エピローグ
海里は目を瞑って、かなえの問いを繰り返していた。
『自分の望みと役割を理解できていない人間に、他人を救うことはできん』
この言葉は彼の心に強く残っていた。今回の依頼では少なからず、自分の気持ちに正直になっていた筈だと、彼は思う。
しかし役割はともかくとして、『望みは何か』という問いへは、まだ答えが浮かばずにいた。
「……」
薄目を開けて隣を見れば、依頼人はまだ手を合わせている。右手の薬指には、指輪が未だ変わらず光っていることが覗える。
彼女の記憶は衣新奈のものと混濁 したままで、本当の名前も記憶も曖昧。それにも関わらず、この指輪はお屋敷の魔女を尋ねる以前から付けていたことだけは覚えている。そんな言葉を海里は聴いていた。
『結局、依頼は達成できていないも同じか……』
彼女のたっての希望で、衣新奈の墓参りにやってきていた。
別人であることは疑いようもないが、彼女が衣新奈の記憶、特に『殺された記憶』を持っていることは、他者には理解が難しいだろう。その複雑な心境が少しでも整理されるよう、海里は静かに待った。
「お待たせしました、海里さん」
瞳を開いた彼女は、初めて出会った時よりも幾分か幼い印象を受ける。
「え、あ、全然。待って、ないです。待ってないよ?」
やましいことなどない筈なのに、慌ててかぶりを振ってみせた。改めて見てみると、かなえより年上、自分よりも年下だろう、と海里は目星をつけていた。
「ところでだな……」
「何です?海里さん」
健康的な笑みを向ける彼女に、言葉を続けることが何だかはばかられてしまう。かなえの家で目覚めてからは、『海里さん』と呼ばれれている。そのことへいささか戸惑っているのも確かだが、他にも困ってしまうことがあった。
『いつまでも依頼人とは呼べん。適当に名前つけろ』
墓参りの前に、かなえからお達しがあったのだった。初恋の女の名前でもいいぞ、と邪悪な笑みを浮かべていたことが印象深い。
あれはやはり魔女だと海里は、一層の用心を誓った。
「いや、帰りに何食べて帰ろうかな、と思って。ナナ、は何が食べたい?」
「そうですね。私はスパゲッティが食べたいような……」
ナナと呼ばれて、彼女は自然に反応を返していた。うーん、と顎に手を当てて考え込むポーズは、本来知的に見えようものだが、彼女の仕草はそれには当てはまらない。
ぶつぶつとつぶやいている言葉はカレー、ラーメン、ハンバーグ……と子ども受けしそうな食べ物ばかりだ。それらが彼女から、大人っぽさを根こそぎ奪い取っていた。
だが、今ではその様が不思議と彼女らしく見えてしまう。
「ま、歩きながら考えようか」
「オッケーです!」
子犬のように瞳を輝かせながら、海里の後を追うナナ。身長差がかなりあるのだが、歩くスピードは速く、海里の背中にくっつきそうな距離を保っている。
「近い近い……」
ぐいっと頭を掴んで、左脇へと誘導してみせた。かなえの屋敷で休養をしたものの、まだ海里は足を引きずって歩いている。
その彼を待つでも追い越すでもなく、傍らで彼女は昼食を思案し続けていた。
『案外、すんなりと馴染むものだな』
一度口にしてしまえば、こなれたものだ。今のナナには、衣新奈という名前の方がむしろ違和感を覚える程だ。
この馴染む感覚を、何と表現したものか……海里は昼食を決めることを放って脳を回していた。
「あ!」
はたと立ち止まる少女。何やら思いついたようで、笑顔にイタズラっ子のような色が窺えた。
「サンドイッチが食べたいです!」
サプライズを成功させたように、得意顔で彼女は海里さんも食べたかったんじゃないですか?と続けた。
「ああ、そういや先日食べ損ねていたっけか」
衣新奈と名乗っていた時のことも、彼女は覚えていたようだ。この提案に乗るのはやぶさかではないな、と海里は笑みで返答していた。
「たまごサンド、非常においしかったです」
味を思い出したのか、ナナは目を瞑って一層の笑みを浮かべる。その顔を見て、海里はふと思った。案外、知らぬ内に望みが叶っているのかもしれないな、と。
依頼を受けた時、深刻な表情を浮かべる新奈を笑顔にしたいと彼は漠然と思っていた。笑顔にしたらどうなるのか、そんなことなど考えてもいなかったが、こうして笑みを浮かべるナナを見ては自覚せざるを得ない。
「給料入ったし、とっておきを紹介するよ」
海里は交差点を曲がり、ベーカリーへと進路を取る。コストパフォーマンスが一番良いのがたまごサンドであるが、お札を払っても対費用効果が十分に得られる一品があるのだ。
これを食べた彼女はどんな顔をするか、今から楽しみで仕方がない。
「ほんと?じゃ、急ぎましょう!」
「――ぁ」
小さくはあったが、思わず声を漏らす。ナナが傍を走り抜けた時に、ふわりと良い香りが海里の鼻腔をくすぐった。
「ああ、そうか」
これまた他には聞き取れない程度の声でつぶやいた。永らく独りで暮らして忘れていた。誰かと一緒に過ごすという旧い記憶の感覚が呼び起こされる。
人が傍にいるという感覚は、こんなにも落ち着くものであったか。海里は歩みは止めず、目を瞬いていた。
『落ち着くと言えばそうか』
今度こそ、声には出さず、胸中で一人噛み締めるようつぶやく。隣で笑うこの少女からは、会って間もないにも関わらず、どこか懐かしい匂いがしていた。
ミミナリ、一話終了。
書ききれていないことがあったため、エピローグを追加しました。
以下、設定メモ再掲。
タイトルの休間隔は、嗅覚と旧い感覚とのダジャレ。
嗅覚が強い人間をと思い、ゲストはそれぞれ9画の泉矜持と命名。
9画×3で、恋人は27(ニーナ)に。衣新奈も27画で構成してみた。
そんな遊び心で、一話はじめました。
ここまで読んでくれた方に感謝。