2.仕事始めとトラブルと
駅からおよそ徒歩十分。不便ではないが便利でもない。
近所にスーパーはあるが、周辺にコンビニは少ない。新奈の言う自宅は、そんな場所にあった。
新奈の住まいまで辿り着き、我が地元ながら、正直つまらない場所に来たものだと海里は感じていた。
「さて、どうしたものか」
殺された、と物騒な話の割には、外からは何の変哲のないアパートの一室にしか見えない。これ以上は中に入らないとわからないだろう。
キン――と金属音がなった。考え事をする時に、ポケットの中でジッポライターを弄ぶのが海里の癖だった。
左手はポケットに、右手はインターホンのボタンに触れたものの、押せずに固まっていた。
「ああ、どうしたものか」
再度、海里は唸る。頭の中は、特に意味のない思考で埋め尽くされていた。
『インターホンを押して、誰も出なかったらどうしよう。いや、出たら出たで第一声なんて声かける? “この部屋の人、殺されましたよね”か?』
「いやいやいや」
カチャカチャと、ジッポを開け閉めしながら、そう言えば、飯まだだったなぁ、食わないと頭回らないよなぁ、など、行動しないことへの言い訳を繰り返していた。
そして思い至る。
「確かに、俺向きじゃない仕事だわ……」
変な汗がこめかみを伝うのを自覚していた。
「……あの」
「はい?」
実に間の抜けた声を上げて、海里は音のした方向へ首だけを向けた。
「そちらのお宅にご用ですか?」
口調こそ丁寧であるが、女性が不審な視線を海里へと向けている。
凡そ三十代中ごろの女性だ。服装は動きやすそうなトレーナーとジーパン。髪はこれまた動きやすくするためか、無造作に結んでいる。
片手にほうき、反対の手にはちりとりを持っていることから、家の前の掃除にやってきたことは疑いようがない。だが、それらは地面ではなく胸元に掲げられている――身を守るために構えているとも受け取ることができる。
「……」
客観的に今の状況を考察してみよう。海里は自分に言い聞かせる。
身長百八十センチを超えた、猫背の男が脂汗をかきながらインターホンに指を合わせたまま固まっている。おまけに、野暮ったい丸眼鏡が、太陽の光を反射していた。
間違いない。この状況をトータルに考えれば間違いなく――
「ふ、不審者っ!」
正解。
違うんだ! とは言い出せず、海里は次に取るべき行動パターンを二桁ほど編み出そうとカロリー不足の脳に検索をかけた。
「ええぃ、これしかないかっ!」
「あなた何を――」
しているの、という言葉は続かなかった。海里に合わせて相手もしどろもどろになってくれた、という訳ではない。
キン、という音の後、周囲にはガスの匂いが立ち込めている。女性の眼前には、ポケットから取り出したジッポが突き出されていた。
「あっぶねぇー」
この場で動いているのは、ジッポから出た炎のみ。
それを確認すると、はぁ、とため息をついては、ようやくインターホンから離した右手の甲で汗を拭った。
「久々だったけど、きまってくれたか……」
続いて右手の平を、女性の眼前でひらひらと振って見せる。目の前の女性は、時が止まったように言葉を発するモーションの最中で固まっていた。
『犬養は古くから妖を討ち、生計を立ててきた一族だ』
幼少の頃に幾度となく聞かされてきた台詞を不意に思い出す。これが走馬灯というやつか――海里は危機的状況を乗り切ったことを確認して、視線を遠くへやっていた。
犬養家は彼の祖父が言う通り、妖を討つことを長く勤めてきた。その力は、今海里がやってみせたように“他人を従える”もの。
だが、万能というわけではない。むしろ祖父が言うには『中途半端な能力』だそうである。
「……大丈夫だな」
海里自身も、この力が如何に使いづらいものであるかを認識している。
久々の人間相手の能力行使であったが、女性の手首に指を当てて、脈拍が正常であることを確認することを忘れない。
海里は咄嗟に“止まれ”という命令を弱めに出した。
女性は固まったままだが、呼吸も脈も至って正常。生命活動は維持したまま、意識に空白を作り出している状態だ。
討つべき妖には利かず、守るべき人間には利きすぎる。
元来は、非力な犬養の人間の代わりに、獣を使役して妖を討ってきたという。
現代では人間の脅威となる妖の数は少ない――人は未知や先の読めないものこそを恐れる――怪異とは、知られる程にその脅威を失っていくものと考えられている。
情報社会と呼ばれる現代では、解析できないほどの脅威は数える程度しかないということだ。
「この部屋の住人ついて教えてくれ」
十分すぎる程利いたことを確認して、海里は本題へと入る。
と同時に、インターホンを鳴らして人が出てきても、こうすればよかったか? と、自分の至らなさを嘆いてもみた。
「衣新奈、二十四歳。二年前にこの安アパートへと引っ越してきた。日がな一日働きに出ているため、近所づきあいは少ないが、愛想はいい。同居人に男がいるようだが、こちらは近所との折り合いが悪い。外出したかと思えば、スーパーでお酒を購入して帰ってくるなど。衣新奈が帰宅したと思えば、殴ったような音や嬌声が飛び交う。この安アパートは壁が薄いから、うちには小さな子どもがいるというのにあんあんあんあんと――」
「ああ、一度黙って!!」
海里は慌てて命令の中断を行った。
他人を従えるこの能力が人間に利きすぎるという所以である。この女性は、与えられた命令に忠実に、この部屋の住人の情報を教えようとしたのだ。
対象を一種の催眠状態において、無意識下に命令を書き込むこの能力は、相手の判断を剥奪して単純な行動を強制するにすぎない。思考を必要とする高度な命令はきかせられない。
「……使えない力だよ、まったく」
聴きたくもなかった情報を仕入れて、空腹の海里は痩せる想いだった。
「とりあえず、単純に用件だけを満たそう」
どうしようか、とまたしてもジッポを弄びながら次の行動を模索している。
「ああ、そうだ」
そして思い立ったように言葉を紡ぐ。彼がすべきは、一からの情報収集ではない。依頼の達成だ。
「ここの住人、どこに行ったかわかる?」