4.■感覚―ハードワーク
9月6日 表現修正
「ハァ、ハァ……」
酸素不足に肺が締め付けられる。自分が倒れた時間から考えると、何かが起こっていても不思議ではない。くそ、くそ、と海里は一人毒づいた。
「ああ、くそ!」
公園まで走り抜けたところで、犬を連れない犬使いは一度足を止める。膝に手をおいては、腰を折る姿勢になって酸素を求めて喘いだ。
「走って、、きた、はいいけど、どこに、、、いるんだよ」
テーンテテーン。
いやに愉快な電子音が夕方の公園にこだました。
「ぶあはははっははは!!」
通話ボタンを押すや否や、相手の盛大な笑い声が海里の耳に届く。
「おま、お前、場所も分からず走りだして、は、走りだして!」
ヒィーヒィーと、自らの下僕とは異なった理由で魔女は酸欠になりかけていた。
「笑うな……必死だったんだよ」
耳元まで真っ赤になっているのを海里は自覚する。普段からニヤつく割に、腹の底からはあまり笑わないかなえのツボは理解しかねる。
呼吸困難に陥る程に滑稽だったのかと分析を始めれば、海里は却って冷静になっていった。
「場所もわからないが、じっとしてらんなかったんだよ。因みに、今は公園にいる」
「うむ。計算通り!」
「……嘘つけよ」
丸眼鏡の淵を抑えて、海里は大仰に溜め息を吐いていた。
「探してくれるのはありがたいが、あまり左目を開くなよ?」
かなえは面倒くさがりの癖に、よく無茶をする。そのことを知っている下僕としては、心配の言葉も出ようものだ。
「もう元に戻した。それよりも、周りを見たらお望みのものが見つかるぞ」
……多分、と言葉を付け加えることは忘れない。いつもの様子でかなえは少し先を告げる。
「周りったってよ……」
電話を耳に当てたまま、海里はぐるりと辺りを見回す。
公園で見られるものなんて、家路へ帰る子どもに、遊具、やたらほえまくる犬の集団くらいしか――
「見つけた」
電話を切って、海里は歩を進める。犬たちが集まっている階段、その先の神社へと。
「そっちから来てくれるとはな」
手間が省けた、と男は嗤う。その周りでは犬たちがギャンギャンと吠えまくっている。
「当たり前だ、依頼は完遂してナンボだろうが。とりあえず――お前はぶっ飛ばす」
海里は静かに睨み返す。それを見た男は、やれやれと溜め息を吐いてみせる。
「駄犬が、お前の匂いは気に喰わん」
男は手袋をはめた両手を勢いよく合わせた。
パン――
「やばっ!?」
反射的に飛び退く海里。初戦では不意を打たれたにしろ、ただ蹴られて終わってしまった。同じ失敗は繰り返さないよう、注意深くいたことがよかった。
「この、匂いは……」
甘い香りが微かにだが伝わり、犬使いは顔をしかめる。結果的に自分の判断は正しかったと思い至る。
アパートで男と出会った時に嗅いだ甘ったるい香りは、離れていても多分に神経へ障る。頭の中がむずがゆくなり、思考にノイズが入るとでも表現するか。
頭をぶんぶんと振りながら、海里はその誘惑に耐えた。
「嗅覚を狙ってくるのか」
「ほぅ、ただのバカではないのか」
なるほどなるほどとつぶやく男――スン、と鼻を鳴らしながらニット帽を深くかぶり直した。
「お前のライターやトランプは、さしずめ意識を狙ってくるってところか」
二回目の対峙にして、お互いに狙いを言い当ててみせた。
五分の状況だと言いたいところではあったが、海里は胸中で舌打ちをしていた。ジッポをカチャリと鳴らしながら考える。
『不味いな』
さっきまで五月蝿いほど吠えていた犬の鳴き声が、ピタリと止んでいた。
男は両手を開き、ゆっくりと海里へと歩みを進める。その後ろを犬たちが付き従っていた。
男の身長は高くも低くもない。背丈で比べれば、海里の方が断然高い。恰好はパーカーにジーンズと身体のラインは見えづらいが、横幅があるとも思えない。
しかし、相手が他人を操作する能力の持ち主である時点で、体格などは関係がなくなるものだ。じりじりと差を詰められながらも、未だ残る五メートル程の距離をどう制するか――海里は一度迷ったように視線を這わせていた。
「何にしろ、やることは決まってるさ」
カチャリ――ジッポを取り出しては歩き出す。昼間の公園の時とは異なり、犬たちはその動作には目もくれない。
『バカが』
男はほくそ笑んだ。アパートのやり取りから、海里が意識を奪いに来ることは明白。それ故、先手を打って犬の思考は既に奪ってある。
思考能力が低下した状況で、火を見た程度で犬が意識を取り戻すことなど――
「それ」
呟き、犬使いはジッポを高く放り投げた。
「!?」
思わず男の視線はその先を辿る。海里から視線を切ったのは、ほんの一秒にも満たない。
「しまっ――」
だが、身長百八十を越える海里の蹴りが、男の腹に突き刺さるには十分な時間だった。
「くそ、やってしまえ!!」
咳き込みながら、男は犬たちに命令を下した。海里の立ち位置は先程男が居た位置、つまり犬たちの中心だ。
思考が鈍った犬は単純に、ただただ真っ直ぐに、海里へと駆け出す。
ピュィーーーーーーーィン――耳を突く大きな音。
「――ッ!?」
その場の犬たちのすべてが、先程の男のように空を見上げた。
身の危険を感じ取った犬たちが異音の元へと意識を向けた。その意識の隙を逃さず、海里は『眠れ』と命令する。
大きな音と火薬の匂いの後に、犬が死んだふりをしたように動かなくなった。
「……ロケット花火、だぁ?」
「ここまで大きい音だと、注目しちまうわな」
ジッポを拾いながら、海里は肩をすくめてみせる。日頃の彼では取らない人を喰ったような動作も、相手を誘うための布石だ。
実際に、相対している男は肩を震わせている。
『そうだ、乗ってこい』
優勢に見える海里だが、胸中はひりついていた。ここで相手が冷静になって距離を取られては、この先に打つ手がなくなる。
神社を降りて、人が多いところへ出られるなどもってのほかだ。海里は複数の人間相手に『命令』をコントロールできる程の力量は持ち合わせていない。
「ふっざけやがってーーー!!」
思惑通り、頭に血が上った相手は直線距離で海里へと突っ込んできた。
『後は野郎の目に、停止命令をぶつけるだけ』
最早ジッポアクション程度では驚くまい。何より、相手は他には目もくれずに一心不乱に海里へと向かっている。
その姿を見て、丸眼鏡を外して強く睨んだ。
「止まれ」
裸眼になったことで、より一層本来の自分のまま“視る”ことに意識が集約される。
視線を介しての命令の入力――突撃と停止の矛盾する命令に、対象は動きを止めざるを得ない。単純に相手の行動を止めるだけならば、意識に空白を作る必要すらない。
使いどころが難しいが、型にはまればこの上なく効力を発揮する。海里のとっておきだ。相手がいかにニット帽を目深に被っていようと、この距離では流石に視線が交錯する――筈だった。
全く手応え、否、目応えがない。思わずジッポを手元から取りこぼしていた。
「捕まえた」
カツン、と金属が地面に落ちる音と、厭に冷静な男の声。
「がっ――」
身を捻ろうとしたが、間に合わない。口元を掴まれてしまった。
粉のような物が口腔内に侵入してむせるが、口元を強く握られて咳き込めずに喉を鳴らすだけに留まる。
「俺の目を狙っていたか?」
男が空いた手でニット帽をずり上げる。
「――っ」
甘ったるい香りが脳に侵入してくる中、海里は音も出さずに呻いた。これには視線を叩き込みようもない――男の目は両方とも瞑られている。
「目が見えない分、鼻が良くてな」
スンと鼻を鳴らしては、口元を釣り上げる。相手の策は通じず、己の手は見事に決まった。男はここにきて優位に立ったことを確信していた。
「匂いってやつは何にでもあって、その微妙な変化で位置関係なんかも手に取るようにわかる。表情は見えなくとも、感情が変わる時にも匂いでわかるんだ。お前、切り札が利かなくて落ち込んでんだろ?」
力を失くし、膝をついた様子を嗅ぎ取り、男は多弁になる。ついには海里から手を放して高らかに演説してみせた。
「ライターを投げた時は何事かと思って、そっちを向いてしまったが、冷静になればなんてことはない。目の見えない俺には、奇をてらいようもなかったな」
ケヒヒと下卑た笑いが耳に障る。
『何やってんだ、俺……』
ようやく自由になり、気管が異物を吐き出そうと必死に咳き込む。相手が手を放したこの機会が――
「あ……」
海里の視界がぐるりと回る。手を前に出したつもりが、顔から地面へと落下した。
「おお、よく利くよく利く。感覚が遮断されるってどんな気分?」
愉快でたまらない、と男は手を叩いて笑っている。
「さて、どうしようか。自宅に持ち帰って細切れにしようか。どうしようか埋めようか。ああ、匂いの操作は俺得意だから、腐臭でご近所さんが騒ぐこともないから、安心してくれ」
男は小躍りでもせんばかりだ。
『どこか、動かないか?』
「匂いが変わった。まだ諦めてなかったの?諦めの悪い男はもてないぜー、なぁ、新奈」
「そうだね矜持」
海里は唯一自由に動く目を、男の奥へと向けた。声がした方を見ると、依頼主が男のすぐそばまで歩みよっていることがわかる。
服装は肌の露出の多い、けばけばしい装いに変わっている。彼女の瞳は依頼を受けた時よりも、それよりも弱々しく見えた。
「見てんじゃねーよ」
男のつまさきが海里の肩口にめり込んだ。
「……か、か」
言葉を発しようとしたが、口が上手く動かない。弛緩したように、だらしなく唾液がこぼれ落ちた。
仰向けに転がされて、歪んだ視界がより一層ぐるぐると回り始める。逆さまになった風景が回りだし、男や依頼主、犬たちやジッポなどを順番に巡らす。
ジッポを掴もうにも、さっきから指先が全く動かない。脳の命令系統が止まってしまっているようだ。
『ああ、何も浮かばない』
要らぬことを思い出してしまったと、思うが、海里は思考を放棄しかけていた。結局、食事が摂れていない。勢い込んで来たものの、カロリー不足の脳は命令を手放そうとしている。
ぐぎゅるるぅ――遂には盛大に腹の虫が鳴る始末。
「だっせーな、オメェ」
男がケヒヒと嗤っている。
「……ぁ」
依頼人がふと、こちらを見たような気がした。その瞳は最初に見た時のように弱々しい。
「あー、やっぱこの場でやっちまおう。うん」
男が懐からウィスキーの瓶を取り出すと、おもむろに叩き割る。簡易ナイフの出来上がりである。
ピンチだというのに、段々と腹が立ってきた。どうやら認めざるを得ないようだ。
『俺、この人の前では格好つけたいんだな』
認めると何かが楽になった。
『最初に信じたままやってみろ』
何度も繰り返すものだから、かなえの言葉が海里の頭を不意によぎる。きょろきょろと落ち着きなく動き回る目が、彼女や何やらこの場にある物を捉える。
思考は放棄した。というよりも、海里は考えることには向かない。ただ、瞳はこれまで反復したことをなぞるように動き続ける。
「とどめといこう」
動き回る瞳は、男が真上へ来たことも確認していた。
『俺が信じたもの? 決まっている』
直上に男が迫ることを見据えて、俺は改めて心で呟く。
こんな綺麗な眼をした人が悪人な訳がない、と。認めると幾分か楽になった。後は、声にするだけだ。
『この人を困らせるヤツは、俺が――』
「俺が、ぶっ飛ばす!」
これまで他人には怖くてできなかった、アクションを起こす命令。それを俺は、ジッポに映る自分の瞳に全力で叩き込んだ。
「がっ――」
男が何か発したか、その音が耳に残った。
意識のタガを完全に外して、人体構造すら無視して、俺は全力での蹴りを実行していた。
ブチブチと、筋繊維の切れる音がする。今は身体の感覚がバカになっていることが幸いした。
蹴りをぶち込んだ感覚すらなかったが、相手が俺の身長よりも高く吹っ飛んだ姿は目で追えた。
そして、視界が徐々に暗転していく。
意識が飛ぶ、ほんの一瞬前に、依頼主が心配そうにこちらへ駆け寄る姿が見えた気がした。
それは俺の願望が起こした幻か?
自分って思っていたよりもロマンチストなんだな、とどうでもいい感想が浮かんだ。