2.盗む感覚:サイトスティール―錯綜
携帯電話を片手に、海里は昼前に来たショッピングモールの前を通り過ぎた。夕刻になり、空は暗くなりつつある。買い物袋を下げた親子づれとすれ違う。小さな子どもが必死に荷物を持ちたがっていた姿が印象に残った。
『秋藤の名前を出して反応はなかったのだな? なら、そいつが関わっている可能性は低いだろう』
「やっぱりか。単なる感想だけど、俺も福家は違うと思った」
淡々と魔女が語るのを聴き、延太郎から受け取ったリストに再度目を通した。紙切れには依頼人とそれなりに関わりがあり、且つ今も県内に住んでいる人物が挙げられている。
残るは四名――大学卒業を機に、多くの友人が離れてしまった。とは延太郎が語っていた言葉だ。古い馴染みが少ない海里は、その言葉を適当に聞き流していた。しかし友人とされていた筈の福家は、依頼人を名前程度しか覚えていない様子であった。嘘は吐いていないと海里は直感した。
『イヌカイが視て、何も思わなかったのか……尚のことそいつは関係ないな』
「何だかよくわからんが、取り敢えず次に移動する」
かなえから後押しが得られると、海里は電話を切る。事件の犯人捜しの第一歩。まずは収穫がなかったことが収穫だと思うことにした。
リストの内の一人が駅の近くに住んでいることはわかっている。まずはそちらに当たり、事件に関係がないようであれば、明日以降に隣町の鉱崎行交を訪ねるつもりであった。
鉱崎の名前を見つけた際、海里はどこか懐かしい想いが込み上げていた。それほど親しくしていた訳ではない。だが、慌ただしい大学生活の中でも、ゆったりとマイペースに過ごす鉱崎の姿はいつも目に留まっていた。ゼミの課題をするにも飲み会に行くにも、よくよく世話をしてやったとは延太郎の談だ。
「秋藤の言うことは……あまり当てにならないからな」
リストをコートのポケットへしまいながら、海里は独り言ちる。事実、先程訪ねた人物は、高校時代の友人と豪語していたにも関わらず、碌に覚えられていなかったではないか。
一方で、鉱崎は周囲からトロいと評されていた。ひょっとしたら、延太郎の評価は正しいのかもしれない。だが、人の感情の理解が遅れてやってくる海里は、彼くらいのペースの方が落ち着くことは確かだった。
「あ――!」
はたと足を止める。やはり理解が遅れてやってきてしまうことに、海里は舌打ちをした。そう、いつでも気づくことが、人よりも遅れてしまう。かなえに言わせれば、目から取り入れる情報量が多すぎるために、感情の処理は後回しになるのだろうとのことであった。
「夕个に謝らないとな」
頭を掻きながら、海里はぼやく。だが、一体何と言葉をかければよいか。理解することと出来ることは、また別の話であることに頭を悩ませる。
『それ、最悪だからね……』
ため息を吐きながら妹が出した言葉が繰り返される。ナナのことで精一杯になりすぎた。
これまでは、事件の中でも夕个が電話をしてきたのは、自分以外に頼れる人間がいないからだと海里は考えていた。しかし、妹の口振りからすれば、彼女が頼りたい人間は自分だったのではないかとも思う。思い違いであれば、謝ればいい。
「思い違い――」
口元に手を当て、海里は神妙な顔つきへと変わっていた。思考を整理しようとし始めた所為か、別の言葉が記憶から溢れる。
『私、今のままではもらえないってだけで、犬養さん――』
他人行儀な呼び方ばかりに焦点を当ててしまい、きちんと言葉そのものが受け止められていなかった。“今のままでは”と、確かに言っていた。ナナはまだ何かを語ろうとしていたのではないか?
プルルルルル――着信音が響いた。海里はよく電話のある人物は着信音を変更している。訝しがりながら携帯を手に取ると、画面には“祖父”の文字が浮かんでいた。
珍しく、かなえは屋敷を離れていた。助手が調査をしている間でなければ、出来ない用がある。辿り着いたのは、海里のアパートだ。明かりのつけられていないその一室を、ノックもなしに開け放った。
「邪魔するぞ」
魔女は無遠慮に室内へと押し入る。椅子に腰かけたまま、項垂れる少女の姿を視界に捉えると、かなえの頬が一度ひくりと動いた。
「あ――」
視線が合っているにも関わらず、ナナは碌に言葉も紡げない。ぜんまいが切れかかった玩具のように、ぎこちなく顔を上げた。目は赤く充血しており、化粧が崩れている。普段は化粧っ気のない娘であるが、今日は気合が入っていたということか――しかし、その反応はかなえが期待するものではない。
「つまらん」
興味が失せ、魔女は正直な感想を述べる。
「い、いらっしゃい、かなえさん」
言葉を掛けられたからか、ナナは目元を拭うと、目一杯の笑顔を取り繕って彼女を迎え入れる。しかし、来客者は首を左右に振る。
「つまらんな。実につまらん」
「何が、ですか」
「お前そのものが――だ」
魔女が放った言葉に、少女の血圧が上がる。何故、今このようなことを言われなければならないのか。甚だ心外な言葉をぶつけられ、ナナは憤る。
「朴念仁に代わって、忘れ物を届けてやろうとしたんだ。この私が、柄にもなく」
だが、やはり止めだ、と魔女は吐き捨てた。手には手のひらに収まる程の箱――ナナの記憶にはまだ新しいそれを、かなえは懐へ仕舞い込む。
「それ、私のです!」
ガタッと椅子を蹴とばして、ナナは立ち上がる。膝元で握りしめられた拳は震えていた。対する小さな魔女は、憮然とした態度を崩さない。
「私って、誰だ?」
「私は、私です!」
「……何度も言わせるな。名乗れと言っているんだよ。記憶はとうに戻っているだろうが」
「――っ」
かなえは左眼に当てられた眼帯を弄びながら、言葉を紡ぐ。どうにか欠伸を噛み殺すことをしていたものの、やはり興味のない話をすることは苦痛の様子だ。反面、ナナと呼ばれていた少女は瞳を白黒とさせている。
「これが欲しかったら、きちんと名乗った上で自らの意志で取りに来い。来ないなら、私がもらう。以上だ」
「待って、かなえさ――」
少女が伸ばした手は、空を切った。既にそこにかなえはいない。用が終われば、魔女は一瞬の内に消えてしまった。残された彼女は、先程までかなえの居た場所を呆然と見送っていた。
「ジイさん、何の用だ? 今、仕事中なんだ」
『そうか。後で屋敷に来い』
すぐに通話は切れてしまった。次のリスト掲載者を訪ねるため、丁度お屋敷の近くにまで出てきていた。晩になってしまうが、後程祖父の許を訪ねることに決める。
駅前を離れ、閑静な住宅街へ出たところで、喧騒が海里の耳を突いた。
「あれは――浮島か?」
次に訪ねる予定だった浮島三生が、何事かを叫んでいる姿が眼に入る。海里の位置からはよく見えないが、その声は彼を挟んだ反対側の人物へ放たれているようだった。自然、海里は駆け出していた。
「てめぇ、前からムカついていたんだよ!」
瞳を血走らせて、三生は叫ぶ。刈り込まれた髪は脱色されており、声も焼けたようにドスが利いている。大振りのパーカーに、ジーンズ。ラフな恰好は相手を威圧するためであるかのよう。
延太郎と同じ研究室にいた男だが、当時はよくない噂を耳にしていた。海里は大学時代も、延太郎と居た時に二三言交わした程度だ。お近づきにはなりたくない手合いだったと記憶している。
「何か喋ったらどうなんだ?」
苛立ちが募っているのだろう。語調は荒く、その手はポケットへと運ばれ、何かを握り締める。近づくにつれ、場にはただならぬ緊張感が走っていることを海里は理解した。そして、驚きに眼を開いた。
「いつもいつも、トロトロしやがって! てめぇは、本当にいけ好かねぇ」
「……俺は、トロくない」
啖呵を切る三生とは対照的に、あくまでも己のペースで話す男。中肉中背、背格好は標準的であるが、独特の雰囲気がある。男にしてはやや長い黒髪は耳元までを隠している。冬場にも関わらず、身軽な姿で立つその男もまた、延太郎のリストに掲載されていた。
「鉱崎!」
思わず叫び、海里は走る足に一層の力を込めた。感情が希薄そうな、だが穏やかな旧友が事件に巻き込まれることに、焦りが募る。
「うわぉぉおおおおぉ!!」
言葉がきっかけになったか、三生はナイフを取り出して行交に向けて突き出した。海里は間に合わない。ナイフの柄が、行交の胸元に当たるまでの光景を立ち止まり、見送っていた。
「……何なんだよ、ほんと、何なんだよお前は!」
言葉を出したのは、三生だった。柄から先の刃が失われたナイフを握り、半狂乱になって叫ぶ。
「俺が何か。そんなことは、俺も知らん」
吐き捨て、左腕を大仰にかざすと、ぶっきらぼうに手刀が振るわれた。ドンという音がして、それで終わる。行交は関心を失ったように歩き始めた。途中、折れたナイフが靴に当たり、カタリと音を立てた。
「あ、え、え、何、何なの?」
三生は目に映ったものを否定しようと言葉を並べた。だが、どう足掻いても、中程から垂れ下がった両の腕は動かない。まるで、バールを全力で叩きつけられたかのようにへし折れた腕が、ふらふらと揺れている。
「俺が、俺が何をした――」
三生の疑問は、スイッチになった。行交の希薄であった感情が、沸騰する。
「わからないのならッ!」
振り向きざまに繰り出される上段の蹴り。三生は何事かを叫んでいたが、横殴りに放たれた槌の一撃を受け、黙った。音もなく、膝下から崩れ落ちる。捻れた首に支える力は最早なく、頭は後方にだらしなく垂れた。もう、何事も喚くことはない。
「わからないのなら、死んでしまえ」
「鉱、崎……」
歩み寄る男の名を海里は呼んだ。今や蹴りを放った際に見られた、憤怒の化身のような表情は消えている。大学で見かけた、大人しい彼の表情へ戻っている。
「こんなところで会うなんて、奇遇だな犬養」
刺された箇所を払いながら行交は挨拶をする。薄手のシャツが破れた先、冷たく硬い金属の肌が覗く――海里は、いつぞやの事件の少年を思い出していた。異能、魔法、あるいは妖。いずれかの奇跡が目の前に顕れている。
「何、してんだよ」
やっとの思いで、一言を絞り出した。目の前で起こった光景の処理に、今も脳はついていけない。凶行をやってのけたかと思えば、世間話でもするように海里へと言葉をかけている。自分が覚えられていたことが嬉しくもあったが、複雑な思いである。
「何って? 見ればわかるだろうけども――」
淡々と語る男を前に、海里は奥歯を噛み締めた。いつだって、遅れて気づく。行交の口元は、三生と対峙していた時から嬉しそうに歪んでいた。
「仕返し、だよ」