4.Site Stealer
かなえは自分が停止するまでの流れを、他人事の様に眺めていた。魔力を放ち、一蹴りで全てを終わらせるつもりであったが、まんまと兄弟子に嵌められてしまった。
対面をしていたのはダミーであったと、ここにきて気づかされる。法路はわざわざ絡め手を使ってはこないと、高を括っていたのが不味かった。これでは落ちこぼれと言われても、反論できまい。
瞳を通じてリンクをしている海里相手ならばいざ知らず、左眼へまともに瞳術を受けては、さしものかなえも抵抗しえない。リンクをしていない、調整を済ましていない相手の瞳を受けて、かなえは戦慄した。
『まったく、イヌカイの瞳すらあっさりと使いこなすと――』
独り言ちる間もなく、かなえの意識は止まった。
「――え?」
静かな幕切れだった。余りの静けさに、ナナはただただ困惑するしかない。かなえは立ったまま動かず、法路は魔女の瞳を見つめたままだ。自分を連れて来た以上、出番はあるものと思っていたが、これ程あっさりとかなえがやられてしまうとは、夢にも思っていなかった。
「取りあえず、お前も『止まって』いろ」
男の冷たい眼が交差した。ナナは、眼前から入る情報に、フリーズする。一度受けた海里からの『絶対命令』とは異なり、法路から出された命令には酷い嫌悪感を覚える。それでも、身体は動いてくれない。自分の思い通りに動かないことに加えて、心配事にナナは焦りを覚える。
『かなえさんが止まってしまったとしたら、海里さんは――』
「んー、どうしたどうした? 俺のような半端者にはいつまでも付き合わないんじゃなかったのか? 許さないだの、つまらないだの、好き勝手言ってくれていたな」
これまでとは打って変わって、高いテンションと早口で、男は動かないかなえへまくし立てる。躁状態にでもなっているのか、肩を揺すりながら嗤った。動きを止めたナナの姿など、視界の端にも映っていまい。
かなえの周囲をぐるぐると回りながら、尚も男は続ける。
「さて、どうしてくれようか。このまま心臓を貫くか――いやいや、殺してしまうのは勿体ない。脳みそと瞳をホルマリン漬けにしてコレクションに――いやいや、それでは俺の憂さが晴れん。んー……どうしたものか」
足を止め、男はかなえを見下ろす。コートをはためかせながら、両手を掲げはじめるその様は、歌っているようでもある。陶酔しきっているようで、今や他の人物など視界には入っていない。
早くかなえを助けねばと思っているが、ナナは身体が動かずにいた。先程のような魔法を放たれれば対処のしようもない。加えて、法路の豹変ぶりを見てしまい、嫌悪と怯えが入り混じった感情に支配されていた。
「よし、脳みそをいじって傀儡にしよう。あー、あの生意気なかなえが人形になるのか。黙っていれば見た目は悪くないんだ。あちらへアクセスできる脳も瞳も使い放題。これ、名案」
キョフフフ、と空気の抜けた嗤いを堪えることもしない。かなえが言っていた通り、よく喋る男である。しかも、その全てが大音量の独り言であるのだから、なかなかに手に負えない。
「でもなぁ、操り人形にして、こいつに魅了されたと思われるのも癪だよなぁ。こんな也でなければ最初からホルマリン漬け一択なんだけどなぁ」
分厚い書籍をペラペラと捲りながら、ある点で止める。ページの一部が青く発光すれば、魔女の弟子の手からは、繊維を束ねた細く長い触手が顕れる。それは、蛇行しながらかなえへ伸びていった。
「やっぱ、脳みそいじってから考えよう、うん」
触手の先端が幾つかに別れ、ゆっくりと進む。まったく動かないかなえの鼻や耳を目指してそれらは伸びていく。
いよいよ、かなえの内部へ触手が進もうかと言うところで、ナナの身体がピクりと反応を示した。
『――いやだ、いやだ、いやだ!!』
目の前の光景に、止まっていたナナの思考が巻き直される。
――それは、いつかの無残な光景。力がないばかりに、大切な人が蹂躙されたあの日を、幸せなんてものはいとも簡単に壊れるということを、彼女は思い出した。
パーン――乾いた音が鳴り響くとともに、触手は動きを止めた。
「おい、何で動ける?」
頬を張られた法路は不思議そうにナナを見つめている。自身が手にした命令する力は、間違いなくかなえへと利いている。魔力をもった、異常への対処を心得る少女でさえ、なすすべなく固まっている。であるというのに、この少女は命令に背いて魔法使いの頬を平手打ちしていたのだった。
「知りません! でも、黙って見ているなら、死んだ方がマシです!!」
身体の自由を取り戻し、ナナは相手に向かうでもなく、一目散にかなえへと走る。
「かなえさん、後のことは任せましたよ」
廃工場に入るまでの願いを叶え、ナナは膝から崩れ落ちる。いよいよもってして、かなえの眼帯は剥がされた。
これまで動かなかったかなえに、生気が戻る――否、それを通り越して、大きな魔力の奔流が弾け、スカートが波打つ。倒れたナナも、その余波に鳥肌が立つ感覚を覚えていた。
「――よくやってくれた。礼を言うぞ!」
犬歯を剥き出しに、魔女は嗤った。
何が起こったのか、魔法使いは目の前の事態に慄いた。自分は確かに“止まれ”と命令を下した。なのに、どうして二人とも動くのか?
法路の後退と合わせるように、小さな魔女は一歩一歩男へと詰め寄る。こんなことはあってはならない。男は書籍の一ページを咄嗟にめくり、光を放つが、それも瞬く内に無効化されてしまう。
どうして、どうして――
ひたすら困惑の表情を浮かべて、魔法使いは後ずさりを始めた。
「さて、いいようにしてくれたな。私を奴隷扱いしようなど、この後どうなるかわかるな?」
底意地の悪い笑みを浮かべて、かなえは兄弟子への距離を詰める。その瞳は、これまでの無関心を越えて、燃えている。今や両の眼が開かれ、本来の色とは異なった虹色に輝いていた。
「嘘だ、嘘だ……」
目の前の少女から放たれる圧倒的な魔力量に、兄弟子は戦慄する――これ程大きな力があるのか? かなえから漏れ出る魔力は、今や魔法という工程を飛ばして、すぐに結果を突き付けんばかりに滾っている。彼女の瞳は、左右それぞれでこちらとあちらを見ている筈だ。両の眼を開いて正気を保つなど――
「何を勘違いしているか知らんが、こうなった私には、何も利かんぞ?」
魔女はさらに調子をよくして、ニタニタと口の端を釣り上げる。右と左、あちらとこちら、同時に異なる世界をその瞳に収め、かなえは嗤う。それでも、眼前の男は口から飛沫を飛ばしながら叫んでいた。
「黙れ、多呪体! 複数の呪いを受けてブーストされた欠陥体の魔法なんて、俺は認めない!」
『タジュタイ――?』
ナナは男の言葉に首を捻るが、事を問いただす前にかなえが更なる一歩を詰めていた。
「とうとうタブーを口にしたな……これで、終わりだ」
短く、魔女は呪文を唱える。
「出ろ、“神の視えざる足”」
かなえのスカートが一段とはためくと、目には見えない超常のものがその場に降り立った。姿は見えないものの、確かにその存在を感じる。これには、決して触れてはいけない――ナナは必死に再起を求めた魔女から、距離を取った。
大きな存在が廃工場の天井へ、その鎌首をもたげ始める。
「どうして、どうして動ける!?」
知らずの内に、逃れるように身をよじる。断末魔の代わりなどとは思っていもいないが、心の底に浮かび上がった疑問を法路は全力で口にしていた。
確かにその通りだろう。犬養海里の瞳は既に使いこなせている。現に、今の今まで小さな魔女は命令通り動きを止めていた。だとすれば、だとすれば――
「その通り。今回は、ナナが鍵を握っていた。お前、能力を使う割に、その範囲を知らなかったのだな。彼女に今更命令は通らない」
男は知らなかった――既に絶対命令を受けている人間に、新たな命令は利かないということを――
「かなえさん、やっちゃえ!」
「言われるまでもない。私は、私の身内を傷つけるものを赦しはしない」
「待――」
待て、と最後まで続けることもなく、ズンという音が工場跡に響いた。顕現したかなえの足が、地面ごと法路を貫いた。打ちっぱなしのコンクリートすら突き破り、地面には大きな穴が穿たれた。
「これ、どこまで穴が空いたんです?」
ナナの素朴な疑問に、かなえは嗤って答える。
「無論、奈落の底まで」
開け離しの扉から冷たい風が注がれる。一つの事件に終止符が打たれた。