3.奪われたもの:Side steel―抵抗
一夜明け、苛立ちながら海里は携帯電話を手にしていた。長く続くコール音がもどかしさに拍車をかける。今朝になって、延太郎からの定期連絡が途絶えている。
犯人は初めから延太郎を知る人物であると予想がついていたため、かなえの案でホテルへ移るよう指示をしていた。嫁や幼い子どもがいる彼が無茶をすることはないと思うが、万が一ということもある。海里は、アパートの周辺を落ち着きなく歩き回りながら電話がつながることを待った。
「こうなれば、ナナが頼りか……」
連絡が途絶えた時点で、彼女にはホテルへと向かってもらっている。何にせよ、接触をしなければならない。行交が犯人であるとわかっていたが、延太郎に妙な気を起こさせまいと今の今まで情報を伏せていた。だが、昨夜になって事態が変わった。
『実は、夢はもう一つ見たんです』
パートナーが語ったカスミという女――リストの最後、四番目に掲載されている人物が、間違いなくこの事件の鍵を握っている。未だ行交の力を無効化する手段の思いつかない海里は、延太郎に問うことで一筋の光明を見つけだそうとしていた。
『あんだよ、犬養。定時連絡ならしただろ?』
呑気なその話し声に、海里の頭に血が上る。
「バカが、今何時だ! いや、それよりお前は今どこにいる?」
『あ、ほんとだ。腕時計が止まってたわ。今公園だからもうじき、かなえちゃんの屋敷だよ』
「――っ」
吐かれた台詞に目眩を起こしそうになる。呑気どころの騒ぎではない。犯人を教えなかった海里が悪いと言えば悪いが、何故こんな時に出歩くのか。
『で、犯人わかった? どうせ俺が狙いだろ。嫁さんと子どもはホテルだから迷惑かからないだろうし……え、何、お前、え、え?』
「おい、秋藤?」
突如、電話先から怯えたような声が届く。海里は既に駆け出している。“仕返し”だという行交の言葉から、この次の犯行を予想していたものの、外れてしまったようだ。
延太郎は軽薄なヤツであるが、人に直接悪さをするような人物では決してない。いつもの詰めの甘さが祟って恨まれているとすれば、延太郎本人ではなく、矛先は嫁か子どもに向かうものだと決めつけていた。
「秋藤聴こえているか? 何も構わず、逃げろ!」
届いているかもわからないが、出来る限り大声で叫び、海里は走った。目指すはかなえの屋敷付近の公園だ。
「な、にして――んだよ!」
公園まで全力疾走を終えて叫ぶ。こんな状態で叫ぶというのは、体力を削ること以外の何物でもないが、海里は思わず声を張り上げていた。
「助けてくれー、犬養ー」
海里が叫んだのは、情けない声を出している秋藤へではない――彼を締め上げている妖へ抗議の声をぶつけていた。
「電話の相手は、坊ちゃんでしたか」
狼は嗤う。成人男性を襟首だけを掴んで持ち上げているが、涼しい表情をしている。昨夜の口振りでは鉱崎を見張っている筈の彼が、何故ここにいるのか。海里は呼吸を整えながら、ジッポを引き出した。
「秋藤を離せよ、サキ」
「命令でもしてみたらどうですか?」
するりと手を離しながら、サキは嗤う。支えがなくなった延太郎は尻もちをついた後、四つん這いのまま距離を取った。その様子を見て、海里はジッポを仕舞う。
「犬養、どうしてジッポを仕舞うんだ!」
海里の身体を盾にしつつも、その声は守ってくれる筈の彼へと向けられている。軽薄なヤジには何も言い返さず、丸眼鏡を外して渡す。
「どうしてここにいる。お前、鉱崎を見張っていたんじゃないのか?」
「鋼の妖相手では、流石に準備が必要だということです。坊ちゃんじゃないですが、虚を突く必要があるかと思いまして」
ちらりと延太郎へと送られる視線を、見逃すことはない。丁寧な言葉とは真逆の不遜な態度に、海里の拳が震える。
「秋藤を囮に鉱崎を、か――お前、本当に殺す以外のことを考えていないんだな」
一歩前へ。既に腕を伸ばせば、相手の胸倉が掴める距離だ。だが、海里が掴めるということはサキも掴める距離にあるということを意味している。以前に、なす術なく放り投げられてしまった時の記憶が脳裏を掠める。
『下手に仕掛けるのは、マズいか』
「い、犬養っ!」
叫ぶ延太郎。逡巡している間に、海里が胸倉を掴まれていた。痩せた狼と視線が交わる。
「貴方では、あの鉱崎を殺せない。大人しく引きなさい。それとも、何か策があるとでも言うのですか?」
「そうだな。俺に鉱崎は殺せない。だけど、お前に言われる筋合いはない」
忠告を受けても引かず、むしろ半歩を踏み出す。これほど間近にサキを見たことはなかった。枯れた狼――以前にそのように形容したこともあったが、この男の瞳は自分を見ているようで何も見ていない。そのような印象を海里は受けた。
「お好きにしなさいと言いたいところですが、こちらの問いに答えてはいませんよ。何か言ったらどうですか」
「……なら、言ってやるよ。『止まれ』とな」
「――っ!?」
海里が強く睨むと、サキが驚愕の表情を浮かべて固まる。確かな手応えを受けて、海里は自分を掴む手を払った。外された手はだらりと垂れさがると、そのまま動きを止めた。
視線を介しての命令の入力――初めての体験に、サキは完全に停止している。影次はおろか、犬養家の嫡子は命令を全て舌で行う。ただ一人、海里が瞳から命令を放つことをサキは知らない。
「俺が鉱崎を止める。お前はそこで、しばらくじっとしていろ」
顔を突き合わせばいがみ合ってしまう相手だが、こうして動きを止めたところで何をしようとも思わない。海里はへたり込んでいる延太郎に手を差し出して引き起こした。
「やっぱり犬養、お前はすげーやつだよ!」
「お前はやっぱり、うるさいやつだな……」
大して感慨も込めずに海里は呟く。それに対して延太郎は、自分を軽々と持ち上げていた相手を言葉一つで制した友に賛辞を送っている。そんな彼から丸眼鏡を受け取ると、バレない程度に長く息を吐いた。
『瞳は情報を受け取る器であって、元来は情報を投射する機能はない』
この戦い方は無理があるかもしれない。かなえの言葉を思い出しながら、海里は胸元を押さえる。相手の動きを止めるだけのことに、こんなにも疲労をしていてはまるで割に合わない。
「そういえば、俺に何か用だったのか?」
何も知らない悪友は、電話の用件を今更ながら問うている。
「秋藤、お前“カスミ”って人物を――」
会話が銃声音に中断を余儀なくされた。携帯のディスプレイには“ナナ”の文字が表示されている。このタイミングでかかってくることに海里は焦り、すぐに通話ボタンを押す。
『海里さん、秋藤さんを訪ねて男性が来ています。写真で見せていただいた、鉱崎さんで間違いないと思います』
「……わかった。打ち合わせ通りに頼む。危なくなったら必ず逃げてくれ」
はい、というハキハキとした返事と一緒に電話が切られた。状況のわからない延太郎は首を傾げて海里を見ている。
「秋藤、タクシー捕まえるぞ。話はそれからだ」
「え、ちょっと、何なの?」
いきなり走り出した友の背中を慌てて延太郎は追う。今何が起こっているか、理解が追いつかない。だが、これで終わるのだろう。何故だかはわからないが、記者は事件の終結を予感していた。