4.問うべきは、その感覚―対峙
「俺、行くぞ。本当にいいんだな?」
延太郎は、海里と行交を見比べながら尋ねていた。その拳は震えている。事件の犯人を一発でも殴らねば気が済まないところであったが、友に止められ、泣く泣くこの場を離れようとしている。
「ああ、お前の期待に沿えるかはわからんが、任せてくれ」
嫁さんによろしくな、と告げて犬使いは前を向く。視線の先には鋼の妖がいる。ホテルに駆け込むや否や、行交とは正面から向き合うことになっていた。人気のないここまで移動に付き合ってくれたことには、正直感謝をするところである。
「海里さん、私は残りますよ」
傍らで握り拳を掲げるパートナーには、黙って頷いた。眼前の男に正攻法で打倒できるような術は、やはり見つからない。だが、引くことはできない。引いてしまえば、これまで大事にしてきたものが崩れ去る――そんな想いにも駆られて海里はこの場に立っている。
『秋藤、この争いは記事にもできない。とっとと嫁と子どものところへ帰れ』
携帯のスピーカーから魔女の声が漏れる。
「かなえちゃんは相変わらず辛辣だなぁ」
頭を掻きながら、延太郎は駅の方へ歩き出した。ここから歩いて五分と経たない内に嫁や子どもには会えることだろう。廃材がうず高く積まれた場所から、海里は友の背中を見送った。
「さて、そろそろいいか」
行交は閉じていた口をゆっくりと開く。
「待たせたな――と、何年ぶりだ、鉱崎」
「およそ一年九か月だ、犬養。最後に話したのは、卒業前だったな」
瞳を閉じ、噛みしめるように告げられている。こんな軽口にも生真面目に答える男を、海里は好いていた。
「お前とは、ゆっくり話したいと思っていた。だが、こんな形になるとはな……」
「それはこちらもそうだ。俺と話そうなどという変わり者、お前を含め二人しか見たことはない」
『カスミ、がそのもう一人か』
海里は胸中で行交へ答えていた。語りたい言葉は、こんなことではなかった筈だ。だが、語りたくなくとも、語らずにはいられない。正攻法で勝てないのであれば、ありとあらゆる手を尽くしてこの男は止めねばならない。既に人を傷つけることはおろか、先日とうとう殺しまでしてしまった男は、ここで止めねばならない。
『犬養、気をつけろ。今までの相手は妖や異能の人間だったが、今回はそうじゃない』
魔女の忠告を聴くため、携帯電話は胸元のホルダーへ差し込む。かなえとは、行交との戦いに手は出さないと約束をした。見届けてもらうため、通話したまま海里は改めて旧友へと向かう。
『適切な表現ではないが、今回の相手は狂人だ。死ぬまで向かってくるぞ。お前、人間が殺せるのか?』
「無理だな」
あっさりと海里は言ってのける。
「かなえさん、この人に人殺しは無理ですよ」
『……好きにしろ。大体のことは、思ったようにやる方がいい』
横ではパートナーの少女が頷いている。彼女もまた、見届けるためにこの場にいる。パートナーの呟きの後、魔女の声が極端に不機嫌になったことが少々気がかりであるが、海里は臨戦態勢へと移った。
手に嵌められた革のグローブは左右一対。先日のアルシエンティーとの時に見せたそれよりも、やや大きくなった手袋を嵌め直し、眼前の男を睨む。
「今からでも引く気はないか? 正直言って、お前とはどつきあいたくない」
「……今更引けないさ。カスミがああなったのに、のうのうと暮らしているヤツがいるだなんて、俺には許せない。それに――」
俺は、人殺しだ。語る行交の瞳から、光が消えた。心許せる友となるかもしれなかった人物であっても、立ちはだかるのであれば叩き潰す。無機質な、冷たい瞳はそう告げている。
「わからんが、わかった。来い、鉱崎。全力でお前を止める」
海里はポケットで弄んでいたジッポから手を離し、拳を構える。
「先に逝ってろ。すぐに秋藤も、その妻も後を追わせてやる」
駆け出す鋼の妖――乾いた地面に足跡を残しながら、海里の眼前へと肉薄する。無造作に開かれた右手の五指が、歪なカギヅメがその腹へと迫った。
「させねぇよ!」
後ろへと飛びながら、海里は左の裏拳でそれに合わせる。
――ガィン、という金属音が人気のない廃材置き場に響いた。先日の事件から、オープンフィンガーグローブに鉄板を仕込んだものへと仕様は変わっている。指が自由になっているため、数々の動作が淀みなく繋げられる。
「小賢しいぞ、犬養!」
指は弾くに留まった。さしてダメージもなく、行交は左のミドルキックを放つ。
「それが俺の売りだ!」
既に蹴りが来ることは、踏み込んだ足から視えていた。引くのではなく、更に一歩を進める。身体を密着させる程に近づくことで、蹴り足は勢いの乗らない太腿部分が海里の右ひじに当たる。
『痛って――』
内心で海里は舌打ちをしていた。勢いがなかろうが、鋼の塊を受けて平気な訳はない。それでも、狙い通りだ。海里は左のポケットからジッポを引き抜くと、行交の眼前で火を灯す。
「――っ!?」
素早いジッポアクションから放たれたそれに、行交は一瞬意識に空白を生じる。右半身を前に突き出していた海里の死角から突如現れた炎に、慄いてみせた。
「眠れっ!」
海里は叫ぶ。素手で人間を枯れ枝のようにへし折る男が相手だ。最初から身体能力は段違いに差があることを認めている。結局のところ、この小賢しい技こそが海里にできる精一杯だ。
行交は海里の『絶対命令』をまともに受け、思考をパンクさせる筈だ。後は、かなえを呼んで事態の収束へ――そう考えていた海里の思考が止まる。
「驚いた。次は何をしてくれる?」
「な――」
驚いたという男以上に、海里は目を見開いた。鋼の塊がまたしても腹へと迫る。
密着常態であったのが不幸中の幸いであった。畳んだ右の腕が行交の右手の間に納まり、クッションの役目を果たしてくれた。
「海里さん!」
少女が身を案じて叫んだ。腕で致命傷は避けたとは言え、海里の身体は四、五メートルは跳ね飛ばされている。
『イヌカイ、鉱崎とやらの身体は今も鋼になっているのか?』
「ああ? 殴られる一瞬は金属みたいになるが、今は至って普通ってやつだよ!」
魔女からの疑問に海里は苛立ちも隠さずに答えた。最初に遭遇した時から、行交は刺された時にその鋼の肌を顕していた。それが一体何だと言うのか――海里は口の中にたまった血液を吐きながら、かなえの言葉を待つ。
『私は鋼の身体になった異能者だとばかり思っていた。だが、犬養の命令も利かず、アクションを起こす時にのみ鋼となるというのであれば……』
電話先の魔女の言葉に思案する色が含んでみられた。そのやり取りを知ってか知らずか、行交はゆったりと海里へ歩み寄る。
『あの男の超常感覚は皮膚でない。恐らくは、神経だ』
「何だって? と――」
問い返す間に、下から上へ鋼の蹴りが海里の顎先を狙う。それは右手で受けて、海里は更に距離を取る。直撃は免れていたが、都合二度も弾かれた右腕は熱を持ち始めていた。
「しぶといな、犬養。お前も俺同様に、死ねないのか?」
淡々と語られる言葉に違和感を覚えるが、それよりもかなえの言葉を優先する。
『イヌカイ、眠れという命令は止めろ。あいつは自分でもコントロールが出来ない程、神経が高ぶっている。そんな人間は、眠りはしない』
「神経が、か?」
尋ね返しながら、海里はこれまでここ最近対峙した異能、妖を振り返る。状況を再現する嗅覚、他人へ感覚を押し付ける味覚、他人の記憶を呼び起こす視覚――では、眼前の男の神経は何を起こす?
『そうだ。恐らくは本人もその能力に気づいていない。身に危険が迫ったところで、瞬時に必要な箇所を硬化させる能力だろう。そんな芸当、鉱崎にはない。やはりこれは――』
「安心しろ、犬養。俺が殺し切ってやる」
また距離が詰められ、揃えられた手指が一直線に放たれた。その先端部分が鋼へと変わっている。鋭く長い腕はまるで槍――海里は両の拳で受けようとしたものの、右手に力が入らずに切っ先を腹へと受けた。
「う、あ、あああぁぁぁ――」
ゆっくりと引き抜かれる手刀。僅か一センチばかりではあるが、行交の指先は赤く染まっている。
「何だ、血が出るじゃないか。お前と俺は、やはり違う生き物か」
落胆を隠しもせずに、鋼の男は大きなため息を吐いた。
『おい、そこの異端児。お前、最近胡散臭い男に会わなかったか?』
先程までの会話よりも、大きな声でかなえの声が届く。これは、眼前の男に向けた言葉か。海里は腹を押さえながら、次の言葉を待った。
「……一か月前に、妙な男が現れた。チャンネルがどうこうと言っていたが、それがどうした?」
「おい、かなえ……」
『すまないイヌカイ。法路のやつがしでかしてた事件は、まだ終わっていなかった』
かなえの瞳を通して視た、魔法使いの姿が脳裏に浮かぶ。途端、海里の脳髄が弾けるように熱くなった。
「まだ立つのか、犬養」
ならばと、行交は海里へ踏み出しながら、右腕を後方へ伸ばす。先程は不発に終わった杭打ち機が再び稼働を始める。
『立つよ、そりゃぁ、立つさ』
腹に穴の空いた海里は大きな声が出ない。胸中で毒づき、左の拳をゆったりと眼前に掲げる。今度は顔面へ大穴を開けるために放たれたそれへ、強く睨んでみせる。
「さらばだ犬養」
頭をフラフラと揺らす海里の元へ、鋼の杭が迫る。パートナーが痺れを切らして駆け出していたが、もう遅い。
『何がさらばだ! 俺は今、珍しく腹が立ってんだ!』
海里は自由の利く左拳を迫り来る杭へ合わす。その様を見て、パートナーの少女は足を止めた。
「海里さん、やっちゃってください!!」
手は出せない。だから、少女は目一杯に叫んだ。彼女の見たものが間違いでないならあれは――
「当ったり前だ!!」
脱力していた指先は、手の甲が杭に合えばすぐに力が籠められる。ただ、ナイフとは異なり鋼の杭は弾かれない。海里は身を低くしながら拳を突き出した――以前に一度視た、ナナの拳裁きを海里は真似てみせた。
「ぐっ」
金属がぶつかった音が再度響く。放たれた拳は男の腹へと深々と突き刺さった。金属同士が衝突した筈にも関わらず、海里は特に弾かれた様子もない。むしろ、行交の方が腹を押さえて咳き込んですらいる。
『やはりそうか。あいつの鋼の身体は、法路にチャンネルをいじくられてできた副産物。自身では硬化をコントロールできていない』
「……鉱崎、この辺で止めないか。今はお前の方が優勢だが、後二度もあれば覆る」
魔女の言葉にはさして興味も示さず、海里は行交を見つめた。日頃からきちんと人の目を見てこなかった。だから、今の今まで気づかなかった。眼前の男の瞳が、これほどまでに自分に似ていたことを。
「止める? 今更だろう。止めたところで、俺の中のカスミは微笑まない!」
尚も引くことをせず、行交は手のひらを開き、ぞんざいに突き出した。引くことは最早ない。全てを引き裂き終わらせるために男は叫ぶ。恐らくは繰り返される感覚が止むまで、行交は止まれない。
「この、大バカ野郎がっ――」
力めば腹から血が吹くことも構わず、海里はジッポを引き抜いた。