4.■覚抵抗・黙―嗜好
自分が変わっていることを自覚していたものの、変えようという気は起こらなかった。食事は痛いが、決して食べられない訳じゃない。
このことで誰にも迷惑は――否、料理をする母親には迷惑をかけていたか――それでも母さんは、ボクを責めることはなかった。単なる偏食家としか見ていなかっただろうし、無理に食べようとする自分を見ては、いつも心配をしてくれていた。だから、変わる必要性を感じていなかった。
「もう母さんはいないんだから、ちゃんとしろ」
ある時から、こんな台詞をよく聞かされるようになった。その度にボクの心によくない気持ちが、染みのように広がっていく。
『食事なら、ちゃんとしているじゃないか』
人と同じものを懸命に食べてきた。だって、人間らしくなりたかったから。母さんも、ボクが人並みに育つことを望んでくれていた筈だ。それでも食事の度に顔をしかめるボクを見て、アニキはまた言うのだ――ちゃんとしろ、と。
ちゃんとって何だ? ボクは自分の知る常識に従って、こうやって言うことを聞いている。食事ができない。誰でも当たり前のようにできることができないのは、ボクが人間じゃないからか?
身内にも理解はされない。理解をしてくれなくてもいいとは思っている。ただ、ボクはこういう人間だってことを、認めて欲しいだけだって言うのに……
染み込んだ感情が、ボクの心から滴り落ちたとでも言うか。心の容量を越えて、何かがボクの身体を覆い尽くしていった。
「ナナ、夕个とアルシエンティーを連れて、かなえの屋敷に向かってくれ」
海里は携帯電話を取り出しながら、二人に戻るよう告げた。既に決着はついているが、事後処理がまだ残っている。大の字になって倒れている少年をどうしたものか迷い、かなえに助言を仰ぐことにした。
「海里さんこそ、戻ってください。フラついてるじゃないですか」
夕个と海里を見比べながら、ナナは言う。だが、このまま何もせずに帰ることも、後を全てナナに任せることも海里の選択肢にはなかった。
「ナナに借りばっかりつくるのも悪いからな……頼むよ」
真っ直ぐに目を見つめて懇願する。
「……仕方ないですね」
困ったような笑顔を見せながら、パートナーは夕个の元へと歩いていった。
その後ろ姿を見守りながら、海里は誰にも気づかれないように舌打ちをする。咄嗟の出来事とは言え、ナナに『絶対命令』をかけてしまったことに後悔をしていた。元来、丈夫な獣にかけるものであって、生身の人間にかけるようなものではない。
『たまたまうまくいっただけ、だな』
自分がもっと強ければ、と胸中で毒づいた。大の字になって倒れている少年は海里のように特殊な能力を持った家系だと、かなえからは聴かされている。彼の父親には能力が見られなかったようで、とうに枯れた一族として祖父は見向きもしていなかったらしい。
「……はぁ」
これは聴こえてもいいか、と海里は大きなため息をついた。通り魔を庇うつもりなどは毛頭ない。勿論そうなのだが、この少年には同情のようなものを抱かずにはいられなかった。能力についてきちんと説明をしてくれる人が彼の周囲にはいない――海里自身、この途方もない瞳の使い方を教えようとしてくれる人がいなければ、どうなっていたことかと自問する。
「――海里さん、聴いてます?」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「夕个さんと先にお屋敷に戻ってますね」
よっこいしょ、とアルシエンティーを背負い直すナナ。夕个が後ろから支えているものの、大型犬を背負いながらも辛そうな表情など見せない。元気な印象の強いナナであるが、先程少年を倒した時の突きといい、知れば知る程不思議な娘である。
「海里兄、あの……ごめんなさい」
「謝る相手、多分違うぞ?」
夕个が俯いたままであったので、特に視線を合わせることもせずに呟いた。何を言えばいいか迷ってこんな言葉を吐いていたが、従妹が一層暗い顔をして俯いている。そんな顔をされては、困ってしまうじゃないか、と海里は言葉を探した。
「……困ったら、また電話でもしてこい」
「うん」
ようやく顔を上げた夕个は、彼の記憶の中の少女に近い表情をしていた。一見きつい印象の娘であるが、犬養の一族らしく真面目すぎて、優しさをうまく表現できないだけなのだろう。
「海里さん、いいお兄ちゃんですね」
「いいからとっとと帰れって」
ニヤニヤと表情を緩めるナナに、ぞんざいな返事をしてしまう。いいお兄ちゃんと呼ばれると、困ってしまうのだ。
「じゃ、あとでな。俺はこれからかなえに電話をする」
自分は良い兄などではない――この事柄にはまだ面と向き合えずにいた。逃げるようにかなえの携帯電話にコールする。
『もしもし、お兄ちゃん?』
「なっ!?」
甘ったるい声に、心臓が鷲掴みされたような感覚に一瞬だが陥った。かなえ流の冗談だとはわかっているが、コール音一回でこれは狙いすぎではないだろうか。
『おい、折角サービスしてやったのに何を呆けている。さっさと今の状況を知らせんか』
やはり海里の動きを見張っていた訳ではなかったようだ。海里はナナ達から聴いた情報を踏まえて、これまでの経緯を説明した。
『大した被害がなくてよかった』
離れた距離で思案顔をしている姿が浮かぶ。不安要素が取り除かれたのか、かなえは饒舌に才刄工の家系について続けていた。
妖を斬るための刃を追及するための、特殊な感覚を有した一族であること。過去に犬養家との交流もあったが、三代ほど前から能力を継承する者が顕れなかったために、影次もその動向には気を配っていなかったこと。実際に能力を使いこなしていた場合、タイマンでは海里は歯が立たないことなどだ。
『時にイヌカイ。いやがっていた割には、ナナをパートナーとして認めたのだな』
「成り行きだ。次は、ねぇよ」
くっく、という嗤い声を聴いて、海里は自分の目つきが鋭くなっていくのを自覚する。全てがかなえの思惑通りに進むというのは、何だか気に喰わない。
『そう邪険にせずとも、オオジジ殿もこれで安心するんじゃないか。センリをカタに取られずに済むだろう?』
「それとこれとは別だ。パートナーについてはいずれ考える。千里は、ジイさんにはやらない。絶対に――」
『随分といいお兄ちゃんじゃないか』
「うるせぇな。俺は兄貴失格の部類だよ!」
もう誰もいなくなったことで、気が抜けていたのかついつい大きな声を上げてしまった。日も暮れた裏路地に海里の声が響く。
『がっはっは、照れるな照れるな。うちの兄に比べれば、十分にその務めを果たしておるわ――ん?どうした、イヌカイ』
海里の緊迫感が伝わったのか、かなえはそれまでの雰囲気を一蹴して、状況の把握に努める。
黙る海里の瞳には、上半身を起こしたタクミ少年の姿が映り込んでいた。少年は口を動かして、うわ言のように何かを呟いている。
「かなえ、マズいことになった。才刄のやつが起きた」
『――今から向かう。何とかして間をもたせろ』
通話はそこで切れた。かなえが来るまで、どうにかして場を持たせねば。思考を巡らす海里に、目を血走らせた少年がこぼす言葉が耳に入る。その言葉に、海里はドキリとさせられていた。
アニキ――そんな単語を少年は呟いている。
才刄は刀鍛冶の家系。妖を斬るための道具を作ることに執心した一族だ。多種多様な妖を斬れる刀を造るため、その皮膚感覚は過敏とも言える程に洗練されている――それは時に、日常生活に支障が出る程に。
「……ア、ニキ」
言葉とともに、口から砂をこぼす少年。彼もまた、鋭敏すぎる感覚のために通常の食事が摂れない身体となっていた。先祖が鉄の出来を舌で確かめていたことを、彼は知らない。ただ、今は飢餓感と誰かに向けられた怒りのみに突き動かされている。
「寝ていればいいものを……」
海里はぼやきながらコートのポケットに手を入れた。意識が朦朧としている内に、停止命令をぶつけるつもりで思考を捲き直していく。だが、ポケットの中をいくら探れど指先はジッポに触れてくれず、厭な汗がこめかみを伝う。
『ナナに預けたままだったか』
己の失態を嘆く間に、少年はすっかり立ち上がっていた。大きく呼吸をしながら海里へと向かってくる。意識が朦朧としている内に、などというアドバンテージは既に失われていた。どのように立ち向かおうと思案している内に、少年が思いもよらない行動を取る。
「お前、何を考えて――がぁ!?」
海里の静止も間に合わず、タクミは自身の太ももにナイフを突き立てる。それと同時、激しい痛みが海里を襲った。
『強制的に感覚の共有を行う』とはナナから聴かされていたが、こんな能力の使い方をしてくるとはまったくの想定外だった。
「……ああ、この食感だ」
視線を中空に彷徨わせながらタクミは海里へ歩み寄る。平然と歩く彼に刺し傷らしきものは見られない。その代わりに、ナイフを刺したところを中心に、皮膚が光沢を放っていた。
「皮膚が、金属に?」
衣服にも張り付くそれは、どう見ても金属片だった。皮膚から金属を捕食している――意識してなどいないのだろう。新しく能力に目覚めたと考える方が自然だ。
「お前、なぁ……」
今まさに新しい能力を振るい始めた少年を、海里は片膝をついた姿勢で睨みつけていた。感覚が鋭敏すぎて味覚を失った少年は、刃を突き立てることで食事という行為を補っている。自身の正しい能力の使い方を知らず、金属の味を体に覚えさせているように、海里の目には映った。
「やめ――」
やめろと言いたかったが、言葉が最後まで続けられない。少年は続き、右足にナイフを突き立てる。少年自身に痛みという感覚はないようだが、金属が肉を割る感触が海里に伝わっていた。
「美味しい。美味しいよ」
オニイチャンと、少年がこぼす。痛みに歯噛みをしながら、海里は思う。ふざけるな、と。
「おいしいっていうなら……お前は何で、泣いている!」
他人事であるのだが、海里は知らずの内に怒鳴っていた。夕个の話では、彼は理解者を求めていた筈だ。それがどうして自分を壊す真似をするのか、さっぱり理解ができない。理解などできないが、これだけはわかる。兄を呼びながら泣く子どもを見過ごすこと――そんなことは自分にはできない。
「お説教の時間だ」
歯を食いしばって、海里は痛みを堪えた。幻覚であるとわかっているのに、刺された両足の筋肉が海里の意志を受け付けてくれない。
『瞳は視覚情報を脳へと伝達する、感覚受容器』
かなえの言葉を不意に思い出す。自分の瞳が優れているのだとすれば、必要以上に周囲から情報を取り入れている筈だ。感覚を強制的に共有させる相手とは、非常に相性がよろしくない。
だが、ここで倒れる訳にもいかない。海里はかなえのレッスン内容を再度整理する。
『己の能力を正確に把握すること』
海里が把握し、今あてに出来る能力は一つっきりだ。ナイフを握った少年が目の前にいる。迷うべくもない。
「動け、俺!」
全力で自分に『命令』する。痛みに惑う意志を無視して、両足の筋繊維が命令に従い収縮していく。
「もう一つ――」
逆手に握り直されたナイフが振りかぶられる。色々とこの少年には言いたいことがあるが、今言うべきことは一つだ。自分を傷つけるようなことはやめさせないといけない――海里はそれを目一杯叫んだ。
「もう一回眠らせる!」
同時、海里の身体が命令に従い、最適な行動を取るために爆ぜる。振り下ろされるナイフを左手で受けながら距離を詰めていく――だが、少年の蹴りにそれも阻止されてしまう。
「!?」
痛みに意識が途切れそうになる。金属を捕食した足から放たれた蹴りは、体格差のある海里をも怯ませていた。
「しまった――」
ゾブリという肉を裂く異音と痛みに、海里は無理矢理に意識をつなぎ止められる。少年は、そのナイフを自身の腹部へと突き刺していた。血の代わりに腹を覆う金属と、肉の裂けた痛みが海里の脳へ伝播する。
『近づけもしねぇ』
地面に這いつくばる姿勢のまま毒づいてみる。彼の『絶対命令』は、パートナーでもない相手に仕掛けるには、極々至近距離でしか効果を表さない。
万策尽きたかとも思えたが、新しい痛みは伝わってこない。代わりに、顔を上げた海里の視界に苦しむ少年の姿が収まった。
「あ、ああ、あ――」
都合三度刺した箇所から金属は広がっていき、今では少年の八割程が包み込まれていた。その人型をした金属は、喉元を掻きむしっては苦悶の表情を浮かべる。まるでそれは酸素を求めているように見えるが、悲しいかな金属に覆われた皮膚には傷の一つもついてはいない。
『かなえを待つとか、悠長なことは言ってられないか』
観念して、海里はこれまでに組み立てた思考を読み込み直す。あれだけ金属に覆われていれば、蹴ったところで大して効果は見込めない。
『それ以前に、本人の意志とは関係なく金属との一体化が進んでいる』
気を失わせたところで、目が覚めた後はどうなるかはわかったものではない。こうなれば、海里の取るべき方法は一つだ。近づかなければ命令できないのなら、無理にでも近づけばいい――
『また、かなえやナナに怒られちまうな』
海里は叩き込むべき、三つの命令の吟味が終え、駆け出した。命令その一、何があろうと一直線に走ること。
「――――っ」
金属の塊となった少年は声も出さずに海里を睨みつける――睨んでいるというよりも、痛みに目が鋭くなっているという方が正しいか――この間にも金属は広がっていき、少年の右眼を覆っていた。両目が金属に覆われては、海里に打つ手はなくなってしまう。
「ごふっ……」
金属の塊が胸に直撃し、肺から空気が漏れ出た。痛みはあるが、それでも海里は止まらない。命令その二に従って、右手は少年の顔を掴んでいた。異物が紛れ込むことで、残った左目への金属の侵食は緩んでいる。
「止め――」
苦しみもがく金属の塊が横殴りに海里の額を打ちつける。命令を送るために、開いた筈の海里の口の動きの方が止まった――その衝撃に、視界の九割は白く塗りつぶされる。
呻く言葉も上げられないまま、続く上方向からの衝撃に、海里の意識は絶たれた。
目を開けることも叶わず、記憶や意識が混濁する。
『まったく、お優しいことだ!』
感情を隠そうともしない、かなえの空耳が海里の耳に鳴り響いた。正直、耳の痛い話だが、黙ってはいられない。
『だって……仕方ないじゃないか』
我ながら子どもじみた言い訳だと思う。だけどこのままでは、確実に後悔することがわかっている。なら、やらなければ。
――自分には出来ることが、まだあるのだから!
意識が途切れたことを契機に、命令その三が実行された。
「止めてしまえ、そんな感覚は!!」
落ちていた意識が、強制的に開かれる。その瞬間を逃さずに、海里はありったけの声で怒鳴りつけていた。『命令』となった言葉は、怯える少年の左目――右脳と直接つながる回路へ叩きつけられる。
「あっ……」
小さく漏らし、崩れる少年。その身体からは金属の欠片が剥がれ落ちていく。そこまで見届け、海里は自身の右手と言わず、身体中から力が抜けていくことを他人事のように感じていた。
「これは最早、お優しいを通りこして、バカだぞ!」
頭から倒れ込むことすら覚悟していたが、柔らかい何かに抱きとめられて落下を免れた。
ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。人間の器官の中でも、特に嗅覚というものは優れている。意識を再び落としながら、海里は後を任せられる人物が到着したことに気づき、安堵した。