4.■感覚―解
パートナーがいた。未熟な自分に文句も言わず従ってくれる、そんなパートナーがいた。
子どもの頃から続いた関係に主従を越えたものすら錯覚した時もあったが、脈々と受け継がれる命令 を前に、確認する術はなかった。
だからこそ悔やまれる。あの時、敵に向かうよう命令をしていたらどうなったのか。
いや、自分を守るよう命令していたのかもしれない。
今となっては確かめようもない。
ただ、付き従ってくれた愛犬の面影を追い求め、うつ伏せのまま手を伸ばした。
『ねぇ……』
妙な声が頭に痛いくらい響く。
身体は地面に縫い付けられたように動いてくれない。
にしても、本当に身体が重い。まるで背中を踏みつけられているようだ――
「ねぇねぇ、起きてってば……」
高い声に海里の意識が呼び戻された。
「……つっ」
意識と一緒に感覚が戻ったようだ。頭が痛い。
そして、背中に重みを感じる。いや、それだけではない。背中がグリグリと押されている。一体、何の攻撃だ!?
「おい……いい加減起きろ」
うつ伏せのまま、背後に視線をやると、そこには自分を踏んづけてグリグリとかかとを回す雇い主の姿が。
「はよ、起きろ!」
「かなぇ、ぐぇぇぇ」
ズン、と縦に受けた重力が胃を貫いた。
「う、うぷぇ」
海里の空っぽの胃袋から液体が絞り出された。
「わー、ばっちぃなぁ、イヌカイ」
もんどりうっている海里の姿を見ても、かなえはぐりぐりと踏みつけるのをやめてくれない。
「起きないなら、アレだぞーっ」
風もないのに、かなえのスカートがはためく。アレだけは厭だ!海里は必死に筋肉に動くよう、命令を飛ばした。
「起きた!もう起きたから!!」
ガバっと身を起こして、雇い主に抗議してみせた。
「起きた?…………ちっ」
『舌打ち、だと!?』
海里は口元を拭いながら、状況の把握に努める。
跳ね飛ばされたかなえが、舌打ちしたにしては上機嫌にこちらを見ていた。
その様子は機嫌が悪いどころか、かつてない程の上機嫌だった。跳ね飛ばされたままの姿勢で、右目の眼帯に手を当てながら、ケタケタと笑っている。
「お前、目……」
まだ意識がハッキリしていなかったが、海里は覚醒させられる。
決して、かなえのパンツが見えたからではない。普段ならば、パンツ丸見えなシチュエーションを普段の仕返しとばかりに口撃するところであるが、今はかなえの黒いTバックどころではない。
そう――眼帯の位置が、スイッチしている。
いつもは塞がれている左目から、ガラス玉のように透明な眼球が覗いている。無色透明な瞳は、ほの明るい綺麗な光を放っていた。
「じゃ、答え合わせといこうか」
かなえが立ち上がり、愉快そうに口元を釣り上げた。
「結局、衣さんは殺されてなかったってことだよな」
後頭部を押さえながら、海里は呻いた。今更ながら、灰皿で後頭部を打たれたことを受け入れようとしていた。
「いや?衣新奈は死んでるだろ」
「は?」
かなえの言葉の意味がわからず、阿呆面をしてまった。
「待て待て、何といったらいいか、その、アレだよ、アレ」
いつもとは異なり、なかなか言葉が出てこないかなえ。眼帯を入れ替えるとこうなることはよくわかっている。
“左眼を開いている時のかなえ”は、この世界とは別のナニカを見ている。その情報をこの世界の言葉に合わせるのには時間が必要になる。
危機的とも思えるこの状況だが、かなえが左眼を開いている時点で、この事件は既に終わっているともいえる。
取り立てて急かすこともなく、海里はかなえの言葉を待った。
「そう、衣新奈は死んでいるが、依頼主の“衣新奈と名乗る女”は生きているってことだ」
「……は?」
海里は思わず、空腹も忘れて目を白黒させた。
「知らなかったか?私は、依頼主を一度も、“衣新奈”とは呼んでいないぞ」
「……」
記憶を辿れば、確かにかなえが彼女を名前で呼んだことはなかった。
「いや、だとすれば……彼女は誰なんだ?」
「そーれはわからん!」
「は?」
仁王立ちに腕組みをして、かなえは断言した。
さっきから海里は疑問符を浮かべてばかりだ。
「依頼主が誰かよりも、今のことを危惧した方がいい。時にイヌカイ、ニュースは見たか?」
「ニュース?」
新型の携帯電話が出たという記憶はある。
「その通り、ここ最近女性の白骨死体が幾つか見つかったということだが……」
……海里の思惑は見事に外れた。そう言えば、電話を受けた時に事件の続報が流れていたような気もする。
「ありゃアレだな。男の喰い物にされたのだろうな……哀れな」
かなえが笑みを止め、ほんの一瞬だが真顔になった。
「……結局、首を絞められた女はいたってことか」
海里が拳を握りしめる。かなえの表情に応えるかのように、その拳は震えていた。
「お前さ、今回の件は最初からわかっていただろ?」
一段声のトーンを落として尋ねる。
「だとしたら?」
お屋敷の魔女は動じない。それがどうしたと言わんばかりの表情で海里を睨み返した。
「複数の女が犠牲になっている。そこへ、依頼人を放り込んだことの意味が、知りたい。」
「……随分素直になったな」
にやにやと、かなえは口元を歪めて見せた。
「その殊勝さに応えよう。今回の依頼人が屋敷に来る前に、何者かに記憶を飛ばされていたことはわかっていた――」
「おい、かなえ」
そこまでわかっていながら何故と、海里は後頭部よりも、心音が強く鳴り響く感覚を抑えられそうにない。
「待て待て、最後まで聴け――自身の名前すら記憶から失われた彼女と、巷で話題の女性の白骨死体。ピンとは来たが、ここで動いては、わからないことがある」
ビシっっと人差し指を海里の鼻元へと突き立てた。
「……どうやって、依頼人を衣新奈と思い込ませた、か?」
「ご明察」
ぱちぱちとかなえは拍手を送った。単なる誘拐の話ではない。依頼人の話を真に受けるならば、連れられた女性たちはみな『衣新奈』として日常を過ごしていた筈だ。
全くの他人として過ごす、そのことの是非は――
「男は状況を限りなく再現する能力を有した人間だ。記憶すらねつ造できるその力は恐ろしいな。故に方法が分からねば、真に依頼は達成できない」
かなえが毒づくように吐いて捨てた。
「……ただ野郎を倒すだけじゃダメってことか」
海里はニット帽の男の姿を思い出していた。言葉も交わしていなかったが、これだけはハッキリとわかる。
――あの男は気に喰わない、ということだけは。
「おいおい、いきり立つなよ小僧。お前にはまだやってもらうことがある。わかるよな?」
からからとかなえが笑う。
「……ああ」
海里はジッポを弄びながら答えた。
その表情から緊張は見てとれるが、絶望した様子は一つとして見られない。一度打ちのめされた後で尚、勝算が自分にはあるといった顔だ。
「では、とっとと行って来い――」
「いってぇ!!」
かなえのスカートがはためくと、海里は膝元に軽い衝撃を受ける。
「何で蹴るんだよ!」
距離にして三、四メートルは開いていたが、激励を込めた蹴りが確かに海里にヒットしていた。
痛みに目をチカチカとさせながら、『おまえな』と抗議をしようかと思ったが、呑み込んだ。
かなえは咄嗟に拭ってみせたが、その鼻元と手の甲が鈍色に染まっていた。
「あーーー、もう、無茶しやがってからに!」
鼻血をこぼすまで左目を開いたかなえを見て、海里はバリバリと頭を掻き毟った。
かなえが左目で見ている世界、それはこちらとは異なる世界だという。こちらとあちらをつなげるコストはいかなるものか。
『蝕まれた身体でだが、できる限り期待に応えよう』
改めて、初めて出会った時のかなえの言葉を思い出す。
「お前な、無茶はたいがいにおっぷぅ――」
再び不可視の蹴りが海里を襲う。今度は鳩尾に入った。
スカートがふわっと舞い上がっては、再びパンツが見える。見えるが、今の海里には喜ぶ余裕もない。
「い、いきなり、何を……」
「いきなりとはお言葉な」
ニタニタと気丈に笑いながら、かなえは指を刺す。
「はぁ!?」
思わず叫んだ。
かなえの指先、アパートの室内に備え付けられた時計は五時を回ったことを示している。
『一体どんだけ眠ってたんだよ!』
「くっそ、お前、話が長すぎんだよっ!!」
吐き捨てて、海里は玄関のドアノブへと手を伸ばす。
「おい、イヌカイ――」
「ああ?」
扉を開け放ちながら、海里は首だけを室内へと向ける。
「繰り返すが、最初に思った通りにやってみろ。いいな?」
愉快に口元を歪めるかなえ。
その透明な瞳は、一層眩い光を放って映った。