1.愛は盲目
トントントン――
「……んぁ」
一定間隔の小気味良い音が耳に入り、海里は目を開いた。点けっぱなしのテレビを見れば、時刻は七時になろうかというところだ。朝の報道番組では、これから仕事へ向かう人のため、本日の天気が放送されていた。
『今日は、一日晴れか』
胡乱な頭のまま、その情報を瞳から収集する。別に仕事という訳でもなかったが、出かける予定があるので天気は気になる。
「あ、起こしちゃいましたか?」
随分寒くなってきましたね、という言葉をこぼしながら彼女はコンロに火をかける。ベッドから上半身だけを起こして、その様を見送った。普段から薄着で過ごしているが、今朝は彼女が言う程寒くは感じない。人がいれば、案外と部屋は寒く感じないものだ。
「そろそろ起きようと思っていたから……」
台所で働くその姿を目に収めながら、海里は何度か目を瞬いてからぼんやりと言葉を返した。寝起きで頭がハッキリとしていないせいもあるが、この光景には未だ慣れない。
クリーム色のセーターに、動きやすそうなホットパンツを履いたナナは、手際よくテーブルに料理を並べていた。白いエプロン姿が、寝ぼけた目には随分と眩く映る。
「今日はかなえさんとお出かけでしたね。しっかり食べないと、また怒られちゃいますよ?」
お鍋のふたを開けると、温められた味噌汁の良い香りがほのかに漂ってきていた。かなえという名称を聴いてか、怒られると聴いてか、海里はようやく頭が回り始めたことを自覚する。
「会わせたい人って、どなたでしょうね? あ、お箸すぐ出しますから」
ご飯を装いながら、ナナは呟いた。
「あー、全然見当がつかないな。屋敷に戻ってからでも話すよ」
椅子に腰かけながら、海里は昨晩の内容を思い出すことに努めていた。
『お前に会わせたい人がいるから、明日来られたし』
突然の呼び出しはいつものことであるが、ナナはお留守番だ、と付け加えられたことを少々懸念する。ここしばらく仕事らしい仕事もない。ひょっとしたら、ナナの記憶の件で進展があったのだろうか。
「お?」
仏頂面のまま、味噌汁を口に運んで一言。温かいだけではなくおいしい食事に、つい笑みがこぼれてしまった。彼の表情を見てか、ナナもまた微笑んでいる。
本日の朝食はご飯と豆腐のお味噌汁に、ししゃもが用意されていた。豪華、とまではいかなくとも、これまでの海里の食生活を考えれば感涙むせび泣いても不思議ではない。
「おかわりもありますよ……実はちょっと作りすぎちゃったんです」
上手に作れなくてごめんなさい、と彼女は味のりを差し出しながら苦笑いを浮かべていた。これで下手ならば、今までの自分の食事は何だったのか?
「どうかしました?」
「いや、気にしないでくれ。発作みたいなものだ」
かぶりを振っているところをナナに見られてしまった。たまに押しかけてくる千里が食事を作ってくれることもあるが、アレと比べるのが間違いだった。世の中には良い押しかけもあるものだ、と海里は素直に感謝をして食事を進めていた。
「もう冬ですね。早いものです」
海里の奇行にも慣れたのか、平然と手を合わして食事を始める。スルーされることは悲しくもあるが、同時にありがたいものでもあると知る。
「なんのかんので、もう一か月か。早いもんだな」
海里はししゃもを頬張りながら、この一か月を振り返った。殺されたと話す依頼人と出会ってから、それ程の時間が過ぎていたことに内心驚いている。まさか他人を傍に置いて安心していられる日が来るとは、これまでに思ったことなどなかった。
「できれば、このまま穏やかに過ごせるといいですね」
伏目がちに話す彼女は、今日は食の進みが遅い。前回の依頼から、少し時間が経った。伯父の依頼を果たした後、祖父の元を訪ねたものの、ナナの記憶はこれといって戻る気配はない。
『犬を探している、と彼女は言っていた』
祖父の言葉が今も彼の脳裏を掠めている。わざわざ犬養家へ依頼をしようとしていたのだ、ただの犬探しと考える方がバカげている。記憶を失う前のナナは、妖に絡む事件に巻き込まれていたのではないか――或いは、事件を起こしていたのではないか。
「いやいや、バカな」
ぶんぶんと首を振って、湧いて出た考えを打ち消す。また意味の分からない行動を取ってしまったか、と少しばかり後悔の念が首をもたげたが、視線の先にいる少女はにこにことこちらを見つめ返している。
「ああいや、俺には歳の離れた妹が一人いてな。そいつがたまに料理を作ってくれるんだが……」
考えを打ち消すよう、海里は身の上話を始めていた。これまで他人にはほとんどしたことなどなかったことだが、自然と言葉が突いて出た。
「さ、今日も一日がんばりましょうね!」
かなえのお屋敷の前で扉に手をかけたまま、ナナは張り切っている。
「お前、本当に元気だよな……」
海里はというと、まだお屋敷の門に差し掛かったばかりだ。蚊の鳴くような声で返した言葉は、彼女に届いているかどうか。
小さく嘆息を吐きながら、自らの身体に動けと念じてみる。決して朝が弱いという訳ではない。だが、きちんと朝食を摂る習慣がこれまでなかったため、ここまでのランニングが随分と堪えているようだ。
「海里さん、もうじき約束のお時間ですよ」
早く早くとパートナーを急かすように、手をぴこぴこと振っている。例の如く、電車賃を節約するためにここまで走ってきたが、ナナは息を切らす様子が全くない。
「あれはランニングではなくて、最早シャトルランだよ……」
ここまでの道中を思い出して、海里は大仰にため息を吐いてみせた。何しろナナの足は早い。走っては立ち止まり、また走っては立ち止まりと先を行くのだから、海里はその姿を追って息が切れるまで走らざるを得なかった。
『犬っぽい犬っぽいとは思っていたが、まさにって感じだな』
先を走ってはこちらを振り向くのだが、その際の姿が何とも楽しそうに目に映った。走ることは好きではないのだが、そんな顔をされれば、走るのもやぶさかではないと考えてしまう。彼女に尻尾があれば、ちぎれんばかりに振られていたことだろう。
「どうした、入らないのか?」
やっとの思いで玄関に辿りついた彼を待っていたのは、ジト目で睨むパートナーだった。
「いえ、入ります。ですが、何か、失礼な想像をされている気がしまして……」
「何を言ってるんだ! 最近寒いし、とっとと屋敷に入ろうじゃないかっ!」
視線をあちらこちらへと彷徨わせながらも、ナナの肩に手を置いた。走って暑いくらいであったが、半ば強引に話を打ち切ってみせる。
押されるナナはというと、未だ半眼のまま「勘違いならいいんですけどね」と不承不承ドアノブを回していた。その勘は正解だ、という言葉よりも、人の思考を先読みする魔女に段々と似てきているようで、海里はうすら寒い感覚を味わっていた。
「おっす、かなえ。今日は時間通りに来た――ぞ?」
突如味わう違和感。
かなえの私室を開け放った海里は、背筋に寒気を覚える。背筋というか、それは背後から感じられた。週末は真冬並みの寒波が訪れるという天気予報を見ていたが、彼の脇や背中は汗が伝っていた――それはもう、盛大に。
「おお、イヌカイか。丁度いいところに来たな」
魔女は平然と語りながら、ベッドに服を並べては腕組みをして唸っている最中だった。
本日着る服を吟味しているのだろう。いずれも華美ではないが、人前に出るには十分な装いであった。
会わせたい人とやらは余程大事な人なのだろう。普段からかっちりとした服装をしているかなえが、ここまで悩む姿を海里は見たことはなかった。だから悩む主の力に何とかなりたいと思ったものの、こうしている間も海里は背後からの視線に、身体の熱が奪われていくような錯覚を感じていた。
「どうだ、どっちがいいだろうか?」
候補はかなり絞れていたのだろう。両の手にそれぞれ握られたブラウスは、いつも彼女が身に着けているものとは少々、趣が異なっていた。海里の眼前に突き付けられたそれらは、襟元が幾分か丸みを帯びており、刺繍が施されている。
「ああ、俺は右手に握っているヤツがいいかと――グァッ」
真剣に答えている最中であったが、海里はアヒルのような声を上げて、身体をフローリングに埋めて黙る。
「何だ、お前もこっちがいいと思っていたか」
かなえは海里の様子に気づきもせず、上機嫌な声を上げていた。自分のお気に入りを褒められてか、うんうんと満足げに頷いてみせる。首の動きと一緒に、下着には収まりきらない程主張する胸が上下に揺れている。が、朝食が込み上げてくる感覚を必死に抑えている海里は、その様を見ることはできずにいた。
否――部屋に入った際、下着姿のかなえのことは一度目に収めていたので、その様を見続けることはできなかった、が正しい表現か。
「おはようございますかなえさん。いきなりですが、ちょっとごめんなさい」
今朝の楽しそうな表情はどこへやら。無機質な声でお屋敷の魔女へ挨拶をして、ナナは海里を廊下へ放り投げた。こちらも板張りであったが、かなえの私室よりもひんやりとしており、吐き気はどうにか抑えられそうだった。しかし、ナナに強打された肝臓が痛んで、当面起き上がれそうにない。
おはよう、というかなえのご機嫌な声だけが海里の耳に届いた。
「おい、イヌカイ。スカートはどっちがいい?」
部屋に放り出されていることも目に入らなかったのか、かなえは変わらずに言葉を投げかけている。前から思っていたが、集中しだすと周りがまったく見えなくなるようだ。
「ぉ、ぉ……」
見えないから返事ができねーよ、と言いたいらしいが、震える身体からは音声らしきものが出てくれない。
どうしたものかと思っていたところ、ガチャリという音とともに、ナナが扉から目だけを覗かせて海里を見下ろしていた。
「海里さん。女性の部屋に入る時は、十分に注意を払ってくださいね」
にっこりと笑みを作ってみせているものの、その目はまったく笑っていなかった。
教訓――ノックをせずに扉は開かないこと。