1.問われる感覚
まだ日も登らない内に、海里は町はずれを何とはなしに歩いていた。寒風吹きすさぶ中、ポケットに手を突っ込み、首をすくめて歩く。
かなえとの約束の時間はまだまだ先のことだ。だが、ここのところ上の空なパートナーとの会話がいたたまれなくなり、早々に家を飛び出していた。ナナに不満がある訳ではないが、占いの一件以来、明らかに雰囲気の変わった彼女にどう接していいかわらかずに彷徨っていた。
プルルルル――電子音が響く。
携帯への着信であることに即座に気づいたものの、よく電話のかかってくる相手は着信音を設定しているため、海里は一瞬身構えてしまった。実際、携帯のディスプレイに表示されている番号は登録のされていないものだった。
「はい」
誰からのものとも知れないため、海里は敢えて名乗らずに通話ボタンに触れていた。
「久しぶり、俺だよ俺」
「……どちら様で?」
厭に軽快な声が携帯電話越しに響く。軽薄そうな声を聴いて、大学時代の友人を思い出していたが、まさかと思って問い返していた。
「冷たいこと言うなよ、犬養。俺だよ、秋藤だよ――」
プツ。そんな音が鳴った。想像した通り、大学時代の悪友、秋藤延太郎からの電話だと悟り、電話を切ってみせる。
プルル――デフォルトの着信音が再度なる中、海里はため息をついて通話ボタンを押す。
「どーして切るんだよ!」
あらかじめ携帯を耳から話しておいてよかったと思う。電子音が一杯に響く。これほどに離しておいても、うるさいくらいに声が響いているのだ。
「お前、うるさいから嫌い」
海里ははっきりと述べた。通話先の相手はよく頭の切れる人物であるが、それと比例するように夢見がちなところがある相手だ。いい話がある、と言われてはいつでも厄介事に巻き込まれてしまう。今も彼からの電話だとわかれば、海里はげんなりとせずにはいられない。
「そんなこと言うなよ犬養ー、友達だろ?」
情けない声で延太郎は唸る。友達って何だ? 海里は首を捻ってみせる。
「お前の言う友達が何かは知らないが、俺の中で友達ってのはギブアンドテイクで成り立つ存在なんだよ。かなえのことなら諦めろ――」
再度終了ボタンに手をかけながら、海里は述べる。大学を卒業してしばらく経ったある日、延太郎から『面白い話はないか?』と突きつけられたことを思い出す。記者として就職した彼を思いやり、当時の海里はそれに答えてやろうと町の不思議な現象を教えてやったものだ。
だが、オカルトじみているという編集長の声があって、記事はお蔵入りとなった。代わりに、お屋敷の魔女のグラビアを撮影させろという要望を受けて、海里は着信拒否をしたのであった。
友達を一人なくすというのは、なんとも空しい感覚であることをこの時に知った。まして、海里は教えを乞う立場とは言え、当の魔女は当時十六歳。際どい水着姿を撮らせて欲しいと友に言われた時の失望感は、とても言い表せるものではなかった。
「あー、待って待って! 当時のことなら謝る。俺が悪かった」
通話口からいつもの軽い言葉が叩き込まれる。この手の言葉を何度聞かされたことか。いい加減、自分も大人になったからと電話を切ろうとした時、延太郎から興味深い言葉が聞かされた。
「今、町の不思議な事件を追っている。力を貸してくれ」
「……聴くだけ聴くわ」
海里はため息を吐きながら、友の言葉を待った。そして幾ばくかの期待を込める。こいつも人の子、まして一児の父になったのだから、そろそろ真っ当に報道する人間になれているだろう、と。
「イヌカイ、いつでも来てもいいとは言ったが、時間を考えろよ」
「え、あ、いや、その――」
不機嫌そうな雇い主の姿を目にして、海里はしどろもどろになりながらも、言葉を紡ごうと必死になった。玄関先、扉を開け離してかなえは唸っている。海里は彼女の声音に戸惑った訳ではない。呼び鈴を鳴らして飛び出してきた彼女の姿に戸惑っていた。
ゆったりとした部屋着姿のかなえは、頭を掻きながら扉を開く。寒いからとっとと入れ、と言われながらも海里はしばし呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
寝た子を起こしたことはわかっていたが、実際に年頃の女の子のネグリジェ姿を見て心臓が跳ね上がらない男がいようものか? 以前に不意打ちのように下着姿のかなえを見たことはあったが、寝起きの少女の姿はまたそれとは趣が異なっていた。
「……何してる。早く入って、コーヒーの一杯でも入れろ」
かなえがいつもと変わらない不機嫌さをしていて、思わず安堵の息をつく。海里は大きくかぶりを振ってから、屋敷へ入った。
「本当は昼間に渡す予定だったが、折角来たことだ。受け取れ」
「え、何これ?」
彼女から投げられた封筒が机の上に落ちては、ドサっと音を立てた。カーディガンを羽織ったかなえが、その様を何とも複雑な表情で見送っている。
「お、おい――」
思わず手が震えてしまった。封筒の中身を改めると、高額紙幣が複数枚――優に十枚は越えている。
「この間、私のわがままに付き合わせたことへの謝礼だ」
「しゃ、謝礼って……」
開いた口が締まらずに、海里はぽかんとしてしまう。何と言葉を続けたらよいかわからない。いつもの仕事の倍以上の報酬だ。どうしてこんなに、と魔女の腹を探らずにはいられない。
「謝礼だって言ってるだろ。疑うなら、返せ」
「いやいやいやいや――」
再び大きく首を振りながら海里は、手を伸ばす魔女へ反応してみせる。欲しくないと言えば、確実に嘘になる。ただ、どうしてこれ程の大金をもらえるのかがわからなかっただけだ。
「……今更ながら、お前には感謝してるんだよ、これでもな」
ぼそりと少女は告げる。感謝とは、先日兄役を買って出たことを言うのだろうか。
「気にせず受け取れ。これまで渋っていた捜査経費も含んでいる」
だが、と言葉を付け加えて、かなえは人差し指を海里へつきつける。
「これは、お前個人への支払いだ。お前個人のこと以外に使用したら許さん」
「は――?」
何を言っているかわからず、海里は思わず抜けた声を上げてしまった。
「わからんか? その都度手当は出しているんだ。これはボーナス程度にでも思えと言う。もっと言えば、千里にやったら承知せんと言っているんだ」
「えっと、給料をどうしようが、俺の勝手じゃないか?」
ますますわからず、このような台詞を吐いたが、すぐさまかなえのきつい睨みに黙らされてしまう。一体何が機嫌を損ねているのか、海里にはわからない。
「そうだとは思っていたが、朴念仁だな、お前は」
額に手を当て、やれやれと魔女は呟いた。
「これはな、母と私が素直に出会える機会を作ってくれた礼だよ」
だから、これはお前がお前のためだけに使えと、そう告げられた。
「え、だからうちのために入金を――」
「たわけ! その程度の金は千里が何とでもするわ。たまには娯楽に金を使えと言っている!」
随分と大きな声量で叫ばれてしまった。まだ日が上ろうかという頃合いであるというに、かなえは元気だな、その程度の感覚で海里は聴いていた。
「とは言え、無趣味の俺には使い道なんてないからさ……」
海里は本気で頭が痛くなってくる思いに駆られてしまう。ギリギリであったとしても、今の生活が保てている内は取り立てて慌てる必要もなければ、貯金という選択肢もない。
「……本当にバカだな、お前。イヌカイの趣味なんか聴いておらんわ。お前、今や千里以上に構わないといけない相手がいるだろうが」
「――そういうこと?」
「はぁ、ようやく気づいたか。そういうことだよ。これはな、雇い主からの業務命令だから拒否権なんかないぞ?」
お前、ナナとデートの一つでもしてこい。お屋敷の魔女は痛む頭を抱えながら従僕へ新たなミッションを課した。