1.勝手のきかない雇い主―ある朝の風景
「おはよう、ナナ」
朝になり姿を見せた人物へ、優雅に挨拶をするかなえ。手にしていた紅茶は一度置いて、そちらへと視線を送る。
「お、おはようございます」
リビングの異様な光景を目にしたナナは、扉を閉めて私室へ戻ろうか、などとついつい思ってしまった。
朝食の時間が近づいていたため、部屋に入ったわけだが、入室するなり驚いた。彼女の視界に飛び込んできたのは、ソファーに投げ捨てられた海里と、その上に座り紅茶を嗜む魔女の姿であった。
投げ捨てられたかどうかは彼女は見ていないためわからないが、そう形容することが相応しく思える。
名づけ親が先日見せた果敢な姿はどこへやら。目は開いているというのに、どこか遠くを見つめては小刻みに震えている。何があったか、今ではすっかり魔女の敷物になっていた。
魔法の絨毯のように飛ぶのだとしたら、是非乗ってみたい。そんな自由な発想に至り、魔女の元へと進んでいった。
「……飛べるんですか?」
人間の上に座るというのは、あまり見慣れたものではなかったが、このお屋敷では何が起こっても不思議ではなかった。何があったか、よりも魔女がこの敷物をどう扱うかが気になっていた。
「飛べないことはない。ないのだが、少しばかり非人間的な手法を使わないといけないから、飛ばさないな。ほれ」
かなえは手近なテーブルからティーポットを掴むと、ナナへと突き出した。お前も座って飲め、と言いたいらしい。
「ありがとう。いただきますね」
「……お前、案外神経太いよな」
柔和な笑みを浮かべて即答するナナ。その姿を正面に据えて、かなえは目を丸くして驚いてみせた。
「何です?」
尋ねられた本人は質問の意図するところが理解できなかったらしく、疑問符を浮かべている。
カップを受け取ったナナは、かなえのお誘い通り手近なところへ腰を下ろした――虚ろな目をした海里の上に。
「そこは私の特等席なのだが……まぁいい。お前は特別だ。朝餉の支度をするから、座って待ってなさい」
「あ、手伝います!」
「よいよい、お前は客人だ。その敷物が逃げぬよう、しっかり踏んづけておいてくれ」
有無を言わさぬよう、手のひらをヒラヒラと振ってみせる。次の言葉が出る前には、音も立てずにキッチンへと魔女は消えていた。
「かなえさんはやっぱり優しい人です。海里さん、今日の朝ごはんは何でしょうね?」
「……」
海里が反応してくれないので、窓の外をぼんやりと眺めた。外は陽も上ってきており、さわやかな晴れ間が覗く。
『夕べのこと、後で二人に相談しないとな……』
夢に見た『記憶』をどう整理したものか。似合わない思案顔になって、ナナは紅茶に口をつけた。
「目が覚めました?」
「ん、ああ」
海里はお味噌汁の香りに導かれ、意識を取り戻した。わかめとお麩のシンプルな味噌汁だが、具は少ない方が好きな彼は内心で、当たりだと思った。
「ご飯を装うくらいは私がやりますね。海里さんは日本茶で、かなえさんは今日は……烏龍茶でいいですか?」
「うむ。冷蔵庫の右手側のやつな」
「えっと、かなえさん、目玉焼きにケチャップはわかります。でもタバスコは――ああ!何滴かけてるんですか!!」
かなえの瞳の影響はとうに抜けている筈だが、海里は目を白黒させながら、その光景を眺めていた。しゃもじをもったまま、冷蔵庫を開け閉めする姿や、やたらめったら香辛料を使う姿に面食らったわけではない。何と表現したらよいのか。ともかく目の前の光景に戸惑っていた。
「何してるんです?食べましょうよ」
「あ、はい。いただきます」
目の前には温かいご飯とお味噌汁。他にはトマトとキュウリを切っただけのサラダに、目玉焼きが添えられている。
「からーーーーーい!!」
「だから言わんこっちゃないんですよ。はい、烏龍茶」
「すまぬ……だが、良い味なのだ」
ごほごほとせき込みながら、かなえは烏龍茶を呷った。
「人のことばっか見てないで、イヌカイもさっさと飯食えよ」
「食べるってば。食べるから、箸で人を指すのはやめなさい。お行儀悪いから」
「そうですよ、折角の愛らしさも半減です!はい、海里さんには温かい日本茶、と。私もいただきます!」
醤油のかかった目玉焼きを口に運びながら、海里はぼんやりと目の前の風景を再度眺めていた。
何気ない朝のやり取り。単に食卓を囲っているだけであったが、海里にとってはこれまで想像のしようもないものだった。未知の体験であるのに、恐れはない。
この感覚は、何と表現したものか。知らぬ内にうーんと唸ってしまう。
「何だ、いつにも増してマヌケ面しおって。ひょっとして、口に合わんかったか?」
「いやいや、悪くないぞ」
殊勝な態度でこちらを気にかけるかなえを見て、すぐにかぶりを振った。
口にした通り、今のこの時間は悪くない。温かい食事を摂りながら、自然と溢れ出た言葉を反芻していた。