3.サイトスティーラー―魔女の弟子
「来てやったぞ、いい加減顔見せろ」
抑揚のない声でかなえは言う。言葉に呼応するように、薄暗い工場内には次第に照明が灯り始めた。
「……火?」
天井付近が明るくなる。照明とも思われたそれは幾つかの炎だった。不思議そうな顔をして、ナナは焚かれた明かりを見つめていたが、間もなくその顔色も変わる。
「か、かなえさん、あの火、近づいてきてませんかっ!?」
「うろたえんでもいい」
徐々に近づく炎。だが、その熱が感じ取られる距離に入るまでには、かなえが右足を蹴上げる。ゴウという音とともに巻き起こった風に呑まれ、炎は消えた。部屋には少しばかりの焦げた匂いと元の薄暗さが残っていた。
「……顔を見せろと言っている。一々くだらないことをするな」
ナナは黙って隣にいる魔女の顔を恐る恐る覗く。散々悪態を吐いていたのも、いつものご愛嬌かと思っていたが、彼女の声音には遊びが感じられない。
ただ一点を見据えて冷静に声を届けている。ナナはどこに相手がいるのか、皆目見当もつかなかったが、かなえにはわかりきっているようだ。
「随分な言い方じゃないか。あのくらい、何てことはないだろ?」
革靴がコンクリートを打つ音が聞こえ、暗がりの中から男が姿を現した。
ナナは眼を凝らす。海里とほぼ同程度には長身の男だ。赤見がかった茶髪を肩の辺りまで伸ばしている。髪形は整えられており、清潔感はそこそこにある。にも関わらず、ナナは一目見てこの男は嫌いだと直感していた。
「ご執心の玩具の眼を盗ったんだ。さぞかしご立腹かと思っていたが、すぐさま新しい玩具を持ちだすとはね……犬っころを連れてくるなんて、趣味が変わったか?」
淡々と男――法路は語る。距離にして五メートルは離れているだろうに、やや前傾になってかなえを見降ろしていた。顎に手を当て、こちらを値踏みするような視線を這わしている。言葉だけ聞けば皮肉と取れないこともないが、この男の瞳は他人を見下す色に染まって見える。“犬っころ”と呼ばれた少女は、先ほどの直感が外れていないことを確信した。
「かなえさん、私この人――」
「皆まで言うな。私もこいつのことは大嫌いだ」
ナナ以上に強い嫌悪感を隠すこともせず、かなえは吐き捨てた。いつもであれば、如何な怪異が相手であっても問答を愉しむ魔女であるが、今回ばかりは初めから愉しむつもりもない。早々に靴を脱ぎ捨てて、兄弟子を睨んでいる。
「魔法を唱える間、時間稼ぎしますか?」
ナナは一歩前へ出ようとするも、小さな手のひらに遮られる。下がっていろということか――首肯して入口付近まで後退した。ここは魔女に全面的に任せることに決めた。
「プレゼント、気に入ってくれたか?」
分厚い書籍をパラパラとめくりながら法路は語る。能面でもつけているかのように、整った顔には表情がない。やはり淡々と語る。
プレゼントというのは海里の眼を奪った式神のことか。挑発をされても、かなえの表情は変わらない。精々、さっさと決着を付けたいという想いが加速する程度だ。
「お前とは話したくもないのだが、初めに言っておく」
ギリ――噛み締めた歯が鳴った。表情には出ていないが、かなえは怒りに震えている。どれ程仕掛けられようが、さっさとこの男とは縁を切ったままでいるつもりだった。一番弟子という立場にあぐらをかいて、師匠の死に目にも顔を出さなかった不義理者だ。顔など見たくもなかったが、見た以上は言っておかねばならない。
「私は、お前を許さないからな」
男のページをめくる手が止まった。小さな魔女が睨もうが何しようが変わらなかった男の表情に変化が現れる。片方の眉が下がり、眉間には深い皺が刻まれている。
怒り――というよりも、格下の相手から見下されて苛立っている、が適切な表現か。
「おい、何だそれは」
何故許しを乞わねばならないか、意味がわからない。いよいよ苛立ちを隠しもせず、男の手には力が込めらていった。ページの幾枚かが無造作に引きちぎられる。
「なに、あれ――」
思わず口にしたものの、何と続けてよいかわからずにナナの言葉は途中で切れた。男が握った書物のページが、あるものは燃え盛り、あるものは風となり炎を巻き上げている。炎と風は混ざり、工場内を埋め尽くすように迸った。
「私のみならずナナもまとめて、か……無差別とは品がない」
目的的ではない魔力行使は美しくない――かなえは舌打ちをして、炎へ立ち向かう。彼女の動きに合わせてスカートがはためけば、兄弟子が起こした風よりも大きな風を呼び出す。
「お前こそバカの一つ覚えだろ。この落ちこぼれが」
工場の壁が幾分か焦げたものの、かなえとナナには煤の一つもついてはいない。弾けた紙片がはらはらと地面へと舞っていった。
「随分なことを言ってくれるじゃないか。どうした、ちんけなプライドでも傷ついたか?」
くっくっく、と魔女はいつもの調子で嗤う。かなえには才能がないからこその自負がある。先代お屋敷の魔女から、唯一習得できたこの魔法は誰にも負けることはないと。
「好きに吠えていろ」
あっさりと魔法を打ち砕かれたにはしては、男は余裕を見せている。かなえの姿も見ずに、次のページをめくる。
「かなえさん、足元!」
ナナが叫ぶ。散り散りになった紙片が姿を変え、かなえにまとわりつく。
「またこれか……」
蔓に手足を捕られ、かなえはため息を吐いた。初見のナナは焦っているが、既に昨日同じ状況に遭っていた彼女は落ち着き払っている。元より拘束するためだけの式神は、それ以上の攻撃を加える様子はない――否、二度も同じ拘束を受けては屈辱の二文字に腸が煮えくり返っていたが。
「この程度の魔力を解除できない癖に、お屋敷の魔女の後継者を名乗るか!」
「かなえさん!」
ナナが駆け寄るも早く、法路はかなえの眼前に現れていた。
「お前が母の病院に使い魔を放っているなんて先刻承知だ。だが、何故知らぬ存ぜぬできたかわかるか?」
身動ぎもせず、かなえは男がする様を見つめていた。頬に手を添えられると総毛立つ感覚に吐き気も催すが、手足を拘束されては口しか動かせない。最早語りたくもなかったが、こうなれば語らずにはいられない。
「手が出せないからだろ? イレギュラーな瞳だけが売りのお前は、まっとうな魔法を使う俺を相手にすることはできない」
相手を拘束し、優位に立ったことで、男の饒舌に拍車がかかる。高らかに書籍を掲げて、片手では前髪をかきあげている。
「……つまらん答えだ。そんなことだから一番弟子でありながら、後継者になれなかったんだ。お前、スポーツカーにも乗せてもらえなかったしな」
ニタりと底意地の悪い顔をして、魔女は眼前の魔女の弟子を嗤う。
「違う、お前みたいなヤツがいたから、お前がいたから――」
忽然と怒りを顕わにする兄弟子。顔を真っ赤にしながら、高揚と憤懣に突き動かされて魔法を練り上げる。
「人の所為にするな、半端者。お前みたいなやつに、いつまでも付き合う気はない」
この時を待っていた。同じ魔法に捉えられた屈辱も、相手への反撃の糸口へとつながる――かなえは手足を縛られたまま、拘束する式神ごと法路を蹴り上げた。
昨日と同様に、目には見えない圧力が弾け、蔓も目の前の男も千々に砕ける。
「そうくると思ったよ」
かなえの後方から声が響く。砕け散った身体もまた、魔法の産物。本体はどこに潜んでいたのか、今やかなえの透明な瞳に肉薄する。
「自分の下僕の瞳で苦しむがいいさ」
魔女の一番弟子は、瞳を合わせ、『止まれ』と命令を下した。