4.問うべきは、その感覚
「はーい、少々お待ちくださーい」
快活そうな声に、ノックをした拳が震える。自分は何をしようとしているのだろうか――行交はホテルの一室の前で、目元を手で覆いながら相手が出てくるのを待っていた。
こんなことをしてもカスミは喜ばない。そんなことは先刻承知だ。何度でも自分で言い聞かせている。だが、ポンコツな頭は壊れたレコードのように一場面を繰り返し続ける。
いつだって、人より遅れて気づく。
これもとうに知っている。自分はそのような人間だから、人よりゆっくりと動くのだ。困ることはあっても、問題はなかった。あの時までは――
「どちら様ですか?」
声と同じく、明るい表情を浮かべる女性を前にして、行交はいよいよもって己の感情を押さえつけることに必死になった。綺麗な女性だ。どうしてあのヘラヘラしているだけの男がこうも幸せそうなのか。そして、この女の笑顔は神経に障る。
「鉱崎、と言います。秋藤さんは、居ますか?」
努めて冷静に、言葉を選んで話す。丁寧に話したつもりだが、目の前の女性が困ったような表情を浮かべている意味が、行交にはわからない。これも、自分がトロいからなのだろうか。
どうぞと招かれ、行交は部屋に足を踏み入れた。
「駅裏手のビジネスホテルまでお願いします」
タクシーに乗り込みながら、海里は告げた。未だよくわかっていない延太郎を隣へ引きずり込む。
「ちょっと待て犬養。鉱崎が犯人だって? しかも狙いは俺じゃないって、一体どういうことなんだよ!」
「話すから、声のトーンを落としてくれ」
海里が小声で話すと、悪友は一言、すまんと言って俯く。運転手が一瞥して、こちらを気にしている様子だった。
『秋藤の知り合いが次々に狙われている、そのことに間違いはない』
携帯のスピーカーを通して、魔女の言葉が伝わる。海里は延太郎にも聞こえるよう、膝元に電話を置いた。
『オカルトじみているが、よく聴くといい。昨日、イヌカイのパートナーが夢を見たと話していてな。それは、鉱崎に深い関わりがある女性の話だ』
「カスミ――神住舞葦か! だけど、あの子は大学が同じだっただけで……」
特に面識があった訳でもない。在学中、嫁から聞かされたことがある程度だ。変わった名前のために記憶に残っていたからリストに載せはしたが、それが一体。延太郎はますますわからないと首を捻る。
『犯人が鉱崎某とわかった時点で、軸を変えるべきだった。恨まれているのはお前じゃない。恐らくは――』
「樫原葉子――お前の嫁さん、神住とは学籍番号が連番になってたろ」
「葉子が、恨まれている?」
延太郎の顔から血の気が失せていく。これまで事件の犯人は、過去に首を突っ込んできた事件に関連したものとばかり思い込んでいた。自分には過ぎた嫁が、何故学友から恨まれねばならないのか、頭を抱えて延太郎は呻いた。
『整理をするから、思い出せ。お前の記憶が、鉱崎へ差し伸べる一筋の蜘蛛の糸になるやもしれん』
魔女は淡々と言葉を告げた。事件は終幕へ向かっている、と。
『最初の被害者の相賀、相賀の元彼女、高校時代の友人、殺された浮島、今も狙われている秋藤夫人――そして、神住舞葦。これらを繋げるキーワードが、ある筈だ』
「秋藤、わかるか?」
思い出せ、という魔女の言葉に続き、海里は真剣な顔つきの友人に重ねて問うた。
「――コンパだ」
目を見開き、一言を溢した。その後は口元に手を当てたまま押し黙る。彼がそうしたように、海里も厭な記憶を呼び起こされていた。
「あの一件か……クソっ! あれから何年経ってるんだよ」
『イヌカイ、もう喚くな。喚いても変わらん。秋藤に問う必要もない』
お前、真相はわかったな? と魔女は念押しをしている。
「真相はわからんが、大体わかった」
通話を切って、海里は隣の延太郎へ視線を寄越す。口に手を当てたままの姿勢で今も沈黙を守っている。この男が真剣な顔をしている時は、いつだって誰かのことを案じている時だ。
軽薄でバカなやつだが、紛れもなく自分の友人であると、海里は心の中で呟く。人の感情の理解が遅れてやってくる、こんな自分とずっと友達をしているこいつが、悪人な訳はない。むしろ、困っている人を見つけては首を突っ込んで大事にしていく“お優しい”人間だ。
「お客さん、ここでいいかい?」
気づけばタクシーはホテルの玄関に差し掛かっていた。海里は了解したことを伝え、お札を二枚渡しては急ぎホテルへ飛び込んだ。
「インスタントコーヒーも、案外おいしいんですよ」
少女は湯を沸かしながら、異能の男へ席を勧めた。葉子には既に、子どもと一緒にここを離れるように伝えてある。後は、パートナーが辿り着くまでの時間稼ぎをすればいい。いや、いっそ自分が――
「コーヒーをもらいに来た訳ではないんだ」
男の言葉に我に返る。先日の占い師の一件で、自分の記憶を見せられたが、新奈やナナとして過ごした記憶と混線している。一体自分が何をしようと言うのか。かぶりを振って、客人へと向き直す。
今の自分に求められているものは、あくまでも時間稼ぎだ。海里の語った言葉を思い出す。
『鉱崎は俺と同じで、碌に人の顔を覚えていない。特に、写真嫌いの秋藤夫人についてはわからないだろう。だから、あくまでも秋藤を追って来る筈だ』
一呼吸を置き、少女はパートナーの願いに徹する。
「同じ大学に居たのに、ほとんど話しませんでしたね」
「……秋藤とは、同じゼミでした」
ぽつりと語り、行交は席からおもむろに立ち上がる。これからまた凶行を働こうという男を前に、少女はどこか既視感を覚えていた。これまで聴いていたような恐ろしい妖だとは、とても思えなくなってしまう。何故なら彼は――
「よく、似ていますね」
「秋藤と俺は、似ても似つかない」
生真面目に言葉を返しているが、彼はいつまでも話を続ける気はない。何せ、これで終わりだ。カスミが苦しんでいたことを知りながら一人幸せになった人物だ。早々に仕上げてしまいたい。
行交の指先が揃えられ、バカでかい鑿が出来上がる。しかし削るためのものではない。全力で踏み込み打ち抜く、杭打ちの体を行交はイメージしている。カスミの夢を奪った元凶には、二度と子どもが産めぬよう、その腹をくり貫くつもりでいた。
「――いいえ、犬養海里にそっくりです」
「犬、養っ」
くっ、という呻きと共に、指先から力がほどける。装填されていた鉄器は解体され、不発に終わる。大学時代、数度しか話したこともない男の顔が浮かんだ。世間ずれをしていないが、常識からはズレた人間だ。
恐らくは自分と同じく、他人の感覚がわからない異常者――であるのに、彼は独りではない。自分とよく似た、だが決定的に異なる男に、行交は関心を持ち続けていた。
「あんた、樫原葉子じゃないのか?」
海里と葉子に接点はほぼない。何故なら、葉子はあまりに一般的なお嬢さんだからだ。犬養海里という異常を許容することは出来得ない。
「騙したようですみません。私、海里さんの、パートナーです」
少女は臆面もなく、行交に告げた。そうか、と呟く男は、口元に優しい笑みを僅かながら浮かべる。
「犬養のいい人に手荒なことはしたくない。樫原葉子の居場所を教えてくれ」
「それは、聴けません」
きっぱりと言い切り、拳が握られると、動きやすそうなブルーのスカジャンが揺れる。その様を見て、行交は頬を掻いた。
『ごくごく一般的なお嬢さんが、しかも主婦がスカジャンを着ている訳はないな』
改めて、気づくことが遅れることに自嘲する。人の顔をきちんと覚えていないこともそうだが、目の前の少女は、どう見ても子どもを産んだことがあるようには見えないだろうに。
「場所を変えよう。えっと――」
緊張感も何もない。またしても遅れて気づいた。犬養のパートナーを名乗るこの少女は、一体何という名なのか。
「申し遅れました。私、桐野 湊 と言います」
少女、湊は毅然と名乗ってみせる。そして、にこりと笑って退室するように促した。危うくもどこか憎めない男を相手に、まだ幾ばくかは時間が稼げることだろう。