。
青年はニット帽を目深に被り直して、海里の元来た道へと帰っていった。
「魔女メール、俺はこの出来事を忘れないだろう」
三人分の昼食を下げて、海里もお屋敷の帰路へ着いた。