2.勝手のきかない身内達―天敵
「昼飯を買い出して行かないといけないな」
「もうそんな時間でしたか」
お仕事前に腹ごしらえですね、とナナは拳を握って意気込む。結局、叔父から依頼を受けることにして、早々に二人は屋敷を出ていた。
「いやいや、仕事するのは俺だから」
何でこのお嬢さんは意気込んでるのだろうか、海里は歩きながら疑問符を浮かべている。
「え――私はお留守番ですか?」
「え、て何、えって!」
思わず聞き返してしまった。どうやらナナは今回の依頼を手伝う気でいるようだ。
「海里を頼む。って、おじい様に言われたんですから」
低い声でナナが唸ってみせた。影次のモノマネだろうか?
「いや、それって犬養家の仕事としてのパートナーの話ではないだろ?」
「え、じゃあ、どういった意味だったのでしょうか」
そこまで言って、顎に手をあてて考え込み始める。
『犬養家のパートナーというよりは、私生活のパートナーって意味っぽい気がするんだけどな』
海里は胸中で呟きながら、それもどうだろうかと思う。今の海里にはやらなければならないことが幾つかあり、パートナー探しどころではないというのが彼の本音だ。
「ナナ、先に帰っておいてくれるか?」
不意に思い立ち、こんな言葉を告げていた。
「海里さん、そんなこと言って話をはぐらかすんです?」
「いやいや、今回の依頼をどうするかについては、昼飯を食べてから話そう……屋敷に忘れ物をしてきたんだ。先に帰っておいてくれ」
「わかりました。先に帰ってますね」
特に反論もせずにナナは先へ進んでいく。すんなりと引いてくれてことに、海里は安堵した。別れ際、半眼になっていたことが気にかかったが。
「――おい、もういいぞ。出て来いよサキ」
ナナへ手を振りながら、背後のイヌへと声をかける。本当は声などかけたくもなかったが、下手をしたらかなえの屋敷までつけられかねない。こいつは、驚く程隠密行動に長けている。
「もういいんですか、坊ちゃん」
「あの娘は、犬養のゴタゴタに巻き込みたくないからな」
なるほど、と答える声。いつの間にやら、海里の目の前に長身の男が立っていた。身長百八十程ある海里よりも、まだ高い。久しくなかった他人から見下ろされる感覚に、海里は嫌悪感を隠そうともしない。
「敬服してない相手、しかも年下相手だ。その話し方は慇懃無礼にしか思えんぞ?」
見下ろされることだけではない。ナナに言った通り、祖父の飼いイヌの片割れであるこのサキを、海里は天敵のようなものだと認識していた。普段からあまり怒らない彼が、何故これ程までに嫌悪感を抱いてしまうのかは、本人にもよくわかっていない。
「犬養家の時期当主へ敬語を使わなくて、誰に使うんですかね」
言葉だけを見れば、真面目にやりとりをしているような印象を受ける。だが、くっくと喉の奥から漏れる嗤い声は相手への敬意を欠いていることを物語っている。
海里はサキに、枯れた狼のようなビジョンを重ねる。祖父に従っているが、決して飼いならされてはいないのではないか。初めてサキに会った時から、彼を苦手としているのはこの男の表情にあるのかもしれない。
「何か用か。お前はお前で忙しいんだろ?」
当然こちらも忙しい、と先手を打っておく。さっさとこの場を立ち去りたいことを暗に示しておいたつもりだ。その様を見てサキは、はてと首を傾げてみせた。
「先程、一件調べをつけてきたところです。挨拶くらいしても構わないでしょう」
やはり嗤いながらサキは続ける。祖父の件でサキが動くとなれば、妖相手か――海里はふとその話に興味を持っていた。
「気になりますか?」
「……今は何を追っている?」
相変わらずの嗤いが癪に障ったが、尋ねざるを得ない。かなえが言うように、常々情報は仕入れておくべきなのだ。この狭い町ではどのような事柄が自分や身内に関係してくるか、わかったものではない。
「他人の視界を奪う輩です。意識を奪う訳でもなく、視界を乗っ取って干渉してくるタイプですので、結構厄介なやつですね」
多分妖の仕業ですよ、と付け加える。普段ならばもっと勿体ぶって話すところが、随分と素直に情報を提供してくれる。そこに一抹の不安がよぎった。
「何か、よからぬことを考えてはいないか?」
真っ直ぐにサキを見据えて質問をぶつける。しかし、返ってきた言葉は海里の想像だにしないものだった。
「妖の不始末は、妖がつける。そういうもんですよ、坊ちゃん」
「……」
ゆったりと答えたサキは、それまでと違い真摯な、それでいて哀しい目をしていた。既に祖父からサキには獣の血が混ざっていると聴かされていたが、改めて聴かされることに少々たじろいでしまう。今の彼の口ぶりでは、同種族であっても害をなす者は始末をつけると言っているように聴こえて仕方がない。
「坊ちゃんはお優しいですね。人間社会に暮らしているんですから、多数決には従うべきなんですよ。何も考えずに、ね」
そして、再び乾いた嗤いを浮かべるサキ。その笑みは自嘲的にも見えて、海里は続ける言葉が見つからなかった。
「ところで、坊ちゃんの方は今回どんな依頼を受けてるんですか?」
「こっちは人探しだよ。従妹の夕个を探して来いって話だ」
妖に比べれば随分とかわいい依頼だろう。
「……その件、手を引きなさい」
「な、なんだよ」
途端に厳しい口調になる男に、海里は焦りを覚える。今の言葉のどこに失言があったのか。
「夕个お嬢さんは、犬養の能力を使いこなせていないものの、犬遣いとしては立派なもんです。坊ちゃんのような半人前が出ていったら――」
「出ていったら、何だっていうんだよ!」
思わず、食いついてしまった。海里はサキを相手にする時、今のように冷静になれないことが多い。
「それですよ。冷静さがあなたには足りない。アルシエンティーは、見た目よりも遥かに獰猛です。それに夕个嬢の的確な指示が入ったら、まずあなたでは敵いませんね」
勿論、この私にも。と付け加えてサキは愉快そうに笑った。一年半前、初めて出会った時から気に喰わない相手だったが、期間を空けてもやはり祖父以上に仲良くできそうにないと海里は思った。
「既に旦那様から命令を受けている私に、あなたの命令はききませんよ?」
こらえようとポケットで拳を握りしめていたところであったが、ついカッとなってしまった。海里は意地でも停止命令くらいは与えなければ、とジッポを取り出す。
「――っ」
「手の内が読めてますよ、坊ちゃん」
ポケットに入れた左手をその上から踏まれ、機先を制されてしまった。続いて、サキは胸倉を掴んで、力任せに海里を放り投げる。
『やばい――』
三メートルは浮かんだか。人外の力で放り投げられてしまっては、海里になす術はない。受け身を取ろうとするも、それすら間に合わない。
「やめておきましょうね」
後頭部にサキの足が入り、地面への直撃は免れた。だが、勝ち誇る相手の嗤いを見るくらいならば、頭を打ち付けた方が遥かにマシだと思ってしまう。
「手を出してきたのはそちらからですから、これでチャラですよ」
イヌは背を向け、犬養の屋敷へと去っていく。まるで無防備な背中だ。今ならありとあらゆる襲撃が可能だ。海里は脳細胞が沸き立つ感覚を覚える。
「……はぁ、何やってんだ、俺は」
一度湧き上がった感情が急速に萎えていくことを自覚した。物事には優先順位がある。これもかなえに出会ってから覚えたことだ。
海里は立ち上がり衣服についた砂をはたくと、駅前のスーパーを目指して歩き出した。いつかは本気で挑みたい相手ではあるが、それは今ではない。