2.最低野郎に死角なし
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「もういいぞ」
かなえが眼鏡を海里に突き出している。もう、サングラスを外していいということだろう。病室を出て、帰ろうかというところでのやり取りだ。
「令一さんとやらに扮するのに必要だった、て訳か」
丸眼鏡をかけ直して、今更ながら気づいたことを述べてみる。サングラスは視界の色が変わるので、どうにも慣れる気がしない。海里は首を鳴らして、伸びをしていた。
「扮する……ああ、そうか。お前、兄に似ているけど、目が優しすぎるからな」
海里の推理は外れていたようで、かなえはくっくと笑っている。外れても構わないのだが、自分なりに考えたことが笑われるのは、何ともいえない気分になってしまう。
「笑ってはいけないな。本当は別の意味があったんだ。母はお前を気に入ったらしい……今度はサングラスなしで会ってくれ」
「……?」
「何て顔をしてる。今日連れてきたのが兄でないことくらい、母も気づいているだろうさ」
にやりと笑ってかなえは続ける。
「いいカッコしてみようと思ったが、母親に嘘は吐くもんじゃないな。お前を見てたら、素の自分でもいいような気がしてきたよ」
「かなえが納得しているなら、それでいいさ」
自動扉が開く。後は、お屋敷に帰るのみ。
「……?」
であるというのに、妙な違和感を覚えて立ち止まってしまった。
「何してんだ、イヌカイ」
病院を出た際に、視線をあちらこちらへとやっていたところ、かなえが冷たく睨んできていた。誰かに見られている気がしていたのだが、魔女は気にした風もない。
『思い過ごしだったか……ん?』
またしても奇行に走ってしまったかと思っていたところ、脇腹をかなえが小突いてくる。
「あんまりキョロキョロするな。バカに見える」
いつもの調子でかなえが語っているものの、海里の表情は真剣なものへと変わっていた。いつも通りに会話を仕掛けながらも、かなえの手には小さなメモが握られている。
『病院に入った頃から使い魔に見張られている。が、自然にしていろ』
「あんまりバカバカ言うなよ。今日はお前の兄さんだぞ?」
「それは病院を出るまでと言ったろうが。まったく、バカも極まるといかんともし難いな」
がっはっはと笑いながら、かなえは迷うことなく自家用車へ向けてへ歩き出す。それに合わせる海里は、まだ病院の敷地内だぞ妹よ、と軽口を叩いていた。
「はい、カバンもって、お兄ちゃん」
車の手前で有無を言わさずにカバンを持たされると、そのままの姿勢でかなえは眼帯を取り出した。慣れた手つきで右眼にそれをはめている。
開かれた瞳は勿論、左。透明に輝くそれが晒され、魔女らしく嗤う。
「お前な、途端に底意地の悪い表情しやがって。今朝の子どもが見たら泣くぞ?」
それとなく、敷地内の人を気にしているのかと問うてみる――遠回しな言い方だが、かなえなら気づく筈だ。
「やだなぁ、お兄ちゃんったら。そんなことはさ、ほら、その何だ。アレだよ」
かなえは左眼を開くと、違うチャンネルに接続される。こちらとあちら、異なる世界の情報をつなぐには少し時間がかかるのはいつものこと。しかし、使い魔なんて物騒な名前を聴いた海里は、その僅かな間すら惜しいと思ってしまう。
じれったいと思っていた刹那、二人の視線が交錯した。光る魔女の瞳から下僕の瞳へ、直接言葉が伝えられる。
瞳は視覚情報を脳へと伝達する、感覚受容器――そんな言葉を海里は思い出していた。
『目立ちたがりのバカがいる。とっととここを離れるぞ』
「バカ言ってないでとっとと帰ろう。いい加減留守番してるナナが暇を持て余しているだろ」
これも魔女のなせる業か、海里は素直に魔女の指示に従って車のキーを取り出した。かなえも指示が伝わったことがわかり、首肯している。
バキューン。
銃声が鳴り響く。比喩ではないが、本物でもない。海里は舌打ちをしながら携帯電話を取り出した。ディスプレイにはナナの二文字が表示されている。こんな時に電話がかかってくるとは……
『海里さん、依頼です』
「え、ええぇ――」
なんでこんな時に依頼が? 海里は困った顔をして、かなえの姿を視界に収めようとする。その際にはキョロキョロしないように努めたが、視線を動かさずに人を捉えることは無理だと悟り、フリーズした。
『もしもし、海里さん?』
どうしたものか、ほとほと困り果てていると服がぐいっと引っ張られる。ああ、かなえが助けてくれるのかと彼は振り返る。
「かなえ?」
彼の視線の先には雇い主の姿が見つけられない。焦り、下を見るとかなえがジャケットを掴んで蹲っていた。
「悪いナナ。すぐ帰るから、待っててもらってくれ」
パートナーへの言い訳もそこそこに、電話を切る。本当にすまないと思ってはいるが、それよりもかなえの方が大変だ。
「んぁ、すまんなお兄ちゃん」
「……とりあえず帰るぞ」
ちょっと緊張が続いたからなぁ、とかなえはもごもごと口にしている。
冗談が言えている内は平気だ。海里は自分に言い聞かせて、力なく膝をつくかなえを身体を担いで助手席へ運んだ。
「おーし、どんどんアクセル吹かせろー」
「いいから寝てろ」
軽口を叩いてみせるかなえへ、海里はぶっきらぼうに言い放つ。彼女に言われるまでもなく、雑念を振り払うようにアクセルを踏んでいた。
『入院中の母親に会った所為か……』
強い不安が首をもたげてきている。海里は歯がみをして、焦る気持ちを堪えようとした。シートに座らせたかなえの体は、彼の焦りを肯定するかのように軽かった。
町の主要部をすぎると、交通量は極端に減り出す。時間帯の関係もあるが、古い住宅が並ぶ町はずれは、随分と閉塞的に感じられる。
「……あいつか」
海里は軽スポーツカーを走らせながら呟いた。ルームミラーには、黒い影――カラスのようなものが映っている。
ようなもの――というのは、車のスピードに合わせて飛ぶカラスを彼が知らないからだ。恐らくは、あれがかなえの言っていた使い魔なのだろう。
「そろそろ、停めてくれ。屋敷までついて来られると面倒だ」
「……」
彼の言葉を聴いてか、かなえが口を開いた。シートを倒して、ぐったりとしている姿を見てしまっては、海里は同意しかねる。
「いいから停めろ。でないと、降りるぞ」
どっこいしょー、と魔女は呟きながら助手席を起こした。尚も海里は黙って運転を続けようと思ったが、仕方なくハザードランプを点けた。
「それって最早、脅迫だからな……」
呆れて呟くも、魔女は意に介さない。走行中にシートベルトを外されてしまっては、言うことを聞かざるを得ない。車通りも少ない道で、路肩に停すると、間もなくかなえはもぞもぞと助手席から降りた。
「さって、まずは小手調べ」
かなえは震える足を叩いて仁王立ちをしている。その瞳は使い魔を、それを操っている筈の人物を睨む。瞳は吐いた言葉と同じくらい強く見開かれている。それを追って、海里が運転席を降りると同時に驚いた。
「おい、使い魔ってこんなにいるのか?」
海里の視線の先、そこには十羽をこえる、カラスのようなものがこちらへと向かっていることが目視できた。
「ああ、こちらが応戦しようとしていることに気づいたのだろう。ここで一戦構えるつもりなんだろうな」
興味なさげに魔女は言う。しかしスイッチは既に入っているようで、如何に目標を蹴散らすかに思想は傾いていることだろう。靴すら脱いで身軽になった彼女は、海里すら近寄りがたい雰囲気で続ける。
「借りは今日の内に返す。レッスンその三――だ」
多くの使い魔の内、その一羽がかなえを目指して飛ぶ――そのスピードは先程の車のそれを軽く超える――しかし、魔女の自信は揺るがない。
「――――っ」
声にすらならない。スカートがたなびくと、半径五m圏内へと入る前に無残にも撃ち落とされてしまう。断末魔の悲鳴すら挙げることなく、使い魔は元の姿へと戻っていった。
「……紙?」
地べたへと落ちたそれをつまんで、海里は訝しむ。先程までカラスのような形をしていたものは、最早動き出すこともない。
「魔女といっても、この町では魔法信仰が薄い。陰陽道の真似事の方が奇跡として認識されやすいのさ」
膝に手をついてかなえは答えた。肩で息をする彼女は心配なものの、魔女と陰陽の相性ってどうなんだ、と海里は胸中でつっこみを入れていた。
「さ、悪い子には、おしおきだぞ、と」
かなえは口元を歪めながら話す。その様は笑顔とは程遠い。
『かなり無理をしているな……』
海里が心配するように、かなえはふらふらと頭を揺らしている。本人は嗤っているつもりだろうが、端から見ていると苦痛を堪えて歯噛みしているようにしか見えない。
「――――っ」
高い声を上げて、残りのカラスがかなえへと一直線に飛んでくる。
「イヌカイ、こういう時は、相手の出方をようく窺うように」
あくまでもレッスンのためと、かなえは緊張感を見せようとはしない。かなえが右足を蹴上げると、蹴った以上の風が起こり、かなえのスカートがめくり上がる。一塊に飛んできたカラスたちは、蹴りの直線上に固まっていたため、一撃で打ち抜かれて元の紙へと戻った。
「おい、パンツ出してる元気あるなら、とっとと帰ろう」
膝をついた姿を目に収め、海里は駆け寄る。
「動くな、イヌカイ!」
地面に落ちた紙きれが、形状を変えて魔女を拘束する。四方八方から蔦のようなものが伸びてきて、かなえの四肢にまとわりついた。
「相手の出方を窺えといったろ?」
手足を締め付けられながら、かなえは海里に説教を垂れていた。心配するのはそこじゃないだろう、と海里はこの状況で何を言っているのか、と家に帰りたくなる気持ちが強くなってきている。
「心配するな。この程度の使い魔にやられる私ではない。ないけど、この姿勢でいるままが耐えられん。人を屈服させたがるバカのいいようにされるのは我慢ならん」
締め付けられているのに、全く苦しさが見えない魔女。一体どこを気にしているのか、と海里は頭が痛くなる思いであった。
「ようし、わかった。イヌカイ、パンツを脱がせてくれ。今日はヒモパンだから、脱がしやすいぞ?」
「はぁ!?」
雇い主の突然の要求に、頭が痛くなる思いを止められない。人通りは少ないとはいえど、天下の往来で何を言っているのか。
「真面目な話だ。騙されたと思って、片方だけヒモを緩めてくれ」
「……片方だけだぞ?」
近づき、顔を伏せて、海里は右側のヒモをほどいた。
「え、ええええぇぇ」
途端、目には見えない圧力が一帯を襲う。海里は巻き起こった風に煽られ、停車していた車まで弾き飛ばされてしまった。
チカチカする目をかなえへと向けると、そこには何事もなかったかのように佇む彼女の姿があった。周りには四散した紙きれが舞い散っている。
「どうもこいつは扱いづらい。パンツ脱がないと本気出せないとか、気が狂ってるとしか思えないよな」
そりゃお前のことだろう? 海里は喉元までせり上がってきた言葉を必死に呑み込んだ。道端に散らばった紙切れを見て、海里は一先ず安堵する。
「最近弱っている私ならいけるとでも思ってたんだろうな。あいつ、臆病だけどプライド高いから、これで流石に尻尾を出すんじゃないか?」
ふふふ、と魔女は嗤う。心配ではあったが、結果からすると圧勝だった。どうやら、仕掛け人はかなえと因縁深い相手らしいが……
「無事ならいいけど、心臓に悪いからやめてくれ」
海里は力なく呻いた。一体このレッスンから、何を学べというのか……最早つっこむ気力すら薄れていた。
「それよりも俺は、屋敷の様子が気になるんだよ」
かなえの無事がわかると、今や途中で電話を切ったナナの機嫌が気になって仕方がない。
「ふむ。取り敢えず帰るか――あ、因みにレッスン三は、相手の力量をきちんと把握してからしかけましょう、だ」
ドヤ顔でかなえは助手席の扉を開く。その姿を見て、海里はため息を吐いた。
『それは俺でなくて、相手へのレッスンだろうに』
ドサ――
こめかみを押さえて頭痛を堪えていた海里であるが、物音に目を開かされる。
「バカ! 倒れるまで無理するやつがあるか!!」
自分のことは棚に上げて、海里は怒声を張る。再び助手席にかなえを乗せると、アクセルを踏み込んだ。
慌てていたため、彼は気づかない。舞い散る紙の一切れが服の裾にまとわりついていたことに――