1.休暇明け
「……来たか!」
犬養海里は、先程まどろんだばかりであったが、眠気を断ち切るように勢いよく身を起こした。
“携帯の電子音は耳に障る”と、普段なら嫌悪の対象以外の何者でもないのだが、今ばかりは天使の歌声にすら思えていた。
点けっぱなしにしていたテレビから、最近起きた事件の続報が流れている。大して興味はないが、情報を聞き流しつつも頭へ入れる――興味はないくとも、ニュースを見るには訳がある。ある程度の情報を掴んでおかねば、いざ仕事という際に困りかねない。
携帯を手に取れば、液晶には午前六時前であることが表示されている。小一時間は眠れたことを確認すると、上体だけを起こした姿勢で海里は電話に出た。
「おはようイヌカイ」
愛くるしい、しかし不機嫌そうな声が彼へと伝わる。
「……ああ」
身体はまだ眠りたがっているのか、一言を出すまでに少々の間を要した。ぶっきらぼうな返事であったが、電話の相手を気にする必要はない。
こんな時間に電話をよこすような相手など一人しかいないし、どんな内容であれ、今の海里にとってはこの電話は睡眠よりも優先される。
「お前には向かないと思うが、仕事の依頼だよ」
海里の思惑通り、“かなえ”から仕事の知らせが入った。ゴキゴキと関節を鳴らしながら指示を待つ。
「なるべく早く来い。詳しい内容は会ってから話す」
かなえは終始不機嫌そうな声のままだったが、対称的に海里は口元を綻ばせては、すぐに支度に取りかかった。
「やっと……」
眼鏡を手に取り、鏡の前に立つ。伸びてしまった髪を整えると、思わず口にしてしまう。
「……やっと、固形物が食えるぞ!」
金欠生活の末、空腹のあまり眠れていなかった海里の目が、大きく開かれた。
良い香りが海里の鼻孔をくすぐる。目の前に置かれた紅茶ではなく、セットにされたサンドイッチへ海里は熱い視線を送っていた。
「遠慮せず召し上がってくれ」
客人に食事を勧めたかなえは、紅茶をすすりながらニイッと口元を釣り上げる。西洋人形のように整った顔立ちの少女がする仕草ではないが、それがかえって似合って見える。
大きな眼帯をしていることも手伝って、少女らしさというよりは彼女らしさを引き立てていた。今も長いストレートの黒髪を、気怠そうにはらっている。
「い、いただきます」
遠慮がちな言葉とは裏腹に、サンドイッチを掴む手に遠慮はなかった。このタマゴのサンドイッチは、ここへ来るまでに海里がベーカリーで購入したものだ。
ふっくらとした生地と、しつこいくらい濃厚なタマゴが財布とお腹に優しく、近所でも評判の一品だ。加えていうと、サンドイッチを購入した海里の手元には十円玉が一枚しか残っていない。
「っ――おいしい!」
本心からの言葉だろう。食べた本人は満面の笑みを浮かべている。しかし、今の言葉は彼の口から出たものではない。
当の海里は、タマゴサンドがかなえの前に座る客人の胃袋に納まっていく様を、指を咥えて見送っていた。
「ゆっくり食べたまえ。ああ、イヌカイ、おかわりだ」
それまでの気怠さはどこへやら。上機嫌に紅茶を飲み干すや否や、かなえは次の催促をはじめる。
「……ああ」
電話を受けた時とは真逆の声の調子で、海里はキッチンへと引っ込む。お世辞にもよいとはいえない目つきが一層悪くなっていた。
「あの、本当によかったんですか?」
客人は、かなえ越しに奥へと視線を送りながら尋ねてくる。かなり遠慮がちな態度だ。背こそかなえより高いが、華奢さも相まって一層小さく見えてしまう。
「まったくもって問題はない。それにな――」
可愛らしい声とはかけ離れた、底意地の悪い笑みを隠そうともしていない。依頼主の視線を、話を遮るように、大仰に手を広げてみせた。
「それに、摂るものを摂らねば、落ち着いて話もできまいよ」
すーっと、声のトーンを落ち着いたものへとシフトさせていった。この客人、改め依頼人は明らかに動揺をしている。
平素の落ち着きがあれば、誰もこのような屋敷を訪ねてはこないとかなえは常々思っている。
曰く、町はずれのお屋敷には魔女がいる。この町に住む者ならば、一度は耳にしたことのある噂話だ。魔女がしでかした秘術・事件の具体的な話は誰も知らない。であるというのに、この町では誰もがその噂を真に受けている。
何ということはない。魔女の存在を肯定した方が、この町で起こる不可思議な現象の数々に納得ができるのだ。
「さて、では聞かせてもらおうか」
お屋敷の魔女は、噂に似つかわしい顔つきで話を促した。現代の非日常は彼女の領分。小さな魔女は、これまた大仰な素振りで足を組み直しては、その身を依頼人の方へと乗り出した。
「改めて詳しく聞こう。キミが、昨日殺害されたというその話を」