1.勝手のきかない雇い主―次の依頼
ひとしきり食事を終えたところで、海里はかなえのレッスンをどうやって活かすかを考えようとしていた。小鳥が囀る、穏やかな朝だったが――
「夢を見ました」
ナナがぼそりと一言漏らしたことで、かなえの魔女スイッチが入ってしまった。単に夢を見たというだけであれば、何ということはない。食卓での会話の延長にも思われる。
『人を殺した記憶です』という物騒極まりない言葉さえなければ。
「悪いものであっても、記憶が戻ったと考えればいいのか?」
「まてまて、慌てるな。全てはその記憶とやらの詳細を聴いてからだ」
手を広げて、魔女が焦る海里を制する。その口元は愉快そうに釣り上がっている。
常識の埒外で生きる彼女は、人が目を背けてしまうような事物にこそ、強い関心を寄せる。今のように興味深いと笑う魔女を見ると、海里は少しばかり危うく思ってしまう時がある。
「焦る必要はない。人を殺したと話す割に、本人には衣新奈の時のような狼狽は見えない。まずは話を聴いてからだ」
海里の視線に気づいたのか、かなえは高揚する気分を抑える。ナナに向かって努めて冷静に話を促した。
「はい。自分で言ってて矛盾するように思うのですけど――」
前置きをしてナナは語り始めた。
「なるほどな。整理するから、五秒待て」
それまで黙って話を聴いていたかなえが口を開いた。海里はその表情を見て、先程の危うさが杞憂であったことに安堵した。
かなえが興味を持っているのは、あくまで常識外の現象だ。否、もっと言えば現象を整理することにのみ、彼女は強い関心を持ち続けている。何故異常ともとれる現象の整理に固執するのか。海里は一度問うてみたことがあったが、その時にははぐらかされてしまっていた。
「ふむ。何通りかのケースを想定してみたが、その記憶、お前さんのものではないな」
「え、私のじゃ、ない?」
「その通り。一言で表せば、衣新奈の時とは似て非なる状況ってところだな」
「かなえ、どういうことか俺にもわかるように説明をしてくれよ……」
海里は頭を抱えた。かなえは思考の整理が終わったようで、ふぅと息をついてソファーに深く身を預けていた。放っておいては、自己完結されてしまう。
語った内容を要約すると、『夜に、たまたま目があった少年を路地裏に誘い込んで、胸を一突きした』ということらしい。
海里はどこか釈然としない思いで、ナナの話を聴いていた。
「ただ、どうやらこの夢は、昨日のことなんですよね」
どうして昨日と気づいたかはわからないんですけど、とナナは言う。
「……は?ますますわからない」
「説明するから、変な合いの手入れるな」
「すみませんでした!」
思った言葉をすぐに口にしてはいけないと海里は思った。魔女が眼帯を入れ替えるジェスチャーをしている姿が見える。かなえの魔眼は本気で怖いと思ったことは、今度こそ胸中でのみつぶやいた。
「ナナの言う夢は、少し説明的すぎるな」
「え、どういうことです?」
「つまりだ。今聴いた話から考えるに、夢にしても自己体験にしても、描写が客観的すぎるってことだ」
海里もその言葉を聴いて、ナナの話に覚えた違和感の正体を掴みはじめていた。
「もっと言えば、他人の体験した情報を知らぬ内に取り入れてしまっている、そんなとこだろう。ほれ、衣新奈の時と似ているが、少し違うだろう?」
「……にわかには信じがたいけど、かなえさんに言われると納得しないといけない気がします」
うーん、と眉間を指で押さえてナナは応える。
強力な暗示にかかって、別人の記憶を自分のものと思い込まされていた。その際の記憶は曖昧になってしまっているものの納得せざるを得ない――自分ではない者の記憶を自分のものとして誤認することがあるということを。
「だけど、それって」
あり得ないとは言えないまでも、そう頻繁に起こるようなことなのだろうか。海里はここで新たな疑問を持ってしまった。
「ああ、この際言っておくか」
あくまでも仮説だが、とかなえは付け加える。ナナもその姿に真剣な眼差しを送っていた。
「ナナは、相当に強い瞳の持ち主だ。その回路は下手をすればイヌカイ以上だな。その仕組みとしては、自分に近い感覚の人間の感情や記憶を、他人のものとは識別しないまま受信しているのではないか、と思う」
衣新奈として現れた時にかなえが覚えた違和感は、自分のことでありながら出来事を客観的に語りすぎるというものだった。恋人に殺されたということが事実であれば、何故そのようなことになったのかと、原因を求める。或いは、理不尽な目に合わされたことに対して報復を望むか、ではないか。
ともかく家に帰りたい。当時彼女から受けた依頼内容は、当事者から聴かされた言葉とは容認しがたい内容だった。これは本来の彼女、ナナ自身の願いが混ざっているのではなないか。
「恐らく、睡眠時に無意識のまま受け取ってしまったのだろう。今のナナに必要なのは、思考の整理であって――と、すまん電話だ」
かなえが話を止めて、携帯電話を取り出した。
「私です。ああ、元気ですよ、そちらは?」
かなえへの電話は珍しい。家族からであったのなら邪魔をしてはいけないだろうと、海里は腰を上げた。
「こら、どこへ行く?お前にも関係ある話だから、座ってろ」
メッ、と子どもにするような仕草で叱られてしまった。ああ、すみませんとかなえは通話を続ける。
「わかりました。では、そのように――」
電話を切って、かなえは再び息をつく。心なしか、先程よりもぐったりとしているように映る。
「で、どこまで話したかな。ああ、思考の整理が必要だ」
何事もなかったかのように、先程の話へと舵を取り直してみせた。
「ええと、なんだ。つまりは、記憶が混濁しているところに新しい情報が入って困っているのが今のナナだ。だから、解決策は至ってシンプルだぞ」
「何で俺を見るんだよ?」
「そりゃあお前が鍵だからだよ」
「は?」
これで本日何度目になるか。数えてはいないが、またしても間の抜けた声を上げる海里。しかしその様を口撃するでもなく、かなえは真剣な目をして続けた――次の依頼だ、と。
「先程の電話の相手、オオジジ殿からの依頼だ。これからナナを連れて行って来い」
「……な」
なんで、という言葉も憚られた。
「なんでもクソもあるか。前に言っただろう、ナナは本来オオジジ殿を訪ねる予定だった、と」
ナナがこの町に来る前に、どうやら海里の祖父を訪ねていたらしいということは、既に海里も聞かされていた。
かなえが行けというからには、それなりに意味がある筈だ。だが、どうしても祖父と会うことはためらわれてしまう。
「……海里さん、お願いします」
ナナの真っ直ぐな目に見つめられては、断りづらい。それに、ここでは問題として取り上げられなかったが、実際には人一人が刺されている筈だ。放ってはおけない。
「厭だけど、観念しないといけないか」
そうと決まればさっさと用件を済ませて帰りたい。海里は腰を上げて、すぐさま出かける姿勢に移った。
「あ、海里さん待って! かなえさんが、辛そう」
ナナの視線の先。ソファーに座る、を通り越してソファーに埋まっていた。携帯電話も紅茶も放って、視線はやや虚ろな様子だ。
「おい、大丈夫か?」
朝とは打って変わった雇い主の姿を見て、駆け寄ろうとするが、手のひらを掲げるかなえに制止されてしまう。
「早朝に張り切りすぎた。身体が痛んで動けないだけだから、大丈夫だ」
海里さん、とナナが困った視線を投げかける。こんなに弱った魔女の姿を目にするのは珍しい。だが、当の本人が大丈夫だと言っている以上、何もできないのではないかと海里は悩む。
「いいからとっとと依頼を受けてこい」
「……手早く片付けてくるから、大人しくしてろよ?」
「お土産に、紅茶買ってきますね」
二人は今度こそリビングから外へ出ようと動き始めた。
「ああ、イヌカイ」
「なんだよ?」
訝しげに振り返ると、弱った魔女が優しい言葉を口にする。
「オオジジ殿のところにいっても、ケンカすんなよ。ジイさんは大事にしろ。あとパートナーさっさと見つけて安心させてやれ」
「……わかった。なるべく応える」
お前弱っちいから、と最後まで魔女らしい言葉が背中に刺さる。言い返してやろうかと思ったが、そこは黙って、海里は屋敷を後にした。