1.問われる感覚―ミッション
「はい、お待ちどうさま」
ドリップの終わった二人分のコーヒーを、海里はテーブルへと運ぶ。湯気が立つカップの傍には角砂糖が添えられたものが一つと、はちみつのボトルが添えられたものが一つ。かなえは迷うことなく、はちみつの方を手に取り、並々とコーヒーへと注ぐ。
「イヌカイもなかなか気が利くようになってきたではないか――て、なんだ。どんな感情なんだ、その顔は?」
「ああ、いや、相変わらずだなと思って」
溶け切るかどうか心配な程、はちみつが注がれていく。かなえの規格外な味覚を知っている海里は、黙ってそれを見守るしかなかった。
「あまーいっ……て、なんだよその顔は?」
「いや、別に」
突っ込んだところで不毛な会話にしかならないと悟り、海里は会話を打ち切ることに必死になった。どうだろうか、と返事してからかうことも考えたが、後が怖いのでやめた。
カチャリ――コーヒーカップがソーサーに置かれて音を立てた。ふぅ、とため息を吐きながら、かなえは空いた手でこめかみを押さえる。柄にもなくがなってしまったことを恥じ、冷静になることに努めた。思い返せば、どうして早朝に叩き起こされねばならなかったのか。これ、怒ってもいいシチュエーションじゃないのか? と魔女はいつもの調子を取り戻し始めていた。
「ミッションは必ず遂行すること。しなかったらお仕置きが待っているので、あしからず」
「なぁ、かなえはさ――」
安眠を妨害されたことを思い出し、とっとと家に帰るよう指示しようとしたが、海里の言葉に遮られる。
「指輪をもらうとしたら、どんなのがいい?」
何を言い出すかと思えば……かなえは思案するような顔つきをして、椅子に深く座り直した。
「期待を裏切るようで悪いが、私はあまり装飾品に興味がないんだ。一般的な女性の好みって話なら、私に尋ねるのはよくない。むしろ夕个や千里に聴く方が身になると思うぞ?」
着飾るのも苦手だからな、と両手を開いてみせる。灰色のカーディガンの下、薄ピンク色の寝巻がゆったりと広がる。同時に豊かな胸が揺れた。
『こいつは、着飾る必要なんてないんじゃないか?』
「おい、今よからぬこと考えなかったか?」
「滅相もございません!」
いつもより大きく首を振って否定する。その様を見てかなえは、眉間に皺を寄せたものの、すぐに破顔してみせた。
「何で笑ってるんだ?」
「いや何、イヌカイが真剣に考えているようでな、何となく嬉しくなってしまったのさ。妹に聴くのが嫌なら、本人連れて指輪見に行けばいいじゃないか」
ふふ、とにこやかに笑うかなえ。いつもとは異なった、年相応な笑顔を見て海里も笑みを浮かべていた。
「いや、そこは恥を捨ててでもセンリに聴くよ。一緒に見に行ったら、俺は横からゴチャゴチャ言ってしまうだろうし。何より、プレゼントってのは、開けるまでワクワクする方がいいと思ってしまうんだ――変かな?」
「変じゃないさ。相手のことが考えられていたのなら、受け入れられないなんて早々ないもんだ」
……多分、と付け加えられた言葉に一抹の不安が残ったものの、何とかプレゼントも贈れるような気がしていた。
「それで、イヌカイよ。何か用があってやってきたんじゃないのか……何となく早朝に来ました、何て抜かしたら温厚な私でも暴れるぞ?」
「ああ、すまん。本題に入ろう」
ジロリ、といつもの魔女らしい表情で睨まれ、海里は当初の目的を思い出した。ナナと何を話したらよいか困って飛び出したのではあるが、お屋敷を訪ねたのには別の目的があった。随分遠回りをしてしまったが、次の依頼について相談をしなければならない。
「秋藤って覚えてるか? 俺の大学時代の友人の――」
「ああ、あの二流記者か」
途端、魔女はつまらなさそうな顔をする。グラビアを撮らせろという話が余程不快だったのだろうか、髪をつまんでは毛先で遊び始めてしまった。
「あいつ、面白くないんだよなぁ。変に頭が回るかと思えば、下準備が足りずに厄介事を起こす。結果的に仕事が仕上がっているが……まぁ可もなく不可もなくというやつだな」
美しくない、とかなえは言う。
「あれ、そっちの話?」
「そっちって何だよ。自分の望みがわからず、あれこれと目先の欲で動くやつは嫌いなんだよ。多少ポカをやらかしてもだな、自分の夢だか何だかに一生懸命な三流の方が余程好ましい」
「仕事できなくてもか?」
「まぁ、そうだな。仕事があまりにできなければ、どっかで首切られるだろうから、その先会うこともあるまい。それに、良い仕事ができれば一流だろ? 私は上昇も下降もせず、ただ仕事を流すようなのを指して二流と表現したんだよ」
気怠そうに髪を弄ぶかなえは、瞼が落ちかかっている。つまらないと思うとすぐに電源が落ちてしまうのはいつものこと。いつものことであるが、秋藤という人物が好きか嫌いかに焦点が当たって、話が一向に進まないのは困る。依頼が来ていると、海里は早々に告げ直した。
「依頼って、また水着姿を撮らせろとでも言っているのか?」
「そうじゃなくて、町の不思議な事件を追っているんだとさ」
「何だ、真っ当な依頼か。それなら本人を呼んで来い。間に人を入れて話を聞いても、真相はよくわからん」
心なしか、がっかりしたような表情をする魔女。海里は何だか混乱してくる思いであった。以前に話を聞かせた時には、随分と怒っていたと記憶していたが、それは彼の記憶違いだったのだろうか。
「あれ、お前写真撮られたかったの?」
「撮られたいかと問われればノーと答えるな。だが、私程の美少女であれば水着グラビアの一つや二つの誘いはあってしかるべきだろう? ようやく世間が私に追いついたのかと思ってしまったのさ」
眉をぴくりとも動かさず、この自称美少女は言ってのける。この言葉にも何か大いなる意図があるのではないか、と海里はつい勘ぐってしまうというもの。そもそも、かなえの場合は顔は整っているのも確かだが、背は低い上に、年齢不相応な程の童顔と豊かな胸が備わっている。この場合のグラビアと聴くと、胸ばかり強調されたものがイメージされてしまう。
「そうだな。常夏の島の波打ち際で撮影というのなら、やぶさかでもないぞ」
おもむろに立ち上がると、髪をアップにしながら腰にしなを作るかなえ。早朝でぼんやりとしていた海里の頭には、常夏の情景が浮かぶ。
日頃気怠そうにしているかなえも、髪を天辺で括って太陽の下へ出ればかなり雰囲気が変わって見えることだろう。しかし困ったことに、肝心の水着姿は秋藤がサンプルに持って来ていた面積の小さなものを思い浮かべてしまった。
「――おい、イヌカイ。随分愉快そうな顔をしているじゃないか」
割と低いトーンで魔女は唸る。髪を下ろし、やれやれと首を竦める姿は完全に醒めきっていた。眠気を堪えることも最早限界のようで、ため息とともに悪態がつかれる。
「冗談をマジにとるなよ、このロリコンめ」
「ロ、ロリっ!?」
これまで他人に言われたこともない語彙を叩きつけられて、海里は一瞬思考を停止させた。それは、直前の事件で過去と対立をさせられた時の感覚に近い。思ってもいなかった言葉との出会いに、フリーズを余儀なくされる。
「依頼のことはわかったから、今日はとっとと帰ってデートの準備に取り掛かれ。美少女かなえちゃんを見てニヤニヤするのは構わんが、大概にしとかないとナナに嫌われるぞ?」
「お、おぉ……」
ここ最近で一番の衝撃を受け、ろくな返事も返すことが出来ない。何を言っても、かなえの評価を下げるだけだと悟り、海里は素直にお屋敷を後にした。