1.愛は盲目―会わせたい人
「病院って、結構大きいのか。知らなかった」
コーヒーを口にして、海里は感想をこぼしていた。風邪すら滅多にひかない彼は、病院のお世話になることがこれまでにほとんどなかった。当然、この市民病院がどの程度の規模かもわかっていない。
「健康すぎるのも考えものだな。ほれ、これだ」
呆れた声を上げながら、かなえはカバンから取り出した資料を差し出した。喫茶店の一番奥の席ではこの後のことについて、作戦会議が行われている。
「え、お前、これ――」
海里からは思わず驚きの声が漏れる。一枚ものの資料には、今まで敢えて尋ねてこなかったことが綴られていた。
――宮古令一という名前や年齢の他、有名大学を卒業後は父親の家業を継いでいることなどが書かれている。
「驚いたか?」
町の権力者が兄であるという事実をどう受け取るか、かなえは遠慮がちな視線を送っている。
「驚いた。俺……かなえの苗字初めて知ったわ」
「――何に対する感想かね」
ガタっと音がして椅子が滑る。全く想定していない言葉が返り、かなえは思わず椅子から転げ落ちそうになっていた。
『そういえば、イヌカイは世間ずれしていないところがあったな』
「俺、なんかマズイこと言った?」
え、え、と視線をキョロキョロ動かしている。何を期待されているかが伝わっていないようだ。どうやら海里には、お屋敷の魔女の経歴や家族のことは大事ではなかったらしい。
「いやいや、気にするな。それでこそイヌカイだよ」
かなえは微笑を浮かべている。
「とりあえず、レイイチって名前だけ覚えておいてくれたら十分だ。むしろこれから言うことの方が要注意だぞ」
「お、おう」
資料をカバンに戻して、かなえが真剣な表情を浮かべている。海里はその顔を見て、思わず生唾を飲み込んだ。
「これから何を問われても、同意できれば『ああ』、それ以外ならば『どうだろうか』とだけ答えてくれ」
「え、どういうこと?」
「……そこは、ああと答えるところだろうが。まぁいいか、これつけておいてくれ」
何の変哲もないサングラスが海里に手渡される。少々訝しみながらも、言われるがままに身につけた。はい、とかなえが手を差し出していたので、丸眼鏡の方は代わりに預けておく。
「うむ。オーケーだ」
満足したのか、コートを羽織って彼女は立ち上がった。これで作戦会議は終わりのようだ。
三森螺矢――かなえに連れられて訪れた入院病棟の個室には、そう書かれたプレートが刺さっている。
「いいな? 打ち合わせ通りに頼むぞ」
わかった、と返事をする間もなく、かなえが扉をノックしていた。彼女が彼に頼み事をすることが自体が非常に稀であるのだが、今日は珍しいことずくめである。
はい、という返事を受けて扉を開く。透き通った、とても綺麗な声だなと海里は思う。声質からして、高校の友達なのだろうか。
「かなえちゃん、元気にしてた? 令一さん、こんにちは」
文庫本を枕元に置いて、女性が二人へ微笑んだ。海里は自分の耳を、否、目を疑った。入室前の声では少女かと思っていたが、そこにいたのは二十代後半の女性だった。長く伸びた黒髪は後ろで束ねられている。
ただ、一目で海里を令一と呼ぶあたり、視力は悪いことがわかる。海里の単なる感想だが、二人を見つめる瞳はやや焦点が合っていないように感じられた。
「元気だよ。お母さん、具合はどう?」
『お母さん!?』
思わず約束を忘れて、叫ぶところだった。かなえが比較的優しく、足を踏んできたおかげで黙ることができた。痛みが勝り、冷静になる時間ができた。今のやり取りの間に、令一さん大丈夫ですか?と尋ねられても、海里は自然に「ああ」と答えられていた。
「最近、少しなら散歩もできるようになったのよ」
「良かった。本も読んでくれてるんだね」
かなえの言葉を聴いて、とても嬉しそうに女性――螺矢は笑顔を浮かべる。
母親ということで、海里は視覚情報の修正にかかった。かなえの年齢を考えれば、若く見積もっても四十代だろう。何だか混乱してくる思いである。
二人してベッド横の椅子に腰かけてしまえば、海里は少し落ち着いてきた気がしていた。母親が入院していること、とてつもなく若く見えることには驚かされた。更に、かなえが年相応の話し方をしていることには驚いた。他にも驚いている点があるのだが――
「令一さんは、お仕事忙しくないんですか?」
「……どうだろうか」
判断しようのない問だったので、このように答えた。曖昧な返事であったろうに、螺矢は、日によって忙しさは変わるものですね、と納得をしている。かなえたちにも驚いたが、息子に向けて送る言葉としては、随分とよそよそしいものではないだろうか。
「兄様はいつも忙しいよ。今日は私が誕生日だから、午前中だけ休みをとってくれたの」
かなえの話を流す方がいいのだろうが、一々引っ掛かりそうになってしまう。何というか、誕生日ならそうだと教えてくれればよいのに、と海里は複雑な心持ちでいる。
「あ、おめでとうが遅くなっちゃったね。かなえちゃん、ちょっとこっち来て」
手招きをして、引き出しを開けるよう頼まれる。その中には包装された小さな箱が入っていた。
「わぁ、綺麗。大事にするね」
箱の中身はペンダントだった。それを確認すると、カバンの中へと大事そうに仕舞い込んだ。
「あら、今日来てくれるってわかっていたのに、飲み物を用意してなかったわ」
「私、買ってくるよ。お母さんはいつものコーヒーで、兄様はブラックでいいかな?」
「……ああ」
ミルクが入っている方が好みであるが、海里は頷く。どう返事するかを予想していたのか、既にかなえは立ち上がっていた。
「悪いけど、ラテが飲みたいから売店まで買いに行ってくれる?」
螺矢のお願いに、にっこりと笑ってかなえは病室を飛び出す。
「……」
甲斐甲斐しく動くかなえには感心をするところであるが、取り残されてしまうと途端に困ってしまう。妙な間が生まれようとも、海里には二種類の返事しか許されていないのだ。
「ごめんなさいね。かなえのわがままに付き合わせてしまって。迷惑をしているでしょう?」
螺矢は心底申し訳なさそうに眉を潜めていた。
「どうだろうか?」
「迷惑でなければ、あの子の力になってあげてください。私には、心配かけないように猫を被っていますから」
「……ああ」
十分に会話が通じてしまっている。魔女の先読みの的確さに、内心でまた驚く。
「あの子が戻るまで、少し時間ができました。ええと、何とお呼びしたらいいですか?」
「え――」
全く想定をしていなかった質問を受け、海里は間の抜けた声を上げてしまう。
「やっぱり、別の方ですね……今日は驚いているんです。かなえが令一さんと仲直りできたのかと思ってしまいました。そっくりさんであっても、令一さんと仲良くしているところが視られて安心をしました」
かなえに足を踏まれているのだが、仲は良いのだろうか。ふとどうでもよい疑問が頭を過ぎる。
「犬養海里と言います。その、なんというか、すみません」
こうなればかなえとの約束も反故だな、と海里は口を開いた。わざわざかなえを売店まで行かせたということは、自分と話したいということだろうと納得しておく。
「雰囲気がよく似ていますね。ですけど、令一さんの真似をするには、優しすぎる気がします」
あの子は宮古の人たちの前では堅くなるので、と螺矢さんは困ったような顔をしていた。
「俺、その令一さんに似てるんですか?」
「ええ、見た目は本当にそっくりですよ。あと、ちょっとぶっきらぼうなところとか。私の目は、あまり見えてないのですけどね」
ふっと笑う姿は、海里が最初に受けた印象通り、少女とも見間違うようなものだった。この人に嘘は付きたくない。ふとそんな考えが過ぎり、気づけば兄の代わりを頼まれたと話していた。
「かなえが人に頼みごとをするなんて……これも驚きですね。余程、あなたに懐いているんでしょう」
そう前置きして、螺矢はかなえと自身のことを少しばかり話し始めた。
かなえには兄の他に、スミレという腹違いの姉がいること。宮古家の後妻になり、かなえを産んだことが語られていた。
「私の家系は少し変わっているんです。あの子が変わったところがあるとしたら、私の所為ですね……」
視線と一緒に、声のトーンが少し落ちた。産まれてすぐにかなえと引き離されてしまって、母親らしいことが何一つ出来ていない、と後が続けられる。恐らくは、かなえが魔女と呼ばれていることも知らないだろう。
「えっと、何て言ったらいいか……」
ここまで話を聴いて、海里は返答に窮していた。今まで尋ねたこともない情報が一度に入ってきている。今更かなえへの態度が変わるものでもないが、この母親には何かを言っておかないといけない気がしていた。
「母親失格、ですね」
自嘲的に笑う彼女を見て、ようやく伝えるべき言葉が見つかったと思う。
「螺矢さん、お願いがあるんですけども」
「なんでしょうか」
「すぐじゃなくていいんです……かなえを抱きしめてやってくれませんか? あいつ、誕生日なのに嬉しそうじゃないんです」
今日はこれまで、かなえに違和感を覚えていたが、今話したことに最大の違和感が隠れていたのだと思う。母親とほとんど暮らしていない。それでも心配をかけまいと、こうして母親を訪ねているのだから、かなえは螺矢を嫌っている筈がない。しかも誕生日あると言うのに緊張したような表情ばかり浮かべているのだ。
「そんなこと、考えてみたこともありませんでした。だって私――」
「俺、親父を早くに亡くしているんです」
会話を遮って、海里は身の上話を切り出した。
「妹は、ろくに親父のことを覚えていなくて。まぁ、俺が父親代わりですけど。多分俺が何か言うよりも、親父が頭なでてやる方が効果あるだろうなって、たまに思うんです」
本人が嫌がろうが、一度くらいは抱きしめてやっても罰は当たらないだろう。幾つになろうと子ども扱いできるのは、親の特権なのだから。しがらみも何も度外視してくれたらありがたい。
「……あの子が、犬養さんを好いている理由がわかったような気がしました」
いつになるかわかりませんが、やってみます、と母親は笑ってみせた。随分説教じみたことを言ってしまったな、とも思ったが不思議と後悔はない。
さて、これ以上は特に話すこともないか、と海里が思ったところで扉がノックされた。
「兄様、お母さんに変なこと言ってないよね?」
ガラリと扉が開き、かなえが海里を見つめて――否、睨んでいる。開かれているのは右眼であるというのに、妙な圧力を感じてしまう。
なんと返そうかと思案し、海里は笑って答えた。
「……どうだろうか?」