1.愛は盲目―兄妹
首を一つ鳴らして、海里はエンジンのスイッチを押した。小気味よい音とともにディスプレイやらステレオやらが起動する。
「随分ご機嫌ななめだな……頓着しない私も悪いが、世間的にはお前が悪いんだぞ?」
無言で車のシートを合わせる姿が不機嫌そうに映ったようで、魔女は困った顔をしながら下僕へ話しかけていた。
「それで機嫌が悪い訳じゃないって」
「それじゃないとしたら……ああ、ナナの発言か」
困った表情を崩し、くっくと嗤う。海里は彼女の言葉を否定することもなく、眉間に皺を寄せる仕草で応えていた。
『海里さんって……運転できたんですね』
意外です、と心底驚く少女の顔を思い出して、海里は知らずの内に舌打ちをしていた。ルームミラーを調整していると、笑顔で手を振るナナの姿が映っている。
「俺、何もできない人だと思われてないか?」
ナナには自分がどう映っているのか。海里は不機嫌というよりも、不思議な想いで首を捻っている。横からは、かなえがお前も案外器が小さいな、と笑っている。
「でんと構えていたらいいさ。この車は二人乗りだからお前は留守番だ、と冗談を言っても、ナナは不機嫌な顔一つしておらんぞ?」
「うるさいなぁ……」
うりうり、と脇腹を小突く手を払いながら海里は呻く。久々の運転で神経が尖っているようで、眉間の皺はますます深くなっていた。
かなえが用意した車は国産の軽オープンカーだ。がっしりとしつつもシャープな面構えと赤いボディを気に入って、先代お屋敷の魔女が購入したものと海里は聴かされている。ここ二年ほどは運転できる人がおらず、屋敷のガレージに眠らされていたとのことだ。永らくの休眠期間を経て、本日の出番となった。
シートは実際に二人分しかなく、荷物を乗せるようには作られていない。シンプルかつお手軽に、走りを楽しむコンセプトで作られた車だ。ミラーやシートの位置を調整した後、海里は左手辺りのシフトレバーを見ては、おっという声を漏らした。
「ミッション車だったら勘を取り戻す時間が必要だったが、これなら大丈夫そうだ」
右ハンドルのオートマチック車であったことに安堵の息を吐く。隣ではかなえが、行くがよい! と身を乗り出して海里の頭を掴んでいた。
「シートベルト締めて、座りなさい」
「焦らずとも座っておるわ。さあ、行こうぞ!」
早速シートに納まったかなえは、随分とご機嫌そうだ。こうして見ると、歳相応、とまではいかなくとも少女らしい一面が感じられて海里もほっとするところである。
「ないとは思うが、依頼人が来たらイヌカイに電話をしてくれ」
それではな、とナナに告げ終わる頃には、真っ赤なオープンカーがお屋敷を飛び出していった。
駐車場は平日の午前中であるにも関わらず、ほぼ満車状態となっていた。幸いにして、入口にほど近いところに停められたことを海里は幸運に思った。それと同時に、これ程にも病院には人が来るものか、と驚いてもいた。
「ほれ、どうした。さっさと来ないか」
先を行くかなえが急かしている。ランニングをしていた時のナナとは少し違い、居ても立ってもいられないというか、落ち着きのない様子である。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
運転席を降りてから、改めてジャケットを羽織る。運転中は邪魔だからと脱いでいたのだが、袖を通してみると随分と良い素材であることがわかる。かなえが今着ている服もそうだが、かなり上等な服なのだろうと海里は感想を持っていた。
サイドミラーに映る自分の姿を見ても、どうにも上手く着こなせていないと思ってしまう。ナナからは髪型が悪い、とオールバックにされたのだが、それも違和感に拍車をかける結果となっていた。
違和感といえば、かなえが眼帯をしていないのもそうだ。物騒な左眼は屋敷を出た時から瞑られているので、安心といえば安心なのだが。
「……まぁ、いいか」
これを着ろ、とかなえが言い出したので反抗のしようもない。深いことは考えないと決めて歩き出したが、今度はかなえが入口付近で立ち止まっていた。何があったのかと考えていたところ、かなえが出掛け以上に困った顔をして海里を見つめていた。
「なぁ、どうしたらいい?」
困惑顔のかなえの先には、号泣する男の子が一人。どうやら親とはぐれてしまったらしく、わんわんと泣いている。泣きじゃくっているため、言葉も明瞭に聞き取ることができない。
「何言ってんだ。かなえが見つけた子どもだろ? お前が面倒みろよ」
「……ここに来て意趣返しとは、従僕の癖に生意気な」
日頃のお返しをされて、かなえは海里を一瞥する。だが、目の前で泣き叫ぶ子どもがいるので、それ以上は返さずに屈んで言葉をかけ始めた。年の頃、八歳程度であろうか。声を掛けられたことで、泣き顔に少し変化が見られる。
「どうした、坊主」
かなえさん、それ女子高生がつかう言葉と違います! 海里は思ったことは口にはせず、胸中のみで呟く。ついでに説明すると、見目麗しいお嬢さんがヤンキー座りをしている姿も色々とツッコミどころがある。
「病室が、わからなくなったの……」
ぐすっと鼻をすすりながら子どもは答える。妹の父親代わりをしていた海里は、危うくなれば助けるつもりでいたが、滅多にない魔女奮闘記を見守ることに決めていた。無論、ニヤニヤしながら見守っている。
「お前の望みはなんだ?」
開く瞳を入れ替え、かなえは子どもをじっと見つめる。親の元に戻ることが、最大の望みか? と尋ねているつもりなのだろう。透明なかなえの瞳が子どもに迫る。これで子どもに通じるのか、いよいよ自分の出番かと海里は二人へと歩みだした。
「ボクの望みは――」
瞳を手の甲で拭い、少年はハッキリとした声音で告げる。少年の言葉を聴き、海里の足はそこで止まっていた。
「――望みは、お母さんと、これから生まれてくる妹を守れるくらいに強くなること!」
これ以上はない程、断言される。その様を見送って、かなえは破顔してみせた。少し離れた海里から見ても、この上なく満足している表情に見えた。
「……よい望みだ。よし、坊主は来た道を引き返せ。売店辺りまで戻ればいいことあるぞ」
多分、という言葉は相変わらず付け加えられていたが、純真な少年は疑うことなく一目散に走り出す。病院の入り口に達したところで、何かを思い出したかのように魔女へと振り返る。
ありがとう――聞き取れはしなかったが、少年の表情を見ればそう告げていることがよくわかる。
「坊主の未来に祝福を――」
左眼を閉じて、かなえはそっと呟く。その声はどこまでも優しく、穏やかだった。
「優しいじゃないか、かなえ」
「……私は真の望みを知る者には、いつだって寛容さ」
何と声を掛けてよいかわからずに、つい意地悪く言ってみたものの、さらりとかわされた。海里が少年の望みに涙しかけたことは、どうやら彼女にはお見通しらしい。
「わざわざ左眼で見てやったんだ。あの坊主には強くなってもらわないとな」
「しかし、かなえの瞳はすごいな」
思いつくまま感想を述べたが、褒められた筈のかなえは表情に影が差し込んでいた。
「……欲しかったのは、こんな力じゃないさ」
ぼそりと答えた言葉に、なんと答えたものか。海里は言葉を詰まらせる。
「ああ、そう言えば注意事項がある」
かなえがいつもの彼女らしい表情で、海里に向き直る。
「お前、病院を出るまでは、私の兄さんだからな」
「――は?」
随分と素敵な服を着せられたことだと思っていたが、まさか兄の代役だったとは……これから会わされる人物は何者なのか? 海里は興味はあったものの、黙ってかなえの後を追って病院に入った。