3.未確定項目―再会その二
お屋敷近くの公園は、昼間であるというのに寂れている。ろくな遊具もなく、雑草も長く伸びている。普段ならばこの時間であっても人気はまるでない。そこへ珍しく若い男女が対峙している。
「久しぶりだな。ちょっと痩せたか?」
海里は古い記憶を手繰り寄せる。短く切り揃えられた黒髪に、左目の下のホクロ――幼い頃の面影は残っているものの、背丈の伸びた少女はまるで別人のように彼の瞳に映った。
「標準体重より少し軽い、だけ」
夕个はボソりと答えた。薄手のコートを羽織っているが、そこから覗く足は細い。しかし、その瞳からは弱々しい印象は感じられない。
犬養家は瞳術は用いない――かなえの言葉を思い出し、これまでの記憶に修正が必要だと海里は思い直していた。一族の瞳は、みな迫力を備えているのは、かなえのような魔眼が備わっているからだと思っていた。だが、サキの言には夕个は犬養の力を使いこなせていないとあった。この瞳の強さは、紛れもなく彼女自身のものなのだ。
「叔父さんから、家に帰ってないって聞いたぞ。いや、今そのことはいい。俺に電話してくるなんて、何か話したいことでもあったんじゃないか?」
「……」
ベンチから立ち上がったままの姿勢で、視線を逸らす。海里は幼い頃、夕个が親戚の集まりで叱られていた時の姿に重ね合わせていた。
「飯、食えなくなってるんだろ?」
「――っ」
海里は意を決して尋ねてみた。今の言葉は直球勝負なだけにどうなるかと思っていたが、彼女は唇を噛みしめる。その反応は当たりと見ていいだろう。
ナナが受け取った昨日の夢は、誰からも理解がされずに彷徨い歩く者の記憶ではないか、とかなえが言っていた。身内の不始末は、せめて自分が引き受けておきたい。海里はコートのポケットから両手を引き抜いた。
「電話取れなかったけど、今からでも話を聴かせてくれ」
「……言っても理解できないわ」
「じゃあ、どうして電話してきた?」
両手を掲げ、戦う意思がないことを示す。とにかく今は対話が必要だ。
「相談したかったから。理解できなくても、カイリ兄に聴いて欲しかった」
けれど、もういい。顔を上げて夕个はそんな言葉をこぼした。海里を見据える瞳は先程よりも一層キツいものへと変わっている。
「さっきの電話で言ったけれど、今から忙しくなるの」
何と声をかければよいのか、海里は一瞬口ごもってしまう。目の前の少女は、未だに自分のことを昔のような呼び方をしているが、今は拒絶の意志を強く示している。
「海里さんっ!」
不意に名前を呼ばれて海里は視線を夕个から外した。公園の入り口を見やれば、ナナが彼の元へと走ってきている。膠着状態を破らざるを得まい。ナナを巻き込みたくないし、この場に姿を見せない犬のことも気にかかる。
「……昨日、路地裏で少年が誰だかに刺されたってな」
「――!?」
一転、目を大きく開いて動揺してみせる。これも当たりか、と海里は胸中で嘆いた。少々手詰まり感のある中で核心に迫ったものの、できれば外れていて欲しかった事柄だ。不安定になった夕个が人を襲っているなんていうことは、認めたくなかった。
「叔父さんには、連れて帰って欲しいとだけ頼まれていたが……これからまた徘徊するというなら、少し厳しく接しないといけない」
「私は家に戻ることはできない。止めるというなら、カイリ兄であっても容赦しない」
臨戦態勢に移るために、足回りの筋肉を強張らせた海里であったが、突如右わき腹に衝撃を受けた。
「ちっ――」
不意打ちに思わず舌打ちをしてしまった。衝撃を受けた方へ転がりながら距離を取る。まさか命令らしい命令を受けずにこんな芸当ができるとは。その様には、素直に驚嘆した。夕个とナナの間の位置で身を起こし、今彼に体当たりを加えた犬を睨みつける。
「アーシェ、牙は使わないで」
主人の命にアルシエンティーは、グルルと低く唸って応えた。海里は成犬となる前のアルシエンティーしか見たことがなく、その迫力に胸中で再度舌打ちをしていた。
サウス・ロシアン・シェパード・ドッグは“ユウキ”同様、ロシア原産の犬種だ。ユウキ程の大きさはないが、骨太の体に分厚く白い毛並は彼の頑強さを告げている。ユウキとの違いを挙げるとするならば、ユウキが狩猟犬であるのに対して、このアルシエンティーは家畜の護衛を担ってきた犬種であることか。くりっとした可愛らしい瞳をしているが、立ちはだかる相手が如何なる者であっても、主人を護るためにはその勇猛さを披露することだろう。
「ジイさんのイヌ達との前哨戦にしてやるよ」
海里は一言こぼし、左ポケットのジッポに触れる。ナナが不用意に踏み込んでこないよう、空いた右手を広げて制してみせた。
「わかりました。ご武運を」
ナナは海里の意図を理解した。胸元で手を組んでは、その場で直立姿勢を保っている。昼前には、いとも簡単にユウキに組み敷かれた彼を見ていた筈だが、素直に従ってくれてるとは。
『ナナはパートナーに打って付け、か』
ゆったりと距離を詰めるアルシエンティーを前にしているが、海里は緊張感のない感想を浮かべていた。何でもかなえの言う通りになってしまうのは、少々癪に障る。
「アーシェ、突撃!」
夕个が巻き舌交じりの発音で命令を下した。主の命に応えるよう、よく響く声を残して下僕は突撃する。
「速いっ!」
砲弾のように真っ直ぐ、海里へと突き進むアルシエンティーを見て、ナナは驚き叫んでいた。だが一方で、そのスピードは目にも留まらぬとも言えるものであったが、開いた距離と直線移動であることから回避は容易だ。
「ぐ、あ――」
巨体をモロに受けて、海里はもんどり打った。カツン、と公園の床を跳ねたジッポが高い金属音を立てる。
「海里さん!」
どうして避けなかったのか。手は出さないように指示を受けた身であるため、その場を動きはしないが、ナナの心中は穏やかではない。アルシエンティーは追撃をせずに、やや後退して様子を窺っている。
「相変わらず優しいね、カイリ兄は。そんなので私を止めるだとか、笑わせないで」
愛犬の背を撫でながら夕个は呟いた。特に感情もこもらない声がナナの耳に届く。
「あ――海里さん、ごめんなさいっ!」
倒れる彼へ、何を言ってよいかわからずにともかく叫んだ。彼女と夕个は彼らを挟んで、丁度直線に位置している。海里がアルシエンティーを躱していれば、今頃地面に倒れ込んでいるのは自分だった。
「アーシェ、後はよろしく。カイリ兄が起き上がったら……あの女もろとも突破よ」
最早結果を見ることなく、夕个は踵を返して去っていく。少し立ち位置をずらせば済む話だと理解しているのに、ナナは動くこともできない。ただただ、海里が公園の床に這いつくばっている姿から瞳を離せないでいた。
『足手まといにはならないって、約束したのに!』
目を瞑り、拳を固く握る。いつだって自分の我がままを受け入れようとしてくれていた、彼への甘え心に後悔をした。
「ナナ、動かないでいいぞ」
よっ、と軽い声を上げて海里はその場で飛び上がった。未だ健在の海里を視界に収め、アルシエンティーはグルルと唸ってみせる。
標的はまだ倒れてはいなかった。主の次の命令は『起き上ればすぐに突破』であったが、確実な遂行をすべく、距離を一つ離しては後ろ脚に力を込めた。
「海里さん!」
「心配すんな、大体わかった」
今ナナに向かっていったことは決して見栄を張ってのものではない。
『サキの言う通りだ。夕个は犬養の力を使いこなせていない』
サキは苦手だが、決して嘘は吐かない。これも癪には違いないが、祖父のイヌを彼はこの上なく信用している。
海里はこの短時間で思考の整理を進めていた。犬養の『絶対命令』を受けた獣は、その副産物として能力の大幅な上方修正を受ける。彼は自身の胸を一撫でして確信をした。絶対命令を受けていたならば、自分のアバラは砕けていた筈だ、と。
「信じて、くれるよな?」
唸る巨犬を前にしながら、海里はナナの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「――はい!」
応えるナナは胸元で手を組むことはしない。祈る必要は、最早ない。
「サキ用に誂えた物で悪いが、お前さんで初お披露目だ」
肩掛けのバッグを開き、革製の手袋を左手にはめては眼前の大型犬へ突き出した。さっさとアルシエンティーを制圧して、夕个を追いかける。そのために最適化された行動を取るため、海里は思考を鋭く尖せていった。
「――――――ッ」
よく響く声を上げ、アルシエンティーが海里を、ナナを貫きに走る。
『他のことは考えるな。かなえのレッスンを活かせよ、海里!』
自身に言い聞かせると、心臓のギアが思考の外で一段、二段と上がっていく。左手はそのままに、やや腰を落としてその時に備える。犬養のイヌと相対するその時を――
「さっきよりも、速い!」
海里を信じると決めたが、ナナの胸に不安が去来する。先程とは比較にならない速さで突進するアルシエンティー。
だが――距離を取ったことで、“目に映らない初速”というアドバンテージは既に失われている。
海里の左手にはめられた手袋は、手指の動きを損なわせない範囲で鉄板が埋め込まれた手甲となっている。この直線距離では、身体の中心部の前に構えた左手を通過せずして海里の胴体には届かない。
「――――――ッ!!」
アルシエンティーが再度強く吠える。
「嘘っ!?」
事態の展開を見て取ったナナの口から失望の言葉が紡がれた。刹那の出来事だ。
海里の直前まで迫ったアルシエンティーが、左手に差し掛かろうというところで身体を反転し、その身を深く埋めた。
「――ああっ」
ナナは見た、主の命に背いてまで任務を遂行しようとする忠犬の姿を。アルシエンティーは深く沈めた姿勢から小刻みに地面を蹴り、勢いそのままに当初とは異なる位置へと喰らいつく。牙すら解禁しての一撃、騙まし討ちとしてこれ程見事なものもあるまい。
「お前、そっちを狙うのかよ!?」
拍子抜けしたような海里の声がその場に残った。空いた右腕にアルシエンティーが喰らいつくと、海里の身体が僅かばかり地面から浮き上がる。
「海里さん!」
信じていない訳ではないが、叫ばずにはいられない。六十キロはあろう大型犬が、海里の腕を喰い千切らんと――否、突撃の勢いで引き千切らんとしているのだ。
「――!?」
表情を変化させたのは、アルシエンティーだった。未だ海里の腕に喰らいついたままであるため、声には出さず巨犬は呻いた。その姿を捉え、ナナは身体の緊張が解けていくことを認識した。
「知っているか?」
誰にでもなく海里は呟く。
犬養の家は連綿と続く、妖退治の一族。その身は非力ながらも獣、妖が如何な行動を取るかを生真面目に集積、分析、対抗をし続けてきた。その知の集大成は血として海里の中にも根付いている。
『騙し討ちで俺を仕留めるには、真面目すぎたな!』
地面から浮き上がった姿勢から、眼前の獣を捉える最適化された行動へ――手袋と同じく、鉄板で固められたコートの下の右腕を回す。同時、初めから構えていた左手は太い首を抱えた。
重力に従い、地面へと二名は吸い込まれていく。
「眠れ――」
首を拘束し、逸らすこと叶わないアルシエンティーの瞳へ『停止命令』が送り込まれる。主以外の者の命令を入力され、一度は大きく瞳を開いて抵抗を試みるも、アルシエンティーは深い眠りへ落ちていった。
「……心配させないでくださいよ!」
決着を知り、駆け寄るナナの目尻には微かに涙が浮かんでいる。海里は、アルシエンティーから優しく手を離すと立ち上がり、破顔してみせた。